05話 小石真奈美
小石真奈美は欠伸を噛み殺しながらモニターを眺めていた。
日々の業務をこなす傍ら、来る六月に開催される経営計画発表会の準備で広報課の忙しさはピークに達している。
年に一度、ほぼ全ての社員が集結する一大イベントということもあって、それを下支えする広報課の社員は期始めのこの時期からてんやわんやの大騒ぎだ。
しかも、今回の経営計画発表会は創業三十五周年の節目ということもあって、例年とは少し違った趣向を凝らしていた。
その一つとして企画されたのが、
二ヶ月ほど前、グループウェアの掲示板に公開されたアンケートは、二十日の期限を設け、より多くの社員に回答を貰えるよう締め切り間際にリマインドメールも送信した。
努力の甲斐あって約八割の社員が返答してくれたのだが、広報課の社員にはその後の集計作業が待っていた——と言ってもWebサイトを介しているため、項目ごとの数字や割合はアンケート締め切り時点で既に結果が出ている。問題は年鑑誌に彩を添える自由筆記の内容で、真奈美と後輩は何百という返信の中から、各質問毎に「これぞ」というウィットの効いた回答をピックアップしなければならなかった。
回答の選定は、社員間のコミュニケーションを促進する狙いもあるため、堅苦しい雰囲気は程々にしつつも、冊子として後世に残るため砕けすぎてもいけないという繊細なバランス感覚が要求されるものであった。今回の年鑑誌は特別版ということでレイアウトも一から考える必要があり、冊子作製の全工程からするとまだ半分ほどしか作業は進んでいない。
昼食後で眠気が増す中、十把一絡げの回答を目視で確認なんて拷問以外の何物でもなく、普段大人しくしている人間に限ってこんな時こそ目立ってやろう、という自己主張バリバリの回答をしてくるから、尚更面倒だった。
「貴方が選ぶ社内の重大ニュースって言ったら、やっぱ一位はアレですよね……」
真奈美の隣で作業していた後輩の池田が画面をスクロールさせながら話しかけてきた。眠気覚しのコーヒーカップの隣には、チョコレートの紙屑が転がっている。
「あー。『誠ロス』? 全体の三割だっけ? 年鑑誌に掲載出来ないって分かってるのに、皆よく回答するよね」
「かれこれ一年以上経つのに、それだけ衝撃が大きかったってことですよ。経理一課の奥枝さん、ニコニコしながら探り入れてくるんで躱すの大変で。……あれはかなり焦ってますね」
後輩の言葉に苦笑する真奈美の脳裏に一人の女性の姿が浮かぶ。
経理一課の奥枝美保子は、真奈美より二つ上の先輩社員だ。特別美人というわけではないが、自分の容姿に並々ならぬ自信を持っており、この世の男は皆自分を好きになる、と勘違いしている節がある。次期お局筆頭株の彼女は人に媚びることを恥とも思ってない上に、自身の中に確固としたカースト制度を設け、下位と見なすや否や誰彼構わずマウンティングしてくるような灰汁の強い女性だった。
権力、財力、見た目、学歴と傍から見ても非常に分かりやすい基準に沿って行動しているため、イライラすることはあっても適切な距離を保っていれば対処に困ることはないのだが、広報課の人間は仕事柄、派手なイベントであったり、上層部の人間と接する機会が多いせいか、美保子のすり寄りのターゲットになっていた。池田は広報課の中で最も社歴が浅く、まだ脇が甘い部分もあるため、美保子にロックオンされてしまったようだ。
「そりゃね。淑女協定を結んだ推しメン二人がくっつくなんて、女史にとっても想定外だったでしょうよ」
そんな典型的カースト女子の美保子が、特に気に入っている社員が二名いる。
一人は真奈美の同期である、保守グループの星野誠。そしてもう一人が営業部の満島洋人だ。
二人ともイケメンと言って差し支えのない容姿であるが、殊、星野誠については比類のない美貌の持ち主で美保子に限らず、社内外の女性の憧れの的になっていた。
入社直後、社長直々に企業パンフレットのモデルになってくれと声をかけられた話は有名で、誠の写真は今でも制服紹介のページに掲載されている。
愛想笑いの一つも浮かべない、企業パンフレットのモデルとしてはあるまじき無表情だが、そのクールさがファッション雑誌のモデルみたいでカッコいいだの斬新だのと、男女を問わず支持を得ているという話である。
当然、美保子の入れ込みっぷりも尋常ではなかった。彼女主導の元、社内では誠に対する淑女協定なるものが制定され、多くの女性がそれに従った。誠にちょっかいなどかけようものなら、そこかしこに潜んでいる熱烈なファンによって粛清されてしまう。そんなこんなで入社当初はチラホラ耳にしていた誠の恋愛話もいつしか消え去り、不可侵孤高の王子が誕生した。
一方の満島洋人は、二十代半ばの若手社員だ。クールビューティーの誠とは対照的に気さくで人懐っこい彼は、入社当初からトップクラスの成績を収めている営業部期待の新星だった。その活躍は目覚ましく、営業部の長たちは是非我部署に! と洋人を巡り互いをけん制しあっていると聞く。
真奈美も何度か洋人と仕事で接したことがあるが、とにかく人の懐に入るのが上手い男だった。他愛のないテレビの話から小難しい経済の話までどんな話題を振られてもついていける上に、聞き上手でもあるので、話す方もすぐに打ち解けて心のガードが緩んでしまう。
美保子にしつこくされて嫌がる社員は数いれど、そんな女史にそうと気付かせぬまま、ひらりひらりと攻撃をかわしている洋人のコミュ能力は、さすがとしか言いようがない。
そんな二人が一昨年コールセンターに異動になった。
「……にしても、本当なんですかね? あの二人が付き合ってるって。コールセンターって根も葉もない噂がすぐに蔓延しちゃうじゃないですか」
ふわわ、とあくびをする後輩の画面にはチラチラと『誠ロス』という文字が見える。ここ最近のビッグニュースは? という質問に対し、実に三割の人間がそう回答してきたのだ。遠慮して書かなかった者、書きたくても書けなかった者も含めたら、この数字はもっと膨れ上がっていただろう。
「ま、そうなんだけど、今回はガセ情報も流れてこないんだよね……。男同士だから敢えて否定するまでもないと思ってんのか……」
或いは噂ではないからそれを否定する情報が流れないのか。
まぁ、あの男だったら何があっても驚きはしないが……。
真奈美は美貌の同期を思い浮かべる。
入社当初……否、就職活動中の面接の段階で既に星野誠は有名人だった。面接会場でその秀麗な姿を目にしたリクルーターたちが、一斉に誠の噂を広めたのだ。真奈美もその会場にいた一人だが、誠が現れた瞬間、その場違いっぷりに皆が驚愕したことを覚えている。とんでもないイケメンが面接を受けている、というので女子学生のテンションは爆上がり、面接官ですらも誠の顔に見惚れるという異常事態が発生するほどだった。
そして晴れて迎えた入社式。誠の姿を見て内心ガッツポーズを作った女性たちは、早速彼と懇意になるべくあの手この手でアプローチを開始した。
まだ奥枝美保子の包囲網が形成される前、同期という奇跡の共通項でその戦いに挑んだ面々だったが、チョモランマよりも高い誠の前にことごとく惨敗し、晴れてその栄冠を手に入れたはずの真奈美の友人も、その幸せを長く継続することはできなかった。
まず第一に誠のコミュニケーション能力に問題があった。
飲みでも遊びでも、どんな口実で誘っても誠はなかなかそれに応じてくれない。同期会も最初の数回こそ出席していたが、それ以降はどんなに誘ってもなしの礫で、多くの女性がそのきっかけを見失って誠へのアプローチを断念した。
夜勤がある保守グループはそもそも同期会の参加率も悪かった。それに加えて家庭の事情を抱えていた誠は、飲み会に参加しても一次会で帰るという流れがほぼ確定していたのだ。夜勤があってただでさえ予定を合わせにくいのに、保守の人間は休みであっても当番制で緊急携帯を持たされ、非常時には何をしていようと呼び出しに応じなければならない。当番日が重なると遠出をすることも出来ず、行動範囲は職場に急行できる場所に限られてしまう。
しかし、そうやって部署間ギャップで誠を諦めた人間はまだ幸せだろう。孤高の王子、高嶺の花と誠に対して夢を見ていられるからだ。
かつて誠の恋人であった友人から散々愚痴を聞かされていた真奈美は、絶世のイケメンの人間性に多大な問題があることを知っていた。
甲斐性なし、思いやりなし、相手に対する興味なし、と聞けば聞くほどどうしようもない最低男だった。
そんなこんなで、誠に対する真奈美の印象は、かなり早い段階で失墜した。もともと誠に対してそれほど興味を持っていたわけではないが、その友人も退職して久しい今現在、真奈美が誠の話を口にすることもなくなった。そこここで彼の噂を耳にすることはあっても、真奈美自身がその話題を第三者に提供することもない。
それは、同期のよしみというより、真奈美が個人情報の取り扱いに一際うるさい広報課に籍を置いていることにも関係していた。部署の垣根を超えて活動する広報課には、そこで知り得た社員情報、その他の噂話について他言無用のルールが徹底されている。広報課の人間は一旦自分の部署の外に出ると、休憩時間であっても酒席であっても、他人の噂話は絶対に口にしない。業務の華やかさとは裏腹に口の堅さでは社内随一を誇る部署であった。
「小石さんの方にそういう話、入ってきてないんですか? 確か、同期でしたよね?」
故に、この手の話し相手は専ら同じ部署の人間ということになる。
「全然。ってゆーか、星野君、同期会とかそういう飲み会来な……」
「うおおっ!」
真奈美が喋っている真横で、突如池田が声を上げた。あまりにも大きな声だったので、パーティションの向こうにいる情報システム部の社員が何事かとこちらを振り返っている。
「なによ?」
突然大きな声なんか出して! と真奈美が視線で後輩を諌めると、池田はチョンチョンと画面を指した。隣の席に身を乗り出してモニターをのぞき込むと、渦中の星野誠のアンケート回答があった。
*******
『あなたはどっち派?』
Q1 目玉焼きにかけるなら、ソース派、醤油派?
「ケチャップ派」
Q2 ペットを飼うなら、犬派、猫派?
「金がかかるのでどっちもいらない」
Q3 朝食は、ご飯に味噌汁派、パンに牛乳派?
「パンと味噌汁」
Q4 食べるならどっち? きのこの山派、たけのこの里派?
「すぎのこ村派」
Q5 旅をするなら 温泉派、遊園地派?
「スーパー銭湯派」
*******
「見事なまでに最低な回答ですね……」
池田が忌憚のない意見を述べる。後輩ながらなかなか見る目があるな、と真奈美は感心した。
これが誠の親衛隊であれば、今晩からでも、目玉焼きにケチャップをかけるような行動に出るに違いない。誠の人気ぶりは、国民的アイドルグループをも凌ぐ勢いだなのだ。
しかし、当の本人はこういう人間である。
人の意図するところを見事に踏み外し、幼稚で馬鹿で、短絡的。世の女性はこんな男を祀りあげてキャーキャー騒いでいるのだから、不思議でたまらない。
「ん……?」
あれ? ちょっと待てよ。
真奈美は何か引っかかるものを感じて池田のパソコンから体を離した。
「どうしたんですか、小石さん?」
突如、何かに取り憑かれたように自分のマウスを動かし始めた先輩社員に、池田は小首を傾げる。
「いや、なんかこれ……」
真奈美はマウスを動かすのも億劫だと言わんばかりに、画面右端のスクロールバーを上に移動させた。猛烈な勢いで画面が上に動き、ある程度のところまで行ったところで、再びアンケートの集計画面が表示された。
そこからまた微調整で画面をスクロールさせた真奈美は、目的の回答を発見して池田を手招きする。
「何か、似たような回答見た気がしたんだよ。あ、ほらこれ!」
*******
『あなたはどっち派?』
Q1 目玉焼きにかけるなら、ソース派、醤油派?
「出されたものは基本そのまま頂きますが、強いて言うならケチャップ派です。」
Q2 ペットを飼うなら犬派、猫派?
「スーツに毛が付くのでペットは飼いたくないです。」
Q3 朝はご飯に味噌汁派、パンに牛乳派?
「主食はパンが多いですが、スープは何故かいつも味噌汁です。」
Q4 食べるならどっち? きのこの山派、たけのこの里派
「どちらも甲乙つけ難いくらいに好きですが、忘れられない味は従姉妹から貰ったすぎのこ村かも。」
Q5 旅をするなら 温泉派、遊園地派?
「見た目、遊園地派と思われがちですが、実は温泉派です。休日に一人でこっそりスーパー銭湯に行く、なんてこともあります(笑)」
*******
「丁寧に書いてるだけで、最低なことに変わりないですね」
またもや池田が的確な評価を下す。
「でしょ? こういう回答してくる奴がいるだろうな、とは思ってたのよ。星野君といいさ、こんな面白くもなんともない答え、イヤーブックに掲載するわけないだろ、って。ちょっと考えればわかりそうなものだけど」
「いや、真面目に答えた結果がこれなんじゃないですか? 回答はあれですけど、星野さんのとは違って、ちょっと楽しそうな雰囲気が伝わってきませんか? ……このカツコ笑い、とか」
「ああ、ひねくれ者じゃなくて、こっちは残念な生き物系ってこと? ……なるほど。そうかも」
歯に絹着せぬ真奈美の言葉に、池田は笑いを噛み殺している。
「それ、誰の回答ですか?」
「えーっと……」
今回のアンケートは、所属部署のみ必須で、氏名の記載は任意となっている。解答率を評価するために、社員番号はデータとして裏に持っているが、総務が保有する名簿を取り寄せない限り、人物を特定することはできない。氏名の記載がない者は、大半は匿名希望か、イニシャルを指定しているようだった。
問題の回答者は『コールセンターH・M』
「小石さん、これって……」
おそらく、真奈美と同じことを考えたのだろう、池田が何か言いたそうにこちらを見る。
「二人で申し合わせて回答したんですかね?」
「いや。回答時間見てみ」
真奈美はそう言って、自分のパソコンを指差す。
「こっちは、アンケートをリリースした初日。しかも時間は十二時七分。多分、休憩に入る前に回答してる」
多忙な二人は座席表を引っ張り出して、イニシャルH・Mなる人物が何人いるのか確かめることまではしなかったが、アンケート公開初日の昼休みに、デスマス調で生真面目に回答を寄越すコールセンター所属のH・Mなど、一人しか思いつかなかった。
「でもってそっちは?」
「えーっと……締切日の前日の朝……九時十五分ですね」
「そうでしょ? 星野君のことだから、くだらねぇ、とか言って放置した挙句、締切間際に上長にお尻叩かれて、やっつけで回答したんだよ。その時間、朝礼終わってすぐぐらいでしょ?」
「さすが同期。なかなかの考察ですね」
ほう、と二人して深いため息を吐く。
「……やっぱ、あの二人付き合ってるんですかね?」
すっかり毒気を抜かれた様子の池田は、再び自分のパソコンに向き直った。そして話は周回し、そんな疑問が二人の間にもたらされた。
「まぁ、真相は分からないけど、もし、本当だったとしても……」
真奈美は冷たくなったコーヒーをぐっと飲み干し、気合を入れなおす。
「……相性だけはばっちりなんじゃない?」
すぎのこ村ってなんやねん⁉︎
素直に二択で答えんかい!
言いたいことは山ほどあるが、残念ながら真奈美も池田も絶妙な間合いで突っ込めるほどのお笑いセンスは持ち合わせていなかった。
そして、箸にも棒にもかからない二人のアンケート回答は、年鑑誌の完成と共に真奈美と池田の手によって、誰の目にも触れることなく自社サーバーの奥深くに埋葬されたのである。
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