【NWC】6月 噂の真相 其の一

 六月某日。

 市内にある老舗高級ホテルの宴会場は、スーツ姿の会社員で賑わっていた。

 集まった面々は色も形も様々なスーツを身に纏い、これといって特別なドレスコードはないように思えたが、皆『T』の文字を象った社章を襟に付け、社名が入った冊子を手にしていた。

 彼らはこの地域を含め、近隣五つの県を提供エリアに持つ電力系通信会社の社員である。今日は年に一度の経営計画発表会のため、お客様対応に必要な一部の人員のみを残し他全員がこのホテルに集結していた。

 午後一時から始まった発表会は、先ほど予定時刻を四十分超過しながらも無事に閉会した。この後、三十分の休憩時間を挟んで懇親会へ移行する流れだが、その席次は事前に決められており、着席すると一定時間は身動きが取れなくなるため、ホワイエに待機する社員たちは会場設営が終わるまでの僅かな時間に、同期や友人たちと久しぶりの再会を喜んでいた。


 結婚式も縮小傾向にある昨今、八百余名ものゲストを迎え入れるイベントは非常に珍しい。受け入れるホテル側も万全の体制でこのイベントに臨んでいる。

 この道三十年のベテランホテルマン上宇宿かみうすきもその使命を担って現場に立つスタッフの一人だ。彼自身このイベントの担当をするのはこれが初めてではない。十年ほど前からこの会社のイベントに携わり、バンケットマネージャーに昇格してからは先頭に立って現場の指揮に当たっていた。

 毎年のイベントなので、ホテル側にもマニュアルは出来上がっている。年々問題点を改善しながらブラッシュアップしているのだが、今年は予想もしなかった問題が持ち上がった。

 上宇宿は穏やかな笑顔でお客様の対応をしながら、会場の中で一際異彩を放つ長身の男の動向に注意を払っていた。

 集団の中で頭一つ背の高いその男は、それだけで目立つ存在であるにもかかわらず、完璧に均整が取れた顔とスタイルで周囲を魅了していた。

 どの角度からどう見ても比類なき美しさを秘めたその姿は、さながら美術館に並ぶ彫刻のようである。男性相手に美しいという言葉が適切なのか上宇宿には分からなかったが、そうとしか表現しようのない美丈夫が息をしてそこに存在していた。その光景は、どんな言葉を持ってしても言い尽くせないほど荘厳なものだ。

 真新しい紺色のスーツにグレイッシュベージュのレジメンタルタイを締めた男は、立ち姿、歩く姿、何気ない仕草の一つ一つまで絵画を切り取ったかのように美しかった。本人が意識するとしないとに関わらず、傍にいる者は心を抜かれたように陶然としてしまう。揺らめく炎に飛び込む羽虫のごとくすべての者が、蠱惑的な男の魅力に誘引されていたのだ。


 その影響力たるや凄まじいものがあった。


 経営計画発表会の受付は十二時から始まった。会場入り口前のホワイエに設置された長机で顧客側の従業員が受付を行う中、その男が姿を現した途端、会場の空気が一変した。

 上宇宿はその得体の知れない空気を感じながらも、何が起こったのか咄嗟には理解できなかった。ホワイエに屯していた人々が、電線に停まる鳩のように皆一斉に同じ方向を向いたかと思ったら、その直後、ホールの隅にいた女性が眩暈を起こして倒れた。

 無線でその知らせを受けた上宇宿は、迅速かつ周囲の動揺を広めないようすぐさま従業員に女性を控室に連れていくよう指示を出した。幸い女性はすぐに回復し、ただの貧血だと説明したのだが、その顔は貧血という自己申告に反して紅く蒸気し、心ここにあらずといった風情だった。

 十三時になり会議が始まると、今度は給仕がお客様の前で粗相をしてしまったという知らせが入った。給仕の人間は、水差しと水滴をこぼさないためのナフキンを常備している。水の注ぎ方も指導されているはずなのに、それをもってしてもテーブルに水をこぼしてしまったと言うのだから、何かトラブルがあったのかと上宇宿は背筋が凍る思いだった。すぐさま現場に駆け付けた上宇宿の前には例の美男子がいた。

 問題の給仕はシュンと項垂れながらも目許をぽうっと赤く染めて、媚びる様な上目遣いで顧客の男性の様子を伺っている。

 上宇宿ははしたない給仕の様子に全てを理解し、頭を抱えたくなった。

 その場で怒鳴り散らすわけにもいかず、何よりも真っ先に問題の顧客に被害がないことを確認し、丁重に謝罪をした。大丈夫です。と片手を上げた美麗な青年の前には乱暴な文字で名前が記載された冊子が置いてあり、上宇宿はそこでようやく、その人物が『星野誠』であることを知ったのであった。

 バックヤードで給仕の女に正気を取り戻させ、ホテルマンとしての矜持を再び叩き込んだ。叱られた女性は薄っすら涙を浮かべながら反省の意を示したが、上宇宿がその場を離れた途端、その女給仕の元に、同僚数人が駆け寄り「どうだった?」「ヤバかった?」「いやーん。うらやましい。こっそり写メ撮れないかな」と明らかに業務とは無関係な話を始めたので、上宇宿はクルリと踵を返し、全員まとめて再びキツイ灸を据えて持ち場に戻るように指示をした。星野誠が座るブロックは男性社員に担当を変更し、女性社員は極力その場から遠ざけるよう急場凌ぎの配置転換を行い、どうにかこうにか発表会を乗り切ることができたのである。


 あと二時間……いや、三時間の辛抱だ。何とか持ち堪えてくれ。

 上宇宿は天に祈りを捧げた。


 今、会場内では懇親会に向けての設営が行われている。長机を撤去し、代わりに円卓が並べられ、ドリンクコーナーに、各テーブルのカトラリー、様々なセッティングに大忙しだ。三十分という限られた時間の中で全てを完璧に整え、滞りなく宴会を進行させるのがバンケットマネージャーの仕事である。

 上宇宿の無線には、各方面から次々に準備の進捗を知らせる連絡が入ってくる。その都度細やかに指示を出しつつ、上宇宿はホワイエに立ってしばしの歓談を愉しむ客を静かに見守っていた。

 件の星野誠は、同僚と思しき集団の中にいた。

 その様子を見て上宇宿は胸を撫でおろす。

 本来、彼は会場で皆に指示を出さなければならない立場であったが、先ほど星野誠が若い女性に取り囲まれたまま身動きが取れなくなるという事件が起こった。

 入口周辺で発生した混乱を収めるために上宇宿が対応に当たり対処したため、怪我人が出ることはなかったが、相変わらず星野誠に熱視線を送る女性はそこかしこに存在し予断を許さない状況であった。上宇宿は副担当に一旦仕事を任せ、危険回避のためこの場の秩序を取り戻すことを優先した。

 ホワイエの中心では若い女性たちがキャーキャー言いながら誰が声をかけるか、かけないか、押し問答をしている。その向こうでは、胸に手を当て、思いつめたような表情をしている女性もいる。過呼吸気味の女性に声をかけるようスタッフに指示し、再び視線を戻すと、星野誠は故意か偶然か彼女達に……否、熱い視線を送る女性たちに、これ以上近づくな、とバリア張るように背を向けて立っていた。

 上宇宿はこれ幸いと、再び宴会場に戻ろうとした。

 ところが、その瞬間、反対方向からやって来たひと組の男女の会話が耳に飛び込んできて足を止めた。


「奥枝先輩。僕、星野さんに用事があるんですけど、少しだけ良いですか?」


 柔和な笑顔の青年と、彼にエスコートされる恰幅の良い女性が上宇宿の前を通り過ぎてゆく。キツめのパーマをかけた女性は、その黒髪を惜しげもなく風になびかせ、キュウキュウと悲鳴が聞こえてきそうな接地面積の狭いヒールを履いている。整髪料の匂いなのか、香水なのか彼女は自分の軌跡を知らしめるかのごとく、強く甘い香りを放っていた。

 ライトグレーのシンプルな装いの青年とは対照的に、女性の方は胸元にボリュームのあるフリルをあしらった主張の強いシャツを着ている。否、シャツだけではない。スーツも殊更胸やヒップを強調するデザインでサイズ感度外視の格好をしていた。おそらく彼女は豊満な身体に並々ならぬ自信を持っているのだろう。好みの問題はあるにせよ、その自信だけでこの服装を選んだ勇気だけは称賛に値すると思った。

 しかし、それは彼女が『お客様』であるからで、自分の部下が職場でこんな下品な格好をしたら即座に頬をひっぱたいて更衣室で着替えて来いとアドバイスをする。

 上宇宿はポーカーフェイスの水面下で発狂しそうな自己の美的感覚と戦っていたのだ。


「えっ?  誠きゅんに用事? いいよいいよ。ワタシも一緒に行くよぉ〜。それぐらい付・き・合・い・ま・す・よ」


 服装や香水以上に甘ったるい声で応じ、女性は肩にかかった髪をサラリと掻き上げた。悪酔いしそうな香りが周囲に広がったが、隣に立つ青年は顔色ひとつ変えず「奥枝先輩の時間をいただいて申し訳ありません」と殊勝な言葉を口にした。

 上宇宿は強烈な個性を放つ女性より、その隣に立つ青年の真摯な態度に心を打たれた。

 どんなゲストでも丁重におもてなしをするのがホテルマンの生きがいである。その青年は、見たところまだ二十代半ばと随分若いのに、他人を尊重する心構えが既に備わっているように見えた。こんな青年が、このホテルにも居てくれたらさぞかし心強いだろう、と想像せずにはいられない。

 二人が星野誠の元まで辿り着くと、集団の面々は驚くやら顔を顰めるやら、そして何故かスーツの青年と星野誠を交互に見て顔を赤らめる者もいて、皆様々な反応を示した。

 そして当の星野誠は「げっ!」とあからさまな嫌悪感を顔と声に出し、その後、女性を連れてきた青年をジロリと睨みつけたのである。

 一方の青年は恨みつらみのこもる星野誠の視線もどこ吹く風で、呑気に取り巻きの社員達に挨拶などしている。見た目に反して随分肝の座った男だと上宇宿は再び感心した。

 青年は星野誠に二言三言声を掛けた後は、ニコニコと周りの人間の話に聞き入っていたが、そうこうするうち、例の女性がべったりと星野誠の横に張り付き、周囲の困惑も他所に彼を独占する素振りを見せ始めた。彼女はもはや星野誠以外眼中にない様子で、しかし、彼の迷惑そうな表情に臆することもなく、やがて独壇場でその場を仕切り始めたのである。

 世紀の美男子を前にこれほどの存在感を放つ人間も珍しい。星野誠とその仲間は心底困惑していたが、遠巻きにその様子を見守っていた女性たちは彼女の登場により、すっかり戦意を喪失してしまったようである。

 毒をもって毒を制す、とはまさにこのことだった。


「すみません」

 

 上宇宿は傍から声を掛けられ、はっと我に返った。

 声の主を振り返ると、いつの間にかあの好青年が立っていた。改めて彼の服装を見てみると、ライトグレーのスーツは織の違いで模様が浮かぶシャドーチェックで、同系色のネクタイも僅かにラメが入っていた。ネクタイもスーツも一見無地のように見えるが、光の当たり方で印象が変わる、控えめでありながら遊び心のある組み合わせだった。自己主張だらけの女性を伴いながら、彼のスーツが印象に残ったのは、そういった上級者向けの品の良いコーディネートの産物だったのだ。


「はい。いかがなさいましたか?」


 上宇宿は最上級の賓客を相手にする態度で恭しく頭を下げる。彼は決して客にランク付けをするような男ではなかったが、青年の内から湧き出てくる魅力が自然とそのような行動を取らせた。


「喫煙所は一階以外にありますか?」


「申し訳ございません。上階にも喫煙ルームはございますが、ご宿泊のお客様専用のスペースとなっておりまして……」


「そうですか……」


 残念そうにため息を吐く青年は、横顔に疲労感を漂わせている。

 あの女性と行動を共にしていたのであればそれも無理からぬ話だろう、と上宇宿は健気で献身的な青年の行動に同情した。


「ご期待に沿えず申し訳ございません」


「いえいえ。大丈夫です……あー、何て言うか……ちょっと一人でゆっくりしたいなぁって思っただけなので……」


 そして、儚い笑みを浮かべる青年を改めて見た瞬間、彼の脳裏に去年の記憶が蘇った。そうだ。彼はここ数年、経営計画発表会でいくつもの賞をその手に収めてきた男性だ。

 名前は……そう確か——


「お疲れのようですね。よろしければ、別室にご案内しましょうか。満島様」


 そう、満島洋人だ。

 上宇宿がその名を口にした途端、満島洋人は弾かれたように顔を上げた。その瞳が驚きに見開かれている。その瞬間、上宇宿はホテルマンとしてこの職場で働いてきたことを心から誇りに思った。お客様の驚く顔、そして驚きが笑顔に変わる瞬間、それを見ることが上宇宿の至福である。


「僕の名前……」


「存じております。昨年は、社長賞を受賞されていましたね」


「あれは……運が良かっただけで」


 青年ははにかみながら、首を振って謙遜した。

 ああ、なんて謙虚で素敵な青年なのだろう。上宇宿が記憶する限り、ここ数年、経営計画発表会の舞台で彼の姿を目にしない年はなかった。彼はとても優秀な営業マンなのだ。それなのに、自分の功績を鼻にかけることもなく、天狗になっている様子もない。きっと、先ほどの女性のように、今日は他のお歴々の相手もしていたのだろう。


「運を引き寄せるのも、満島様の人徳のお陰でしょう」


 上宇宿はニコリとほほ笑み、さて、と仕切り直す。


「一階の喫煙ルームは、皆さんお集まりでしょうから、ゆっくり休む時間もございませんね。しかし、満島様が正面玄関から外に出ようとすれば、ロビーに集まった方々に引き留められてしまうかもしれません」


「え……?」


 まるで洋人の胸の裡を透視したかのような上宇宿の言葉に、洋人は心底驚いた様子で目を瞬いた。


「私が、とっておきの場所をご案内しましょう」


 上宇宿はそう言って、悪戯っぽく洋人にウインクして見せた。


(続)

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