03話 星野実

 弟が生まれるよりもずっと前、誠が小学校に通い始めた頃から星野家は異様な状態だった。


 幼いながらも誠は自分の家が普通ではない事を理解していた。

 近所のおばさんから後ろ指をさされるような家庭だったし、家に帰ることが出来ず公園に行けば、たむろしている母親たちが眉を顰めて自分を見ていた。クラスメイトの家に遊びに行っても笑顔で対応してくれるのは最初だけで、すぐに嫌な顔をされる。礼儀がなってない、身なりが汚い、おやつを持ってこない、ゲームを独り占めする……後になって誠は、自分が『放置子』と呼ばれる存在なのだと理解した。

 友達にも勉強にも興味はない。ただ給食だけを目当てに学校に通い、授業中は教師に叱られない限り寝て過ごす。家にも母にも期待することはなく、誠はずっと早く大人になりたいとそればかりを考えながら暮らしていた。


 そして、母が何人目かになる恋人を家に連れ込んだ瞬間から崩壊へのカウントダウンが始まった。もはや母は母ではなく、無責任に弟を産み落とした後は育児放棄にも拍車がかかり、弟の世話を任された誠は学校へ行くことすらままならなくなってしまった。

 教師が何度も自宅へ訪ねてきたが、その度に母や母の恋人が怒り狂って追い返し、そんなことがある度に誠はこっ酷く叱られ、いつもより何倍も激しく殴られることになった。

 おそらく学校や近所の家から児童相談所に連絡は行っていたのだろう。しかし、救いの手が差し伸べられる前に事件は起こった。

 本来親が築くべき数多の『普通』とみのるを置き去りにしたまま、誠の母は恋人であり、みのるの実父である男の暴力によって死んでしまったのだ。


 施設に引き取られた誠は中学校を卒業後、高等専門学校に進学し現在の会社に就職した。しかし、そこでも普通とはほど遠い生活が待っていた。

 二十歳にして小学生の扶養家族あり。入社後数年間は弟の事情で遅刻早退、欠勤もザラで、実が中学生になるまでは夜間勤務の回数も優遇されていた。会社も上司も誠の事情を理解してくれていたが、そういった配慮の一方で、やっかみや嫌味を言う人間にも沢山出会ってきた。

 手取りを増やすために資格を取得すれば「仕事で楽をしているのだから当然だ」と先輩社員から仕事を押し付けられ、封建的な上司の下に就いた時は、弟が病気だと訴えても「病院ぐらい一人で行けるだろう」と取り合ってくれることはなかった。

 初任給が低かったため、実の校区を変更することなく予算に納まる賃貸は街のはずれにある築三十年超えのボロアパート。そこに日々の生活費と弟の養育費がかさむと自分のためのお金など工面できる余裕もない。権力や上下関係に固執する一部の上司や先輩の嫌がらせを受けながら『何のために働いているのだろう』と自問自答する日々が続く。誠の社会人生活はそんな環境から始まった。資格手当が付き、社歴を積み重ねても、それに比例するように実の養育費も増えていく。

 夏、冬のボーナス時期だけ僅かなお金を自分のために確保する。誠はそんな生活をもう何年も続けていた。


「なに?」


 無駄な会話は抜きで、スマーフォンを耳に当てた誠はいきなり要件を尋ねた。


『いや……。今、何してんのかなぁと思って』


「コンビニに行くところ」


 実の背後で誰かが騒いでいる声が聞こえる。酒が入っているのか、やけにテンションが高い。騒がしい場所が苦手な誠はイベントにもライブにも全く興味はないが、弟が楽しそうで何よりだと思った。そして、のストックが切れていなければ今頃洋人とベッドの中にいたであろう、いつもの流れを想定すると、本当に嫌なタイミングの電話だなと苛立ちを感じた。


『え? 今から飯?』


「んなわけねーだろ。用事ないなら切るぞ」


『パシらされてんの?』


「お前には関係ねーよ」


 みのるはなんとしてでも洋人の粗を捜したいのだろう。しかし、洋人はそんなことぐらいで崩れるような男ではないし、裏の顔というのであれば誠はこれまでの付き合いで散々見てきているので、今更驚く要素は何もない。


『マジか……。何なんだよあいつ。コンビニぐらい自分で行けっつーの! 何様のつもりだよ⁉︎』


「いいんだよ」


『良くねーだろ! そんなの拒否って誠はゆっくりしていればいいんだよ』


 あー、面倒くせぇ。

 無料通話だとは言え、くだらない電話に裂く時間が勿体無い。

 電話の向こうでギャーギャーと洋人批判を展開している弟を黙らせるべく、誠はスマートフォンを耳から離し、正対するように顔の前まで持ってきた。


「ゴム買いに行くとこなんだよ! これ以上邪魔すんな!」


 その瞬間、実の背後で悲鳴と笑い声が同時に湧き起こり、ガサゴソと音がしたと思ったら見知らぬ誰かの声が流れてきた。


『あ、誠さんっすか? お取り込み中にすみませんサーセンでした。みのるはこっちで何とかしますんで、ヒロトさんにも謝っといてください』


「え? あ? うん。わかった」


 ひょっとしてスピーカー通話だったのか?

 誠は切れてしまった電話を眺めながらしばし逡巡した。

 思い切り『今からヤります』宣言をしてしまったが……。


「………………ま、いっか」


 実のバイト仲間は見た目もチャラく、総じてIQが低そうな顔つきをしている。男女含め大抵四、五人でつるんでいて、どいつもこいつも『写メ撮っていいっすか?』と訊ねてくるようなアホばかりだが、誠が風邪を引いた時に、店のまかないや栄養ドリンクを実に持たせてくれるような善良な人間であった。どうやら洋人のことは筒抜けらしいが、弟にこんな友人がいることに誠は安堵していた。

 実の養育もあと一年余り。

 独立してしまえば、あんな弟でも立派な大人である。あとは自己責任で野垂れ死ぬなり結婚するなり好きに生きろというのが誠のスタンスで、そんな気配を感じているのか、この数ヶ月みのるの不安定さは特に際立っていた。

 兄に対してこの状態なので、当然、洋人への当たりはもっとキツイ。顔を合わす度に狂犬のように突っかかり、あっさりと受け流される光景も、もはや定番となりつつある星野家である。

 再来年の春育児から解放され、洋人が異動してしまえば誠は文字通りの一人暮らしだ。あれほど早く大人になりたいと願い、誰に干渉されることのない安心安全な一人暮らしに憧れていたはずなのに、不思議と子供の頃のときめきは感じられず、替わりにスコンと何かが抜け落ちるような感覚がする。

 誠は心にぽっかり空いた穴に気付かない振りで、コンビニの自動ドアを潜った。砂場に掘られた落とし穴とは違い、心の穴はそうと意識しなければ何事もなかったように渡ることができる。

 ピロピロと響く電子音を背に、勝手知ったる店内を見渡すこともないまま生活用品が置いてあるトイレ付近の棚の前まで移動する。

 陳列された目的の品物は三種類。

 薄くて三個入りのが二つ。絶望的にコスパは悪いが、そのうちの片方は洋人の家にあるものと同じメーカーの商品である。そしてそれより安い六個入りのが一つ。お財布事情だけ考えれば六個入り一択だが、使用感がすべての品にケチ臭いことは言いたくない。

 しかし個数を考えると、とりあえず今夜、そしておそらく明日の朝、更にはいつどこで洋人とそうなってもいいように自分の財布にいれておく分……。

 果たして一箱プラス一個で足りるのだろうか?

 誠の脳裏にそんな疑問が浮かんできた。

 片や、タバコの方は六百円で二十本。一箱あれば誠が吸ったとしても確実に二日は待つ。であれば、優先すべきはタバコではないのでは?

 一瞬のうちにそんな計算をした誠は、コスパの悪い三個入りの避妊具を二つ手に取ってレジへと向かった。

 カタカナの名札を付けた店員が指定したタバコをカウンターに置き、「フクロドシマスカ?」と片言の日本語で尋ねてきたが、誠はそれを断って自分のバッグの中にポイポイと三つの箱を放り込んだ。


 ——怒られるかな? とは思ったものの、洋人のことだから呆れながらも、最後は笑って許してくれるだろう。

 その顔を思い浮かべると、すっかり寂しくなってしまった財布の中身や自分の心が温かくなる気がして、誠は大いに戸惑ってしまった。

 洋人に頼ってばかりの現状を打破したい。

 しかし、先立つものがない誠にはどうしようもない。副業を始めるにしても、夜勤シフト込みの隙間時間で対応でき、且つ、洋人に気付かれないという条件をクリアできるものでなければならない。そんなバイトに都合よくありつけるだろうか。

 手放したくないのは洋人なのに、優先すべきは弟というジレンマを誠は歯がゆく思った。しかし、元を辿れば母が残した星野家の債務だ。こればかりは洋人に頼るわけにもいかず、誠は大きなため息を吐きながら帰路に着いた。


*************


 ガチャガチャと鍵を開ける音がしたと思ったら「ただいまー」と後を追うように耳障りの良い声が聞こえてきた。

 リビングでテレビを見ていた洋人は廊下に続くドアを出てお遣いから帰って来た誠を迎えた。


「幾つ買ってきたんですか?」


「二つ」


 『何が』とも聞いてはいないのに靴を脱ぎながら答えた誠の照れくさそうな声色から全てを読み取った洋人は、すっかり冷えてしまったブルゾンの背中に抱き着いた。


「エッチ」


「どっちが」


 誠の耳元で意地悪を言ったら、その背中が僅かに揺れる。

 『何を』とも言ってないのに、タバコではないと洋人が断定したことを面白がっているのだろう。結局のところ二人が求めるものは同じ。

 誠がクルリと体を反転させ、軽いキスを落としてきた。仔猫がじゃれつくような戯れのキスを交わした後、洋人の体温を抱きしめる様に腕に力がこもった。


「実から電話があった」


「……何か言ってました?」


「コンビニに行く途中だって言ったら、お前にパシらされてるんだろうって」


 誠の言葉に洋人はクスクス笑った。

 兄弟とはいえ、種違いの二人は外見的な特徴に重なる部分が少ない。切れ長の奥二重で、全てのパーツがすっきりした印象の誠とは違い、実は一重で目も口も小さく、それらがやや顔の中心に集まったような顔をしている。誠によると、みのるは中学生の頃から色気づいて太い眉を自分で整えるようになったという話だが、髪を切って髭を剃るぐらいしか顔の手入れをしたことがないという誠がチートなだけで、その年代であれば性別に関わらず大半の人間が一度は通る道だと言えるだろう。

 物心ついた時から二人きりの生活で、施設を出てからは誠が親代わり。小、中学校の行事にはもれなく誠が出席するわけだから、注目を浴びないはずがない。半端な格差であれば対抗心も芽生えたのかもしれないが、これほどまでに圧倒的且つ歴然とした差を見せつけられては、嫉妬する前に兄に心酔してしまった実の気持ちも理解できる。

 まさに、彼にとっては『一人占めしたいほど特別な兄ちゃん』というわけだ。


「僕はまた嫌われちゃいますね」


「いい加減兄離れしろっつー話なんだけど」


 そう言って笑った誠の言葉の中に、仄かな寂しさが過った気がして洋人はもぞもぞと顔を上げた。

 気のせいか?

 見上げた誠はいつもと変わらない顔をしている。


「何?」


「いいえ」


 不思議そうに尋ねてきた誠に首を振り、洋人は視線を伏せてブルゾンの袖から出た手を握った。


「早く行きましょう」


「あ。でも俺、シャワー……」


「構いませんよ」


 洋人は躊躇する誠を引っ張ってリビングへと向かう。


「いや、でもさ。意外と汗かいてるよ?」


「そういうのも好きだからいいです」


 『』って何なんだ?

 何の気なしに答えてしまった後で、洋人は自分の言葉に躓いた。とんでもない言葉を口にしたような気がして思考が急停止すると同時に、背中からガバっと力強い腕に引き寄せられた。


「やっぱりお前の方がエロいじゃん」


 笑いながら呟いた唇が、そのまま洋人の項に吸い付いてくる。失言を反芻する間もなく、洋人はベッドに押し倒されていた。黒いブルゾンのジッパーを引き下げながら、洋人は受け止めた体重と同じだけの引力で誠の中に堕ちてゆく。


 ——このままずっと一緒に居られたらいいのに——


 想うとうころは同じなのに、互いを思いやるが故に一歩を踏み出すことができない二人は、ただれた関係にかこつけて今日も恋人ごっこを続けている。

 この現状を打破する手段は『神』の頭脳を以てしても、『悪魔』の処世術を駆使しても、簡単に見つけることは出来そうになかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る