02話 星野誠

 厄介な新人がいるというのは誠が前部署であるネットワークセンターにいた頃から有名な話だった。


 その年に開催された経営計画発表会のライブ配信で誠は初めて満島洋人の姿を目にした。

 容姿は平々凡々だが、終始温和な笑顔を絶やすことのなかった洋人を見て「嘘くせぇ」と反感を持ったことを覚えている。

 自分の成績を上げるために適当な口約束をした挙句、手に負えなくなってネットワークセンターに駆け込んでくる営業は山ほどいる。この男もいずれそうなっていくのだろう、と誠は苦々しい気持ちでスポットライトの中の新人を見ていた。

 洋人の活躍は目覚ましいものがあり、その名は瞬く間に社内に知れ渡った。その後、危惧していた厄介事に保守グループが巻き込まれ、誠もその煽りを食らったわけだが、大方の予想通り上層部に持て囃されたのは営業ばかりで、支援を請け負った保守グループには労いの言葉も見返りもなかった。

 やって当たり前、出来て当たり前が非営業部門の宿命とはいえ、サービスの根幹を支え、業務の効率化に日々貢献しているのに、ナメクジのような速度でしか昇級されない待遇への不満は大きい。

 それでも辞めるとか転職するという道も選択できない身の上に悶々としていたある日、誠は同性愛者の溜まり場となっているその筋の店から、洋人が男と一緒に出てくる姿を目撃してしまった。

 自身も利用した経験があり、どんな目的を持った人間が集まる場所なのかを知っていた誠は、高校生と思しき若者の手を引いて歩く洋人を見て心底軽蔑し、いつの日か必ずあの悪魔の鼻を明かしてやろうと固く心に誓ったのである。


 その後、保守にとっては左遷人事とも言うべき、コールセンターへの異動が決まり、くさくさした気持ちで新天地に赴くと、なんとそこにはあのいけ好かない新人の姿があった。

 殊勝な態度で挨拶し、あっという間に周囲に溶け込んだ洋人を見て、誠の怒りと警戒心はピークに達した。新人賞だろうが、社長賞だろうがこの男が未成年者を手籠にする犯罪者であることに変わりはない。

 二人の歓迎会が開かれたその夜、誠は嘘をついて洋人の家に上がり込むことに成功し、自身が目撃した悪魔の所業を糾弾したのである。

 洋人は自身が性的マイノリティ当事者であることは認めたが、高校生に手を出した疑惑については確たる証拠を持って否定した。

 そして誠は説教された返り討ちにあった


『こんなことしていいんですか? 八階に通報しますよ?』


 年齢にして三歳、社歴にして五つも下の後輩に……である。

 ちなみに『八階』というのは市街の一等地にある本社八階のことで、総務部と共にコンプライアンスの受付窓口が設置されている。セクハラ、パワハラ、その他諸々社内のお困りごとはこちらまでというやつだ。

 当然と言えば当然だが、いきなり犯罪者呼ばわりされて洋人は怒っていた。

 状況的には誠が土下座するなりなんなりして許しを請う場面であったが「クソ共が!」といつも心の中で営業を罵倒していた誠は、自分に非があると分かっていても絶対にそんなことはしたくなかった。


『そういう場所に行くってことは、そういう目的だったんだろ?』


『違います。待ち合わせしてたんです。あそこで……いい感じになった人がいて……』


『……で、その彼氏はどうなったの?』


『………………』


 会社では決して見せることのない洋人の仏頂面からすべてを察した誠は、彼氏にフラれて、消化不良の欲望を持て余しているであろう後輩にある提案を持ちかけた。成り行き上、誠は自宅に帰る気もなかったし、そんな場所に通い慣れた人間であれば話も早い。せっかくだから一回ぐらいと粉をかけたのだ。

 洋人は最初、社内の人間はNGだと拒否する姿勢を見せていたが、アルコールと半ば無理矢理に交わしたキスに酔いが回ったのか最後まで拒むことは出来なかった。そして、グズグズと受け入れ始めた洋人を前に、誤爆問題を有耶無耶にできるばかりでなく性欲処理までさせて貰えて、ラッキーなどと軽く考えていた誠にも大きな誤算が生じた。

 一夜限りで終わらせるには、あまりにも二人の体の相性は良すぎた。

 形? 身体の構造? それともテクニック? 何がどう作用しているのかは全くわからなかったが、洋人の柔らかくて暖かい身体に包み込まれた瞬間、誠は童貞になってしまったかと錯覚するほど余裕を失い、行為に没頭した。繋がれた部分だけではなく、洋人の反応、声、視線、タバコのフレーバーが残る甘い吐息、あらゆるものに誘引されて身体の抑えが全く利かない。

 それは洋人も同じだったようで、当初の予定のなんたるかを失念してしまうほど二人は夢中になって互いを求めあったのである。

 朝になって酔いが醒めると洋人の顔にはあからさまに後悔の色が残っていた。しかし、落胆する洋人に誠は『ざまみろ営業』だとか『ストレス解消』だとか、諸般の事情の一切合切を棚上げしたまま、下心満載で事実上のセフレ契約を持ちかけたのである。

 過去一の相手が『悪魔』の異名を持つ社内の有名人。巨大な猫を被って人好きのする営業マンを演じている洋人であれば、誠と関係したなんて絶対に公言することもない。社内でつまみ食いをした挙句、修羅場へと発展した過去もある誠にとって、洋人のように執着がなく、口の堅い人物は恰好の相手であった。

 一蹴されたらそれまで。ワンチャン狙いで押しまくる誠に対し、この手の回避トークは専売特許だろうと思われた洋人は、しかし、大いに悩み戸惑いながらも、あろうことかそれを承諾した。

 目くそ鼻くそ、ドングリの背比べ、五十歩百歩。貞操観念に多大な欠陥がある点についてはどっこいどっこいの二人であった。


 誠は品行方正で知られる洋人が額面通りの男ではないことを知り、珍しく他人に興味を抱いた。一度意識すると何となく視界に映り込む洋人の姿が気になりはじめ、次はいつできるのか? なんてことを考えるようにもなった。仕事での絡みが増えれば会話も交わし、会話が増えれば普段洋人がどれほど巨大な猫を被っているのかがより鮮明に見えてくる。一旦スイッチが切れてしまうと、人並みに暴言も吐くし、不機嫌を隠そうともしないのに、「皆騙されてんなぁ……」などと遠巻きにその光景を眺めていた誠は、ある日、自分が優越感に浸っていることに気付いた。

 ——しかし。


「一年ちょいか……」


 最短三年で異動と考えると、同じ職場で働ける時間はごく僅かだ。

 左遷人事の誠とは違い、洋人はキャリアアップのために短いスパンでいろいろな部署を回ることになるだろう。上層部はそれを期待しているし、洋人もそれを望んでいる。古巣に戻りたいという願望はあるものの、将来の展望も夢もない誠には別世界の話だった。

 誠の口から白い息が漏れた。

 あと一年ではどうひっくり返っても時間が足りない。それとも、距離が離れてしまえば洋人がいなくても案外平気になったりするものだろうか……。

 誠には過去、恋人という肩書を共有した人間が男女を問わず数人いたが、こんなに長く続いた相手は初めてだった。

 惚れるが負けという恋愛の法則に従えば、誠はとっくに負けている。それを素直に口にして、洋人を困らせたり戸惑わせてしまうことを恐れるほどに。

 できることならこの先も、ずっと一緒にいたい。

 それが誠の本音だ。

 しかし、それを望む前に家庭の事情を抱える誠は、他人と深く関わりを持ってしまうことに引け目を感じ、その一歩をどう踏み出せば良いのかが分からなくなってしまう。

 もうずいぶん前から洋人の存在は誠の人生に影響を及ぼしていたのに、二進も三進も行かないところまで進んでしまってからそれに気付くなんて、タチの悪いエラーのようだった。誠はデバッグをかけるように何度も何度も洋人と関わることない人生を想定してみたが、洋人が洋人である限り自分に回避できる術はなかった、という結論に達した。かき集めた小銭を手に、数か月に一度の娯楽を楽しむためにあの店へ行ったことも、そこで自分の弟と似たような年齢の男をひっかけていた洋人を見て大憤慨誤爆したのも今になってみれば運命という必然でしかない。

 処世術に長けた洋人には甲斐性のないセックスフレンドではなく、当初の予定通り永遠を誓える理想のパートナーを見つけることなど造作もないことだろう。この関係を解消したいと言われてしまえば、それですべてが終わる。

 社内では恋人だ何だと囃し立てられいるが、それが二人の現状なのだ。


 赤っ恥覚悟で少女漫画のようなロマンチックなサプライズを実行してみようか。


 タバコでも避妊具でもない、もっと確かなもので気持ちを伝えれば洋人の信頼を得ることができるだろうか……とは言え、弟という扶養家族のいる誠に高価なものを今すぐ準備できるほどの蓄えはない。指輪にとって代わるもので、誠が今すぐ準備できそうなものと言えば職場にある結束バンドインシュロックぐらいだが、そんなものを真顔でプレゼントしたら、その瞬間に終末を迎えることになりそうだ。


 前方にポツンと灯るコンビニの電灯に向かって何とはなしに誠が左手を翳した時、ポケットの中でスマートフォンが音を立てた。

 洋人からの連絡かとスマートフォンを取り出してみると、そこには弟の表示がある。誠はげんなりと肩を落とした。

 弟のみのるは今日、バイト仲間と泊りで遊びに行っている。一週間前にその打診を受けた時、誠は実と喧嘩をした。

 きっかけは金ではあるが、原因は洋人だ。

 今月も例の如くのカツカツ生活で給料日までの期間をどうやって乗り切るか苦心している誠に実が旅行の話を切り出した。「遊ぶ金があるなら家に金を入れろ」と弟を叱りはしたものの、星野家に十分な蓄えがないのは実の所為でも誠の所為でもない。『普通の十九歳の生活』を思うと誠もあまり強く出ることは出来ず、ゴネる実に「好きにしろ」とで拗ねたのだ。

 人並みの生活をしたいというのは他ならぬ誠が子供の時から抱き続けてきた一番の願いであった。金がないという理由だけで実にその不便を強いることに申し訳なさを感じていたからこそ譲歩したのに、ウジウジ、グズグズと腐った玉ねぎみたいに嫉妬染みた言葉をぶつけられたので、さすがの誠もキレた。

 売り言葉に買い言葉で遊びに出掛けたのなら家のことなど忘れて楽しんでいればいいものを、それを望んだはずの本人がわざわざこの時間に電話をかけてくるという本末転倒ぶりも洋人をけん制したいがための行動なのだ。

 淑女協定の影響があったにせよ、誠に特定の恋人が出来なかったのは適当すぎる本人の性格に加え、実の妨害が影響していた。

 真正ブラコンの実は、男であろうと女であろうと誠に特定の相手ができると、ありとあらゆる手段を使ってその恋路を妨害しようとする。過去の恋人たちが小舅の嫌がらせの前に散って行く中、洋人に関してはそれが全く通用しなかった。結果、焦った実は『兄を兵糧攻めにする』戦法へと方針を切り替えた。


 みのるは高校入学直後からバイトを続けており、そこから幾ばくかの金を家に入れるようになっていたのだが、その支払いが一年以上も滞っている。

 今年専門学校生になった実の学費やら何やらも加わり、星野家の家計は毎月火の車だというのに、これ以上の手出しが増えれば、誠は明日以降の昼食代を削るしかない。

 実が家にお金を入れていた時期、誠は数ヶ月に一回ぐらいは搔き集めた小銭を手に街に遊びに行くことも出来ていたのだ。件のバーから出て来た洋人を見かけたのも、誰に邪魔されることもなく自由気ままにストレスを発散できる貴重な時間の最中だった。

 いい加減、洋人に絡むのはやめろと実にも散々注意はしているが、真正のブラコンは聞く耳を持たないし、洋人の方もニコニコしながら見事なまでにスルースキルを発動させているので、ガチャガチャして喧しいこの状態が最良のバランスということなのかもしれない。


「……っとに面倒くせぇ」


 鳴り止まない電子音に舌打ちをして誠は画面の通話ボタンをタップした。

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