【NWC】12月 神様のお使い 〜神様の本音〜

 厄介な新人がいるというのは誠が前部署にいた頃から有名な話だった。


 その年の期始めに開催された経営計画発表会のライブ配信で、誠は初めて洋人の姿を目にした。容姿は平々凡々だが、終始穏和な笑顔を絶やすことのなかった洋人を見て「嘘くせぇ」と反感を持ったことを覚えている。

 自分の成績を上げるために適当な口約束をした挙句、手に負えなくなって技術部に駆け込んでくる営業は山ほどいる。この男もいずれそういう社員になっていくのだろう、と誠は苦々しい気持ちでスポットライトの中の新人を見ていた。

 洋人の活躍は目覚ましいものがあり、その名は瞬く間に社内に知れ渡った。そして、危惧していた厄介事に技術部が巻き込まれ、誠もその煽りを食らったわけだが、大方の予想通り上層部に持て囃されたのは営業ばかりで、支援を請け負った技術部には労いの言葉も見返りもなかった。

 やって当たり前、出来て当たり前が非営業部門の宿命とはいえ、サービスの根幹を支え、業務の効率化に日々貢献しているのに、ナメクジのような速度でしか昇級されない待遇への不満は大きい。それでも辞めるとか転職するという道も選択できない身の上に悶々としていたある日、誠はハッテン場と呼ばれるその筋の店から、洋人が男と一緒に出てくる姿を目撃してしまった。

 自身も利用した経験があり、どんな目的を持った人間が集まる場所なのかを知っていた誠は、高校生と思しき若者の手を引いて歩く洋人を見て心底軽蔑し、いつか絶対にあの悪魔の鼻を明かしてやろうと固く心に誓ったのである。


 その後、保守にとっては左遷人事とも言うべき、コールセンターへの異動が決まり、くさくさした気持ちで新天地に赴くと、なんとそこにはあの新人がいた。殊勝な態度で挨拶し、あっという間に周囲に溶け込んだ洋人を見て、誠の怒りと警戒心はピークに達した。新人賞だろうが、社長賞だろうがこの男が犯罪者であることに変わりはない。二人の歓迎会が開かれたその夜、誠は嘘をついて洋人の家に上がり込み、自分が見てきた事実を告げ糾弾したのである。

 洋人は自身が性的マイノリティ当事者であることは認めたが、高校生に手を出した疑惑については確たる証拠を持って否定した。

 そして誠は説教された。


『こんなことしていいんですか? 八階に通報しますよ?』


 年齢にして三歳、社歴にして五つも下の洋人に、である。

 ちなみに八階というのは市街の一等地にある本店八階のことで、総務部と共にコンプライアンスの受付窓口が設置されている。セクハラ、パワハラ、その他諸々社内のお困りごとはこちらまでというやつだ。

 当然と言えば当然だが、いきなり犯罪者呼ばわりされて洋人は怒っていた。

 状況的には誠が土下座するなりなんなりして許しを請う場面であったが「クソ共が!」といつも心の中で営業を罵倒していた誠は、自分に非があると分かっていても絶対にそんなことはしたくなかった。


『そういう場所に行くってことは、そういう目的だったんだろ?』


『違います! 真面目に彼氏見つけようとしてたんです……待ち合わせしてたんですよ。あそこで』


『……で、どうなったの?』


『………………』


 会社では決して見せることのない悪魔の仏頂面からすべてを察した誠は、彼氏候補にフラれて、消化不良の欲望を持て余しているであろう若者にある提案を持ちかけた。成り行き上、誠が洋人のマンションに宿泊することは暗黙の了解だったので、それなら一晩ぐらいと粉をかけたのだ。

 洋人は最初、社内の人間はNGだと拒否する姿勢を見せていたが、アルコールと誠のキスに酔いが回ったのか最後まで拒絶することは出来ず、グズグズになりながら誠を受け入れた。誤爆問題をうやむやにできたばかりでなく性欲処理までできてラッキーぐらいに思っていた誠に、そこで大きな誤算が生じた。

 洋人とはあまりにも身体の相性が良すぎた。

 形? 身体の構造? それともテクニック? 何がどう作用しているのかは全くわからなかったが、洋人の柔らかくて暖かい身体に包み込まれた瞬間、誠は童貞になってしまったのではないかと錯覚するほど余裕を失ってしまった。

 繋がれた部分だけではなく、洋人の反応、声、視線、タバコのフレーバーが残った甘い吐息、あらゆるものに誘引されて身体の抑えが全く利かない。それは洋人も同じだったようで、本来の目的が何だったか失念してしまうほど二人は夢中になって互いを求めあった。

 朝になって酔いが醒めると洋人の顔には明らかに後悔の色が残っていたが、誠はざまみろ営業だとかストレス解消だとか、それら諸々は一旦棚上げし、下心満載で事実上のセフレ契約を持ちかけたのである。

 過去一の相手が『悪魔』の異名を持つ社内の有名人。巨大な猫を被って人好きのする営業マンを演じている洋人であれば、誠と関係したなんて絶対に公言することもない。社内でちょこちょこつまみ食いをしては修羅場へと発展していた誠にとって、洋人のような口の堅い人物は恰好の獲物であった。

 一蹴されたらそれまで。ワンチャン狙いで押してくる誠に対し、営業トークの回避術などお手の物と思われた洋人はしかし、拒否することはせず大いに悩み戸惑いながらもそれを承諾した。

 貞操観念に多大な問題のある二人は、性欲の強さも似たり寄ったりであった。 

 誠は品行方正で知られる洋人が額面通りの男ではないことを知り、珍しく他人に興味を抱いた。一度意識すると何となく視界に映り込む洋人の姿が気になりはじめた。仕事での絡みが増えれば会話も交わし、会話が増えれば普段洋人がどれほど巨大な猫を被っているのかが、より鮮明に見えてくる。そして誠は「皆騙されてるよなぁ……」と遠くからその光景を眺めて愉しんでいる自分がいることに気付いた。

 洋人と出会って一年半。

 いつの間にかセックスだけでなく、洋人の隣にいること自体に居心地の良さを感じるようになっていた。日々の問題に追われ、杞憂だらけの未来に疲れ果て、ずっと一人になりたいと思っていたはずなのに、誠の中で何かが変化していた。

 しかし、残された時間は余りにも短すぎた。


「あと一年半か……」


 最短三年で異動と考えると、同じ職場で働ける時間はあと半分だ。

 左遷人事の誠とは違い、洋人はキャリアアップのために短いスパンでいろいろな部署を回ることになるだろう。上層部はそれを期待しているし、洋人もそれを望んでいる。古巣に戻りたいという願望はあるものの、将来の展望もこれと言った夢もない誠には別世界の話だった。

 誠の口から白い息が漏れた。

 あと一年半ではどうひっくり返っても時間が足りない。それとも、距離が離れてしまえば案外平気になったりするものだろうか……誠には過去、恋人という肩書を共有した人間が男女を問わず数人いたが、こんな気分になった相手は初めてだった。

 身体だけの関係だったせいか、洋人は誠のバックボーンを知っても淡々としていた。過去の恋人たちからも、それ以外からも、何十回と聞いてきた「私がいるからもう大丈夫」「一緒に頑張ろう」という常套句はついぞ現れず、誠の方が拍子抜けしたほどだ。


 弟が生まれるよりもずっと前、誠が物心付いた時から家は異様な状態だった。

 幼いながらも、誠は自分の家が普通でない事を理解していた。近所のおばさんから後ろ指をさされるような家庭だったし、家に帰れず公園に行けば、たむろしている母親たちが眉を顰めて自分たちを見ていた。クラスメイトの家に遊びに行っても笑顔で対応してくれるのは最初だけで、すぐに嫌な顔をされる。礼儀がなってない、身なりが汚い、おやつを持ってこない、ゲームを独り占めする……後になって誠は、自分が「放置子」と呼ばれる存在なのだと知った。

 普通って一体何なんだ、と誠は幼い頭で自問自答を繰り返していた。

 何とかこの状況から脱出しようとあの手この手を試したが、相手に依存して主体性を失った母を動かすことはできず、母親の彼氏に知られれば容赦なく暴力を振るわれた。

 そして、本来親が築くべき数多の「普通」を置き去りにしたまま母は死んだ。

 誠は高等専門学校を卒業後、大手通信会社に就職し、弟を引き取ったが、それでも普通とはほど遠い生活が待っていた。当時の弟は小学生でまだまだ手のかかる子供だった。二十歳にして扶養家族あり。弟の事情で誠は遅刻早退、欠勤もザラだった。扶養手当が付いたところで、そもそも初任給が低いため、予算内に納まる賃貸は築三十年超の日当たりの悪いボロアパートだ。そこに生活費と、弟の出費がかさむと自分のためのお金など工面できる余裕もない。夏、冬のボーナス時期だけ僅かなお金を自分のために確保する。誠はそんな生活をもう何年も続けていたのだ。

 誠が弟のミノルを引き取ったのは、母を救えなかった自責の念と、普通の生活に対する憧れからだ。ただの意地とも言う。誰かが「普通」を構築しなければ、二人は永遠に「あの家の子供」のまま生きていくことになり、それができるのは誠以外にいなかった。

 高校生になり、実は家計の足しにとバイトを始めた。自分のスマホ代と家の電気代を払ったら、残りは小遣いにして良いという約束で最初の二年はうまく回っていたが昨年、洋人と付き合っていることを知られた辺りから、電気代の支払いが滞り始めた。

 兄に恋人ができたことを知った真正ブラコンの実が徹底抗戦に出てきたのだ。誠には兵糧攻めが最も効果的だと実は理解してやっている。実が電気代を入れていた時期、誠は昼食の内容が向上したし、ちょこちょこ小銭をかき集めて数か月に一回ぐらいは街で遊ぶこともできたのだが、現在財布に残っているのは今週の生活費のみ。ここから出費をすれば必然的に明日以降の昼食代を削ることになる。

 マジ、クソ野郎だな。

 誠が心の中で唯一の家族に毒を吐いた時、ポケットの中から着信を知らせる電子音が鳴り響いた。


「なに?」


 画面には「弟」の文字が表示されている。無駄な会話は抜きで、誠はいきなり要件を尋ねた。


『いや……今、何してんのかなと思って』


「コンビニに行くところ」


 実の背後で誰かが騒いでいる声が聞こえる。酒が入っているのか、やけにテンションが高い。今日、実はバイト仲間に誘われて遊びに行っている。遊ぶ金があるなら家に入れろという話だが、今まで弟からそんな話を聞いたこともなかったので、一週間前に打診があった時、誠は大いに悩んだ。金がない。それだけのために実の行動を制限してしまうのか。

 電気代と「遊興費」比較するまでもない案件だが、電気代と「普通の十八歳」を天秤にかけるとどうだろう。そう考えると、まず先に電気代を払えとは言えなかった。苦渋の選択を迫られ不承不承誠が許可を出すと、なぜか実はさらに不機嫌になった。散々喧嘩をした挙句、売り言葉に買い言葉で実はそのまま友達の家に泊まると言うので、誠も洋人の家に転がり込むことにした。

 当然、実もこうなることを予測していたであろう。だから、友人宅にいるにも関わらず、午後十時を回ろうかというこのタイミングでわざわざ電話をかけてきたのだ。

 兄の動向を探るために。


『え? 今から飯?』


「んなわけねーだろ。用事ないなら切るぞ」


 くだらない電話の相手をするのも疲れてしまう。


『まさか、あいつにパシらされてんの?』


「お前には関係ない」


『マジか……何なんだよあいつ。コンビニぐらい自分で行けっつーの! 何様のつもりだよ⁉︎』


「いいんだよ」


『良くねーだろ! そんなの拒否って誠はゆっくり休んでおけばいいんだよ』


 あー、面倒くせぇ。

 電話の向こうでギャーギャーと洋人批判を展開している弟を黙らせるべく、誠はスマートフォンを耳から離し、正対するように顔の前まで持ってきた。


「ゴム買いに行くとこなんだよ! これ以上邪魔すんな!」


 その瞬間、電話のラインが切れた。

 本当にどうしようもない弟だ。しかし、独立してしまえば立派な大人である。あとは自己責任で野垂れ死ぬなり結婚するなり好きに生きろというのが誠のスタンスで、そんな気配を感じているのかこの数ヶ月、実の不安定さが際立っていた。

 兄に対してこの状態なので、当然洋人への当たりはもっとキツイ。であるにも関わらず、煩わしいことこの上ない実の言動を右から左に受け流して平然としている洋人を見ると、誠はいよいよ「こいつしかいないのでは?」と切羽詰まった気持ちになってしまうのだ。

 もうずいぶん前から洋人の存在は誠の人生に影響を及ぼしていたのに、二進も三進も行かないところまで進んでしまってからそれに気付くなんて、質の悪いエラーのようだと誠は思った。

 誠はデバッグをかけるように、何度も何度も頭の中で洋人と関わらない人生を想定してみたが、洋人が洋人である限り自分に回避できる術はなかった、という結論に達した。かき集めた小銭を手に、数か月に一度の娯楽を楽しむためにあの店へ行ったことも、自分の弟と似たような年齢の男をひっかけていた洋人を見て大憤慨したのも必然でしかなかった。

 惚れるが負けという恋愛の法則に従えば、誠はとっくに負けている。それを素直に口にして、洋人を困らせたり戸惑わせてしまうことを恐れるほどに。

 できることならこの先も、ずっと一緒にいたい。

 それが誠の本音だ。

 しかし、それを望む前に、いつ何時でも『実が独立したら』という行動制限がついてしまうため、どうしても恋人のことは後手に回ってしまう。

 甲斐性のないセックスフレンドではなく、当初の予定通り永遠を誓える理想のパートナーを見つけることなど、処世術に長けた洋人には造作もないことだろう。

 洋人がこの関係を解消したいと言えば、それですべては終わる。

 社内では恋人だ何だと囃し立てられいるが、それが二人の現状なのだ。


 赤っ恥覚悟で少女漫画のようなロマンチックなサプライズを実行してみようか。


 前方に見えてきたコンビニの電灯に向かって誠は左手を翳してみた。

 タバコでも避妊具でもない、もっと確かなもので気持ちを伝えれば洋人の信頼を得ることができるだろうか…………とは言え、高価なものを今すぐ準備できるほどの蓄えはない。指輪にとって代わるもので、誠が今すぐ準備できそうなものと言えば職場にある結束バンドインシュロックぐらいだが、さすがにそんなものを指にはめたら、サイズはぴったりに調節できても殴られてしまうだろう。

 今以上の稼ぎを得るには副業しかないが、会社員であり、洋人の手前表立ったこともできないので、隙間時間にコツコツできるものを探さなければならない。そんな都合の良い内職が果たしてあるのだろうか。

 グルグルとあれやこれを考えながらコンビニまでやってきた誠はピロピロ音を立てる自動ドアを潜った。入口からすぐ右に折れ、生活用品が置いてあるトイレ付近の棚の前まで移動する。

 陳列された目的の品物は三種類。薄くて三個入りのが二つ。絶望的にコスパは悪いが、そのうち一つは洋人の家にあるものと同等の商品だ。そしてそれより安い六個入りのが一つ。お財布事情だけ考えれば六個入り一択だが、使用感がすべての品にケチ臭いことは言いたくない。

 洋人がネット通販をいつ頼んだのかは知らないが、とりあえず今夜、そしておそらく明日の朝、更にはいつどこで洋人とそうなってもいいように自分の財布にいれておく分、と考えると……。

 一箱プラス一個で足りるのだろうか。

 誠の脳裏にそんな疑問が浮かんできた。

 少なくなったら声をかけろと洋人は言っていたが、誠が持ち出したコンドームはすべて洋人のために消費されているのだから、てっきりストックも把握しているのだと思っていた。方や、洋人のタバコは一箱六百円。それがあれば誠が吸ったとしても確実に二日は待つ。であれば、優先すべきはタバコではないのでは?


 怒られるかな……?


 そう思いながら、薄くて高い三個入りのパッケージを二つ手に取る。

 二箱買ってきた、と伝えたら洋人はなんと言うだろう。

 誠は、あと十分後に起こるであろうそのやり取りを頭に思い浮かべながらレジへ向かった。

 洋人は呆れながらも頬を染めて「バカですね」と優しく諭してくれるだろう——多分、きっと、そんな気がする。


(終)

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