【NWC】6月 噂の真相 其のニ
星野誠が香水の女性を連れ立って階下へ消えると、ホワイエには平和が訪れた。通信会社の社員たちは、ビニール傘を転がる水滴のように着きつ離れつしながら、そこかしこで小さな集団を作っている。騒然としつつもいつもの職場が戻ってきたことに上宇宿は胸を撫でおろしていた。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけど……」
職務を遂行するために宴会場へ戻ろうとした上宇宿が振り返ると、そこには女性が二人立っていた。一人は長い黒髪、もう一人はセミロングで、二人とも一眼レフの大きなカメラを首から下げている。
二人の顔には見覚えがあった。
発表会の間、舞台袖や会場の隅っこで着席することもなく、壇上の社員に向けシャッターを切っていた広報担当の女性たちだ。
「はい。いかがなさいましたか?」
「あそこにすっごい背の高いイケメンがいたと思うんですけど、どこに行ったかご存知ないですか?」
上宇宿は彼女たちが探しているその人物が星野誠であることを瞬時に悟る。
彼は十分ほど前、トイレに行くと言って香水のどぎつい女性と共にエスカレーターを下って行った。遠巻きにそれを見ていた女性たちは悲嘆に暮れ「トイレにまでくっついて行くなんて信じられない!」と口々に恨み言を吐いていたが、幸か不幸か一触即発の危機的状況は二人の退場によって収束したのである。
上宇宿も取り巻きの意見には大いに賛成だ。顔の造作が人より優れているというだけで、一般人である彼がここまで執拗に追い回される理由はない。トイレに行くと言えば女性でなくとも同行しようなどとは思わないものだが、彼女はアスファルトに落ちた真夏のチューイングガムのように、星野誠にべったりとくっついて離れなかった。さすがにやりすぎだ。
ただ、その様子を目を皿のようにして観察している女性たちも人のことは言えない。トイレに着いていかないだけマシというだけで、星野誠については誰もがどんぐりの背比べ、五十歩百歩の状態だった。
更に言うなら、香水の女性は少し前に一人でこちらのフロアに戻ってきた。今は、初老の男性が集う輪に入って、猫の仔のように鼻にかかった甘い声で何やら楽しそうに笑っている。
トイレに籠っているのか星野誠の姿は見えない。そうまでして解放を望んだ彼のことを考えると、これ以上プライバシーを侵害するわけにはいかない、と上宇宿は強く思った。
彼女たちの問いかけに、眉を寄せて心底残念そうな顔で応じる。
「申し訳ありません。私の方では分かりかねます」
ひょっとしたら星野誠に業務上の連絡があるのかもしれない。上宇宿はそう思ったが、トイレに行ったのであれば彼もすぐに戻って来るだろう、と考えを改める。
「あーあ。もう、どこに行っちゃったのかなぁ……」
「逃げちゃったんじゃないですか……女史も、トイレの列に並んでいたはずなのに、いつの間にかいなくなったって言ってましたよね」
幸いなことに、二人はそれ以上の詮索はしてこなかった。そして、上宇宿が立つ扉の前にある豪奢な柱へと身を寄せ、ボソボソと会話を始めた。会話の雰囲気から察するに、背の高い黒髪の女性の方が後輩のようである。
「どうせ誘ったって飲み会に来るような人じゃないし、もういいかなぁ……」
「それにしても、どうしてわざわざ小石先輩に言うんですかね? 同期なら自分で直接誘えばいいのに」
「本当、それ。女史の報復が怖いなら、星野君にちょっかい出すのやめればいいのに。あの男がどんな人間か同期ならいい加減分かってるだろう、って思うけどね」
「小石先輩もよく引き受けましたね」
「だって、ずっとだよ? 懇親会の席次がアップされてからずーっとメールもチャットも、DMでも星野星野って、そればーっか連絡来るんだもん。まぁ、淑女協定度外視で星野君に近付ける人間って限られてるし、星野君も何年ぶり? ぐらいの出席だから、気持ちは分からないでもないけど」
人目を憚り声を潜めて話をしている二人の会話が、かろうじて上宇宿の耳にも届いた。これから始まる懇親会でも、一通りのアルコール類は提供することになっている。懇親会の名の通り実質ここが一次会で、その後は各々気に入ったメンバーで街へ繰り出す算段なのだろう。
「でも、飲み会嫌いなんですよね? 星野さんって」
「ダメ元ってやつでしょ。こんなチャンスは滅多にないから……。しかし、それにしてもあの恰好は……」
「いやぁ、あれはヤバ過ぎですよ……。男っぷりが限界突破しちゃってますもん」
「同期も皆驚いてたよ。顔で何となく誤魔化されてるけど、星野君って本当にその辺のセンスないから。経営計画なんてリクルートスーツの記憶しかないからね……」
「うぉぉ、それは宝の持ち腐れと言うか……」
「スーツ着ない部署だもんね。当時は入社何年目かって時だったから、それでもあんま違和感なかったけど」
「それ、だいぶ前の話ですよね? ってゆーか、そんなに何年も発表会の出席って拒否れるものなんですか?」
「保守はね。誰かが絶対残らなきゃいけないから、星野君率先して残ってたんじゃないかな?」
「今年はどういう風の吹きまわしなんでしょうね……コールセンターでも、居残り組はいるはずだから、拒否できたんじゃないんですか?」
「上長に命令されたとか、くじ引きで決まったとか……大方そんなところなんでしょうけど、まさかあそこまでキメてくるとは思わなかったわ……」
セミロングの女性は何かを思案するように顎に手を当てる。
「誰かがテコ入れしたとしか思えないんだよね……」
「え? それって、まさか…………」
長身が、両手の指をツンと伸ばし自分の口元を覆った。ぽうっと頬を赤らめて、三日月のように目を細める。
「満島君、すごくお洒落だもんね……」
上宇宿にはどうしてそこで満島洋人の名が出るのかわからなかった。ただ、彼女の意見には大いに賛成するところである。服装は自分のためではなく相手のためにあるものだ。満島洋人の謙虚な立ち振る舞いもそうだが、控えめながらこのイベントに華を添えたいという彼の心持ちがあの服装から伝わってきた。
「あの子、去年はちょっと派手目のスーツ着てたじゃない?」
「そうでしたっけ?」
「あ、ほらほら。データまだ残ってる」
そう言って、女性は目の前の後輩に自分のカメラの画面を傾けた。
「あー、確かに。今日はグレー系でシンプルな感じでしたね」
「目立たないように気を遣ってるんじゃないかなぁ……。ここ数年、満島君の名前ばっかり聞いてたせいで、皆の印象に残っちゃってるでしょう? もうある種ネタみたいになってるんだろうけど、社長も何かにつけてすぐに満島くんの名前出しちゃうじゃない?」
「あのワントーンコーデは、今年の受賞者を立てるためってことですか? もしそうだとしたら、満島さんヤバ過ぎませんか? どんな生き方したらあの若さでそんな気遣いできるんですか? 私、満島さんと同じ年齢になったとしてもそんな人間になってる自信ありませんよ」
「大丈夫。特殊なのは満島君の方だから。そういうことを素でできちゃうとこが満島洋人たる所以なんだよ。東嶋統括部長がめちゃくちゃ気にかけてるって意味、よく解るでしょ? 営業の悪魔って異名も伊達じゃないってこと。あの子、そのうち第一営業部に引っ張られるんじゃないかなぁ……」
セミロングは相変わらずカメラの画面を弄っていた。
そして、ふとその動きを止める。
「あれ?」
「どうしたんですか?」
「この写真見て」
「わぁ。こっちのスーツも素敵ですね。これ……優秀賞ってことは、二年前のやつですか? そんな前のも残ってるなんて、データの整理してないんですかね、そのカメラ」
「いや、そこどうでもいい。この満島君のネクタイ」
セミロングが小さな画面を指差し、そこを覗き込んだ黒髪が、はっと息を呑む。
二人は何やら目配せして頷き合った。
「池田。分かってるわよね?」
「もちろん、他言無用です」
まるで警察のように黒髪の女性が敬礼して、先輩社員を見る。
一体、何があったと言うのか……。
視界の端で二人のやり取りを伺っていた上宇宿には何もわからなかった。ただ、二人が写真のデータから何かに気づいたらしいことは理解できた。
そして、
「あ。噂をすれば満島さん」
エスカレーターに乗って現れた青年に気づいて、後輩の女性がクリクリした瞳を瞬いた。
「行くよ」
「はい!」
セミロングはピシリと目で合図して表情を引き締める。幸いにも、あの香水のキツイ女性は満島洋人の登場にまだ気付いていないようだ。
「満島君、ごめん。ちょっといい?」
「はい。どうかされたんですか?」
姿を現した満島洋人は、すっかり元気を取り戻していた。どうやら、ゆっくりと休息を取ることができたようだ。顔には生気が漲り、瞳もキラキラと輝いている。
上宇宿はその様子を見て心の底から安心した。自分が教えたとっておきの場所は、人知れず休息を取るには最適だ。一人でゆっくりタバコを吸いたいという顧客のささやかな願いをかなえることができて、本当に良かった。
「星野君見なかった?」
「さあ。僕が見た時は保守グループの方と話してたと思いますけど……」
「それが、トイレに行ったきり戻って来ないんですよ」
二人の女性に囲まれながら、満島洋人は首を傾げる。
「そうですか。僕も外していたので、それ以上のことは……」
「だよね……満島君も女史に狙われちゃってるから、逃げるの大変でしょう? 大丈夫だった?」
「大丈夫も何も、僕はタバコを吸ってただけですよ。逃げてたなんて滅相もない」
セミロングの女性の忌憚のない言葉に満島洋人は苦笑して、ポケットをポンポンと叩いた。
「もし星野君見かけたら、同期で飲みに行かないかって伝言してくれない?」
「それは構いませんけど、小石さんが直接お話した方が良くないですか?」
「いやいや。私たち懇親会の間も仕事があるし、何だかんだで、女史の包囲網がすごいから。万が一女史が付いてくるようなことになったら大事でしょう?」
セミロングの女性——小石は顔の前で手を振ってそれがどれほど困難なことであるかを伝えているようであった。女史と呼ばれている女性が、きっとあの香水の女性なのだろう。確かにあの女性は強烈すぎる。あんな調子で出席されたら、飲み会どころではなくなってしまうだろう。
「それに、満島君、星野君と付き合ってるんでしょ?」
何の前触れもなく、小西はいきなり核心に迫った。
上宇宿は、業務中であることも忘れて思わずそちらに視線を向けた。
気付けば、彼らの会話に耳を傾けていたのは上宇宿だけではなかった。太陽に向かって顔を向けるミーアキャットのように、その静かで不穏な音声をキャッチできた半径三メートルの人間、全員が全員、小石と満島洋人の方を向いていたのである。
マジ!? そういうこと!? あの二人が!?
上宇宿は心の中で叫んだ。否、ホテルには様々なお客様が訪れる。明らかにそういった雰囲気を醸し出している二人組もいる。なので、同性愛自体、驚くようなことではないのだが、絶世の美男子である星野誠とトップ営業マンである満島洋人という組み合わせは衝撃的すぎたし、こんなところであっさりと暴露されてしまったことに上宇宿は仰天した。
突如放り込まれた爆弾に、一瞬大きく目を見開いた満島洋人であったが、その目を二、三度瞬いた後、声を上げて笑い始めた。
「ははは。そういう噂ありますね」
まるで他人事のように言って、破顔したその顔のままチラリと小石を見る。
「一体誰がそんなこと言い出したんでしょうね?」
満島洋人は口元に笑みを残したまま肩を竦めた。
その仕草を見ていた上宇宿の背後で、誰かが「何だあの噂、ガセだったのか」と呟いた。そして次の瞬間、皆この話題に興味を失ったように我に返り、小石たちの会話を気にしつつも、不躾な視線を三人に向けていたことを反省するように視線を逸らした。
ガセ? そうなのか?
上宇宿は、その言葉に首を傾げる。
誰がそんなことを言い出したんでしょうね? という言葉は、聞きようによっては『どうしてバレちゃったんでしょうね?』という意味に捉えられないだろうか?
「悪いけど、お願いできるかな?」
「はい。わかりました。……ただ、星野さん保守の方と飲みに行くかも、みたいなこと仰ってましたよ?」
「そうなの? へぇー……飲み会行くって?」
「迷われてましたけどね」
では、僕はこれで、と満島洋人は小石に頭を下げた。
遠くの方で例の女性が「満島くぅーん」と甘ったるい声で呼びかけながら手招きしている。
まさか、またあの女性の元へ行くのか? と訝る上宇宿の心配を他所に、そちらへ向かう満島洋人の背中は心なしか、ウキウキと弾んでいるようにも見えた。
「行っちゃいましたね……」
「この状況で、自ら女史のところに飛び込んで行くなんて、もはや尊敬しかない」
広報の二人組が再び柱の元まで戻ってきた。
上宇宿も、そろそろ会場へと戻らなければならない。
「発表会終わってから、ずーっと女史に付きまとわれてませんでした? 満島さん。……タバコ吸って元気になったんですかね?」
「かもしれないけど……いなかったよね? 喫煙所」
「はい……他にもあったんですかね?」
小石の言葉に池田は神妙な顔で頷いている。満島洋人が去った今、広報の彼女たちに注意を向ける人間はいない。
「それにしても、小石さん、いきなりぶっ込むからびっくりしちゃいましたよ」
後輩社員が戦々恐々語りかける。その言葉に小石は不敵な笑みを浮かべた。
再びカメラの画面を覗き込んで、何かを確信したように、小さく呟く。
「でも、これで確定ね」
「ええ。満島さん、否定しなかったですね」
上宇宿は正鵠を射た二人の洞察力に目を瞠った。
「星野君、尻に敷かれてないといいけど……」
「そうなんですか? 満島さんの方が三歩下がってついて行くタイプに見えますけど」
「あのコミュ障が大人しく首輪付けられてるんだもん。実権握ってるのは絶対満島君の方だよ」
通りざま上宇宿の目に小石が手にしたカメラが映った。
光の反射でチラリと見えた画面には、舞台で挨拶をしている満島洋人のバストアップの写真があった。鮮やかなブルーのスーツを着た洋人の首元には、レジメンタル柄のグレイッシュベージュのネクタイがあった。独特な色使いのそれはきっとどこかのブランドの品物なのだろう。オーソドックスな柄でありながら洒落っ気のあるものだった。
上宇宿が今日このネクタイを見るのは二度目のことだ。
詮索好きな観衆の、好奇心混じりの追求を否定するでもなくサラリと躱した満島洋人。
どうやら、分かる人間には分かってしまったようだが、それ以外ほぼ全ての人間は見事に煙に巻かれている。女性たちに追われ、囲まれ、なす術もなく困惑していた美青年を思い出しても、世渡りにおける力量の差は歴然だった。
トイレに行ったまま消えてしまったという星野誠。
香水の女性がその姿を見失い、洞察力に長けた広報にも掌握できなかったその行き先に彼は心当たりがあった。
なるほど。それで、満島洋人はあんなに喜んでいたのか。
満島洋人の活力は『タバコのおかげ』だけではなかったのだ。
ホワイエは落ち着きを取り戻した。きっともう大丈夫だ。
口元を引き締め、バンケットマネージャーの顔に戻った上宇宿は、ホテルマンの鑑のような動作で恭しく一礼をした後、分厚い宴会場の扉を押し開き、本来の戦場へと消えて行った。
(完)
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