【NWC】6月 蛇足のエスケープ 1

 やっと自由になれた……。

 

 空に向かって紫煙を吐きながら洋人はしみじみと感慨に浸った。

 今日は経営計画発表会で通常通り職場に出社したものの、昨日の残務処理と居残りの派遣社員に指示を出した後、会場に向かうため早々に移動を始めた。

 街外れの湾岸エリアにあるコールセンターは交通の便がすこぶる悪い。それに加えて会場に入る前に昼食を済ませる必要もあったので、コールセンター勤務の社員達は、居残り組を除いて十時を少し回った時点で支度を始めて職場を後にした。


 コールグループのメンバーはコールセンターのセンター長と共に、洋人のチョイスで会場となるホテルの近くにある定食屋に向かった。七人という中途半端な人数だったせいで、二組に分かれて案内されたテーブル席で、洋人たちは営業部の統括である東嶋とうじまに遭遇したのだった。

 統括部長は営業部のトップである。

 彼の姿を見た瞬間、センター長とグループ長は接待モードに切り替わり、自ずと洋人もその流れに巻き込まれることになった。他にも誰かが居れば良かったのだが、洋人と別れた四人組の方はこの状況を確認するや否や、これ幸いと昼食後は別行動をとり、和気あいあいコーヒーショップへと消えて行った。残された洋人はそういうわけにもいかず、店の選択を誤ったと密かに反省したが、全ては後の祭りだった。

 経営計画発表会の日の昼食は勤務地付近か会場付近かの二択になる。幅広い年齢層の好みをカバーしながら、値段的にお手頃な場所ということで、洋人はあれこれ考えて選定したのだが、そもそもこの店を紹介してくれたのが東嶋だった。後になって思えば、こうなってしまったのは、限りなく必然に近い偶然であり、お歴々たちの質問に対し、詳細まで答えられないセンター長及びグループ長のサポート役として洋人が補足を入れるという役を仰せつかうことになったのである。

 洋人は完全に辞去するタイミングを逸したまま場違は承知の上でこの集団と共に会場へ向かうことになった。当然、洋人に声を掛けてくる人間はいなかった。


 午後一時に経営計画発表会が始まり、その間何度か休憩はあったものの、今度は同期や元職場の先輩後輩が行ったり来たりで、喫煙所に行くことはできず、毎年のことではあるがあれよあれよという間に時間が押して、さすがの洋人も徐々に苛立ちを感じ始めた。典型的なニコチン切れの症状で、輪っかの中をカラカラと駆け回るネズミのように焦燥感が増し、無性にタバコを吸いたくなったが、そこら中に知り合いがいて引き留められてしまう。そして、どうにかして誰にも邪魔されず喫煙所に行けないものかと思案していた洋人の前に、止めを刺すように現れたのは、奥枝美保子だった。

 どうしてこんな時に! と一瞬美保子を恨みそうになったが、これも仕方がないと持ち前の営業根性と理性と鉄壁のネコを総動員して彼女のくだらないおしゃべりに付き合い、吐き気がしそうな香水の匂いにも耐えていたところに、誠の姿が飛び込んできた。


 その光景を見た時の怒りと言ったらなかった。


 公衆の面前だというのに、洋人は一瞬ヒクリと頬を引き攣らせ、爪痕が残る程堅く自分の拳を握り込んだ。

 洋人の目の前で、誠は女性の注目を一身に浴びていた。

 新調したスーツを身に纏い、颯爽と現れた誠に、女性たちは目の色を変え、黄色い声を出し、頬を紅色に染めた。

 誠は会場の出入り口のドアの前で新入社員と思しき女性社員とぶつかり、一言二言言葉を交わしたようだったが、たったそれだけで周囲は騒然となり、其処彼処からため息とも悲鳴ともつかない声が上がった。誠と接触して腰を抜かしている女性社員を労る風を装って無関係な女性たちが彼の周りに集まり始めると収集は付かず、混乱は更に深まるばかりだ。

 洋人の隣で美保子がギリギリとその集団を睨みつけ歯ぎしりしていたが、タバコを吸えない苛立ちもあって、洋人の方こそその集団を蹴散らしてしまいたい衝動に駆られていた。

 曲がりなりにも洋人と誠は恋人同士である。その噂は会社中に廻っているはずだ。

 にもかかわらず、誠に秋波を送る女性が後を絶たないのは、自分達の関係がそれだけ軽薄で、誠に隙があるからに他ならない。

 洋人が見ている間にも、人垣は厚みを増していった。その状況になす術もなく、明らかに狼狽えている誠の表情が見て取れる。女性のパワーに圧倒されてどうやってこの状況から抜け出せばいいのか人馴れしてない誠には対処法が分からなかったのだ。


 洋人は内心舌打ちをした。


 心の中は美保子以上に嵐が吹き荒れていたが、それをそのまま表に出すわけにもいかない。臍を噛むような思いで誠を見守っていると、黒い制服を着たホテルの従業員がやってきて粛々とその場を収めていった。

 誠は逃げる様に古巣の同僚たちが集まる場所へと移動し、注目する数多の視線に背を向けて会話を始めたが、その程度のアピールで女性たちの関心を振り切ることなどできるはずがない。秀麗な面立ちに、申し分のない高身長。そこにスラリと伸びた四肢と、ベルベットのように耳障りの良い低く甘い声も添加されているのだから尚更だ。完全無比の美貌に誰もが関心を抱くのは当然のことだった。

 それでいて、保守グループという技術畑のど真ん中で世捨て人のような生活を送っていたせいで、誠の対人スキルはとっくの昔に退化している。人が集まる場所での経験値が恐ろしいほど低いため、砂糖に群がるアリのように次から次に湧いて出てくる女性たちに対し、逃げる以外、解決方法が見いだせなかったのだ。


 洋人のイライラはピークに達した。

 本当なら、この状況に内心ビクついているであろう誠の尻を思い切り蹴飛ばしたい気分だったが、両肩に乗せた巨大なネコがそれを許さない——で、あるならば、毒をもって毒を制するまでだ。黒々とした感情と共に洋人の頭に名案が浮かんだ。

 偶然にも洋人の右隣には社内一、二を争う毒花が豊満ボディに、赤字覚悟の大盛りサービスか! とツッコミたくなる程のフリッフリのフリルを盛りに盛って立っている。これを利用しない手はない。


「奥枝先輩。僕、星野さんに用事があるんですけど、少しだけ良いですか?」


 洋人の思惑通り、美保子はぱっと顔を光らせてその申し出を了承した。美保子は性格に難ありの典型的カースト女子である。彼女の中にはお気に入り社員が山ほどいるが、そこにも明確な序列が存在する。彼女のカーストの頂点に誠が君臨していることは、誰もが知るところである。洋人の提案を拒否するわけがなかった。

 誠は洋人のことを恨んでいるかもしれないが、これぐらいやんないと無理でしょ、というのが洋人の見解だ。

 それが証拠に、美保子を誠にぶつけたことで、誠に注目していた女性社員たちは一気に鼻白らんだ。社内に淑女協定を敷いた張本人であり、敵に回すと面倒なことこの上ない美保子は電撃が走る有刺鉄線のごとく取り巻きたちとの間に一線を引き、その戦意を喪失させたのだ。

 洋人は胸のすく思いでその場を立ち去り、その途中でホテルマンに喫煙所の場所を尋ねた。


『本日、このフロアの御手洗いは全て女性専用となっています。男性用は二階に準備しておりますが、その廊下を奥へ進みますと北口へ出る階段がございます』

 

 すらすらと淀みなく道順を知らせてくれた彼の対応や物腰は学ぶべき点が多かった。


『トイレ前の廊下が混雑する今日のような日は、中央階段側からは見えなくなってしまう位置にあるので、行列の後ろに並ぶフリをすれば、皆さんに気付かれることなく北口に出る事が出来るかと思います。北口を出ますと、正面に川があります。川縁のベンチは地上からは死角になっていますので、ゆっくり休憩することも出来るでしょう』


 彼の言葉通りそこは絶好の穴場だった。頭上に掛かる橋は頻繁に人や車が行き来していたが、身を乗り出して橋の真下を覗き込まない限り居場所を知られることはない。夏の気配を滲ませた六月の日差しの中でも、橋梁が作る影と川が運ぶ冷たい風が心地よい空間を作り出してくれていた。

 キラキラと光を反射する水面をぼんやりと眺めていた洋人はポケットの中で振動を感じ、スマートフォンを取り出した。


「もしもし」


『お前今どこにいるの?』


 誠だった。


「川ですよ。ベンチで休憩しています」


『人にあんなもん押し付けて一人で逃げてんじゃねーよ』


「女性に対してその言い方はいかがなものかと思いますが」


『生憎俺はお前みたいに化け猫を飼ってない一般人ですから』


 声に怒りが混じっている。奧枝美保子の襲撃がよほど堪えたのだろう。


『今からそっち行く。どうやって抜け出したんだよ?』


 洋人が煙を吐きながらクスクス笑うと、電話のむこうで誠はもっと不機嫌になった。


(続)


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