07話 噂の真相 2

 星野誠が香水の女性を連れ立って階下へ消えると、ホワイエには平和が訪れた。


 ビニール傘の雨粒のように付きつ離れつしながら残された社員が小さな集団を作り始めると、それに呼応するかのように騒然とした空気は影を潜め、張り詰めていた緊迫感も徐々に薄れゆく。しばらくその間その様子を見守り、いつもの職場が戻って来たことを確認すると、上宇宿はそこでようやく肩の力を抜くことができた。

 これなら大丈夫だろう。

 そう判断した上宇宿だったが、本来の持ち場に戻ろうと踵を返す直前、前方からやって来た二人の女性と目が合った。


「すみません。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけど……」


 一人は長い黒髪、もう一人はセミロングで、二人とも一眼レフの大きなカメラを首から下げている。上宇宿は二人の顔に見覚えがあった。

 三時間余りにも及んだ発表会の間、舞台袖や会場の隅っこで着席することもなく登壇者にレンズ向けていた広報担当だ。

 

「はい。いかがなさいましたか?」


「あそこに背の高いイケメンがいたと思うんですけど、どこに行ったかご存知ないですか?」


 上宇宿は彼女たちが探しているその人物が星野誠であることを瞬時に悟る。

 彼は十分ほど前、トイレに行くと言って香水の女性と共にエスカレーターを下って行った。その光景を見ていた取り巻きたちは悲嘆に暮れ「トイレにまでくっついて行くなんて信じられない!」と口々に恨み言を吐いていたが、幸か不幸か、二人の退場によりホワイエの秩序は保たれた。

 現場の責任者としては一触即発の危機が回避され安堵の一言に尽きる。しかし一個人としての感想を述べるなら上宇宿も残された女性たちの意見に賛同するところであった。

 顔の造作が人より優れているというだけで、一般人である彼がここまで執拗に追い回される理由はない。介助が必要な子供でもあるまいに、自分がもよおしているわけでもないのに、他人のトイレに同行しようなどとは思わないものだが、彼女は真夏のチューイングガムのように星野誠にべったりくっついて離れようとしなかった。さすがにやりすぎだ。

 ただ、その会話に聞き耳を立て、目を皿のようにして二人の動向を監視していた女性たちも人のことは言えないだろう。トイレに付いて行かない分『常識的』というだけで、星野誠にとってこの場所が衆人環視の牢獄であることに変わりはない。

 件の女性は少し前に一人でこちらのフロアに戻ってきて、今は初老の男性が集う輪の中で楽しそうに談笑している。トイレに籠ってしまったのか、星野誠の姿はどこにも見当たらず、そうまでして解放を望んでいる彼のことを思うと、ホテルマンとしては安易に顧客の行き先を伝えるのは気が引けた。

 上宇宿は彼女たちの問いかけに眉を寄せ、心底残念そうな顔で応じる。


「申し訳ありません。私の方では分かりかねます」


「あーあ。もう、どこに行っちゃったのかなぁ……」


「逃げちゃったんじゃないですか? ついさっき、あっちの方を通りがかった時、彼のお方も『いつの間にかいなくなった』って愚痴ってましたよ」


 幸いなことに、二人はそれ以上の詮索はしてこなかった。そして、上宇宿が立つ扉の前にある豪奢な柱へと身を寄せ、ボソボソと会話を始めた。二人の口調から察するに背の高い黒髪の女性の方が後輩のようだ。


「どうせ誘ったって飲み会に来るような人じゃないし、もういいかなぁ……」


「それにしても、どうしてわざわざ小石さんを経由するんですかね? 自分で直接誘えばいいのに」


「本当、それ。女史の報復が怖いなら星野君にちょっかい出すのやめればいいのに。そこまで労力をかける価値があるか、同期ならいい加減分かってると思うんだけどなぁ……」


「先輩もよく引き受けましたね」


「だって、ずっとだよ? 懇親会の席次表がアップされてからずーっと。メールもチャットも、DMでも星野星野って、そればーっか。まぁ、淑女協定度外視で星野君に近付ける人間なんて広報か総務ぐらいだろうし、星野君も何年ぶり? ぐらいの出席だから……」


 人目を憚り、声を潜める二人の会話がかろうじて上宇宿の耳に届いた。

 これから始まる懇親会でも、アルコール類は提供することになっている。実質ここが一次会、その後は各々気に入ったメンバーで街へ繰り出すのがこの後の大方の流れなのだろう。セミロングの彼女は星野誠との橋渡しを依頼されたようだ。


「でも、飲み会嫌いじゃなかったですっけ? 星野さんって」


「ダメ元ってやつでしょ。こんなチャンス滅多にないから……。それに、あんな恰好見せられたらね……」


「いやぁー、あれはヤバ過ぎですよ。男っぷりが限界突破しちゃってますもん」


「同期も皆驚いてたよ。顔で何となく誤魔化されてるけど、星野君って本当にその辺のセンスないから。今までの経営計画でもリクルートスーツ以外見たことないわ……」


「うぉぉ……それは宝の持ち腐れと言うか……」


「……そもそも保守はスーツ着ない部署だし、皆新人だったから、それでもあんま違和感なかったけどね」


「小石さんが入社一、二年目って言ったら……」


「九年前の話だよ。それ以降出席してないもんあの人」


「そんなに何年も発表会の出席って拒否れるものなんですか?」


「保守はね。どこの部署でも絶対に居残り組は絶対必要だもん。星野君率先して残ってたんじゃないかな?」


「今年はどういう風の吹きまわしなんでしょうね……」


「上長に命令されたとか、じゃんけんとか、くじ引きで決まったとか……どうせ、そんなところなんでしょうけど、まさかあそこまでバリッバリにキメてくるとは……」


 セミロングの女性は何かを思案するように顎に手を当てる。


「誰かがテコ入れしたとしか思えないんだよなぁ……」


「え? それって、まさか…………」


 長身の後輩がつるんとマニキュアが塗られた指を伸ばし、自分の口元を覆った。ぽうっと頬を赤らめて、三日月のように目を細める。


「満島君、すごくお洒落だもんね……」


 上宇宿にはどうしてそこで満島洋人の名が出るのかわからなかった。

 しかし、満島洋人がお洒落だと言う彼女の意見は正しい。

 服装は自分のためではなく相手のためにあるものだ。謙虚な立ち振る舞いもそうだが、控えめでありながらこのイベントに華を添えたいという満島洋人の心持ちがあの服装から伝わってきた。


「あの子、前はちょっと派手目のスーツ着てたじゃない?」


「そうでしたっけ?」


「あ、ほらほら。データまだ残ってる」


 そう言って、女性は目の前の後輩に自分のカメラの画面を傾けた。


「あー、確かに。今日はグレー系でシンプルな感じですよね」


「周りの人に気を遣ってるんじゃないかな……。ここ数年、満島君の名前ばっか聞いてたせいで、皆の印象に残っちゃってるでしょう? 社長も何かにつけてすぐに満島くんの名前出しちゃうし、もうある種ネタみたいになってるんだろうけど……」


「あのワントーンコーデは、今年の受賞者を立てるためってことですか? もしそうだとしたら、満島さんヤバ過ぎません? どんな生き方したらそんなとこまで考えられるんですか? 私、満島さんと同じ年齢になったとしてもそこまで出来る気しませんよ」


「大丈夫。特殊なのはあっちの方だから。そういうことを素でできちゃうとこが満島洋人たる所以なんだよ。東嶋統括部長がめちゃくちゃ気にかけてるって意味、よく解るでしょ? 営業の悪魔って異名も伊達じゃないってこと。あの子、そのうち第一営業部に引っ張られるんじゃないかなぁ……」


 セミロングは相変わらずカメラの画面を弄っていた。

 そして、ふとその動きを止める。


「あれ?」


「どうしたんですか?」


「この写真見て」


「わぁ。こっちのスーツも素敵ですね。これ……優秀賞ってことは、三年前のやつですか? そんな前のも残ってるなんて、データの整理してないんですかね、そのカメラ」


「いや、そこどうでもいい。この満島君のネクタイ」


 セミロングが小さな画面を指差し、そこを覗き込んだ黒髪が、はっと息を呑む。

 二人は何やら目配せして頷き合った。


「池田。分かってるわよね?」


「もちろん、他言無用です」


 まるで警察のように敬礼して、黒髪の女は居住まいを正した。

 一体、何があったと言うのか……。

 そして、


「あ。噂をすれば満島さん」


 エスカレーターに乗って現れた青年に真っ先に気づいて、後輩の女性はクリクリした瞳を瞬いた。


「行くよ」


「はい!」


 セミロングはピシリと目で合図して表情を引き締める。その後ろを後輩の女性が警察犬のように小走りで駆けて行く。


「満島君、ごめん。ちょっといい?」


「はい。どうかされたんですか?」


 姿を現した満島洋人はすっかり元気を取り戻していた。

 顔には生気が漲り、瞳もキラキラと輝いている。

 上宇宿はその様子を見て心の底から安心した。自分が教えたとっておきの場所は、人知れず休息を取るには最適だ。一人でゆっくりタバコを吸いたいという顧客のささやかな願いをかなえることができて本当に良かった。


「星野君見なかった?」


「さあ。僕が見た時は保守グループの方と話していましたけど……」


「会場を探したけど、どこにも見当たらないの」


「そうですか。僕も席を外していたので、それ以上のことは……」


「だよね……」


 満島洋人が首を振って答えた直後、女性は何気ない風を装いながら含みのある言葉を投げかけた。


「満島君もでしょう? 大丈夫?」


 先ほどの会話から全くトーンを変えず、そればかりか表情も一ミリたりとも動かすことなく、毒気をたっぷり滴らせる女性に上宇宿はハラハラした。幸運なことに、男性との会話に夢中で、あの香水の女性はまだ満島洋人の登場に気づいていない。出来ることならこのまま彼女に気付かれることなく、この時間が一秒でも長く続きますようにと上宇宿は天に祈らずにはいられなかった。


「大変も何も、僕はタバコを吸ってただけですよ」


 満島洋人はさすがと言うべきか、セミロングの彼女が香水女のことを示唆したことに気付いていた。苦笑しながら、スーツのポケットをポンポンと叩く。


「もし星野君見かけたら、同期と飲みに行かないかって伝言してくれない?」


「それは構いませんけど、小石さんが直接お話した方が良くないですか?」


「いやいや。私たち懇親会の間も仕事があるし、何だかんだで、彼の包囲網すごいから。万が一女史が近くにいても満島君ならうまくやってくれそうだし、大丈夫でしょう?」


 彼女は顔の前で手を振って、それがどれほど困難なことであるかを伝えているようであった。先ほどから女史と呼ばれている女性があの香水の女性なのだろう。確かに満島洋人であれば周囲に波風を立てることもなく、上手く取り次いでくれそうである。

 隅々まで配慮の行き届いた彼の行動を振り返りながら納得しかけた時、上宇宿の視界の隅に黒い影が映った。条件反射のように柔らかい絨毯の上で半歩後退し、上宇宿は顧客の進路を空けた。新入社員と思しき二人組が彼の前を通り過ぎて行く。


「あの人じゃない? 店長が言ってた人って」


「あー、そうそう。歴代トップセールス」


 新人からも顔を覚えられているとはさすがである。星野誠の影響力には及ばないが、満島洋人の注目度の高さも格が違う。

 コソコソと満島洋人に視線を送っていた新人二人が人垣の中に消え去る間際、


「マジで星野さんと付き合ってんのかな?」


 そんな問いかけが零れ落ちた。

 話し声が絶えないホワイエにありながら、上宇宿や満島洋人が立っていた場所も含め、半径三メートル以内の人間が一斉に押し黙り、その刹那不自然なほどの静寂がもたらされた。

 上宇宿は自分の耳を疑った。


 満島洋人と星野誠が付き合っている!?


 自分の立場も忘れ、思わず発信源の新人二人組を見やってしまった上宇宿はすぐさま視線を戻し、動揺する心を鎮める。

 ホテルには様々なお客様が訪れる。明らかにそういった雰囲気を醸し出しているカップルもいる。なので、同性愛自体驚くようなことではないのだが、絶世の美男子である星野誠とトップ営業マンである満島洋人という組み合わせはさすがに衝撃的だった。しかし、あの二人が付き合っているのだとすると、今日上宇宿が何度も目にした腑に落ちない周囲の反応も全て合点がいく。

 さがない噂話を口にしてしまった男性社員はただならぬ気配を悟ると、サッと顔色を変え、逃げようにその場から立ち去ってしまった。

 香水の女性が居た時とはまた別の緊張感がもたらされた。

 オーディエンスたちは満島洋人と広報二人へ無遠慮な視線を向けている。本当のところどうなの? という言外の圧力が上宇宿の元まで伝わってきた。

 注目の三人の中、黒髪の女性はソワソワと辺りを見まわし、一瞬で落ち着きを失ってしまったが、年の功か場慣れしているのか、先輩広報は泰然自若としたもので、微動だにしない。ゆっくりとした動作で周囲を見渡した後、ニコリとほほ笑んだ。


「……だって。本当のところどうなの?」


 彼女は僅かに首を傾げ、満島洋人に尋ねる。

 満島洋人は周囲の反応よりもむしろそちらの質問に驚いた様子でパチリと一度瞬いた後、何かが決壊したように破顔した。


「ははは。そういう噂ありますよね」


 そう言って、まるで他人事のように笑い、ひょいと肩を竦める。


「一体誰がそんなこと言い出したんでしょうね?」


 誰を悪者にするでもなく、嫌味を感じさせない仕草だった。


 ——やっぱ、ガセか


 どこからともなくそんな声が聞こえてきた。

 潮が引くように皆の興味が逸れてゆく。そして、観衆たちは不躾な視線を三人に向けていたことを今更反省したのか、それぞれの会話を再開させた。

 しかし、上宇宿の中には一つの疑問が残った。


 ガセ? 本当にそうなのか?

 満島洋人は否定も肯定もしていない。

 誰がそんなことを言い出したんでしょうね? という言葉は、聞きようによっては『どうしてバレちゃったんでしょうね?』という意味に捉えられないだろうか?


「悪いけど、お願いできるかな?」


「はい。わかりました。……ただ、星野さん保守の方と飲みに行くかも、みたいなこと仰ってましたよ?」


「そうなの? へぇー……飲み会行くって?」


「迷われてましたけどね」


 では僕はこれで、と満島洋人は広報の二人に頭を下げた。

 遠くの方で例の女性が「満島くぅーん」と甘ったるい声で呼びかけながら手招きしている。

 まさか、またあの女性の元へ行くのか? と訝る上宇宿を他所に、満島洋人の背中は心なしかウキウキと弾んでいるようにも見えた。


「行っちゃいましたね……」


「この状況で、自ら女史のところに飛び込んで行くなんて、もはや尊敬しかない」


 広報の二人組が再び柱の元まで戻ってきた。

 上宇宿も、そろそろ会場へと戻らなければならない。


「発表会終わってから、ずーっと女史に付きまとわれてませんでした? 満島さん。……タバコ吸って元気になったんですかね?」


「かもしれないけど……いなかったよね? 喫煙所」


「はい。他にもあったんですかね?」


 先輩社員の言葉に黒髪は神妙な顔で頷いている。満島洋人が去った今、広報の彼女たちに注意を向ける人間はいない。


「それにしても、小石さんいきなりぶっ込むからびっくりしちゃいましたよ」


 後輩社員が戦々恐々語りかける。その言葉にセミロングは不敵な笑みを浮かべた。

 再びカメラの画面を覗き込んで、何かを確信したように小さく呟く。


「でも、これで確定ね」


「ええ。満島さん、否定しなかったですね」


 上宇宿は自分と同じ部分に着眼していた二人の洞察力に目を瞠った。

 

「星野君、尻に敷かれてないといいけど……」


「そうなんですか? 満島さんの方が三歩下がってついて行くタイプに見えますけど」


「あのコミュ障が大人しく首輪付けられてるんだもん。実権握ってるのは絶対満島君の方だよ」


 通りざま上宇宿の目に女性が手にしたカメラが映った。

 光の反射でチラリと見えた画面には、舞台で挨拶をしている満島洋人のバストアップの写真があった。鮮やかなブルーのスーツで笑う彼の首元には、グレイッシュベージュのネクタイがあった。独特な色使いのレジメンタルタイはきっとどこかのブランド品に違いない。オーソドックスな柄でありながら洒落っ気たっぷりのこのネクタイを、今日、上宇宿が目にするのは二度目のことだった。

 詮索好きな観衆の追求を否定するでもなくサラリと躱した満島洋人。

 どうやら分かる人間には分かってしまったようだが、それ以外は見事に煙に巻かれている。女性たちに追われ、囲まれ、なす術もなく困惑していた美青年を思い出すと、世渡りにおける二人の力量の差は歴然だった。

 トイレに行ったまま消えてしまったという星野誠。

 香水の女性がその姿を見失い、洞察力に長けた広報にも掌握できなかった彼の行き先に上宇宿は心当たりがあった。


 なるほど。それで満島洋人はあんなに喜んでいたのか。


 満島洋人の活力は『タバコのおかげ』のだ。


 ホワイエは落ち着きを取り戻した。

 きっともう大丈夫だ。

 口元を引き締め、バンケットマネージャーの顔に戻った上宇宿は、ホテルマンの鑑のような動作で恭しく一礼をした後、分厚い宴会場の扉を押し開き本来の戦場へと舞い戻って行った。



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