08話 蛇足のエスケープ 1

 やっと自由になれた……。

 

 空に向かって紫煙を吐きながら洋人はしみじみと感慨に浸った。


 今日はいつも通り出社したものの一時間ほど仕事をした後、すぐさま移動を開始した。

 街外れの湾岸エリアにあるコールセンターは交通の便がすこぶる悪い。会場に入る前に昼食を済ませる必要があったため、洋人たちが朝のうちに処理出来た業務はほんの僅かだった。


 毎年のことだが経営計画発表会の当日は、県外にある支店も全て閉店している。

 いつもの職場、いつものメンバーと顔を合わせているのに、何となく落ち着かない雰囲気が漂っていたのは普段と勝手が違う会社の体制に加え、皆一様に折り目正しいビジネススーツに身を包み畏まった格好をしていたせいだろう。

 営業部にとっては年に一度の晴れ舞台。この日の為に一年間必死に頑張った、という社員も少なからずいる。コールグループの男性社員も今日ばかりはそんな祭典に華を添えるべく、普段よりも少しだけ上品な色味や生地のスーツをチョイスしていた。


 洋人たちはセンター長と共に十時半に事務所を出た後、会場近くの定食屋に向かった。

 昼食には少し早い時間帯だったので店が混雑している様子はなかったが、七人という大所帯だったせいか二組に分かれて案内され、洋人はそこで営業部の統括である東嶋とうじまに遭遇したのである。

 東嶋は営業部のトップに君臨する男だ。

 彼の姿を見た途端センター長とグループ長は仕事モードに切り替わり、自ずと洋人もその流れに巻き込まれることになった。不運なことに、四、三で分かれた席のこちら側に洋人以外の課員はいない。食事をしながら談笑に耽っていた別席の四人は東嶋率いる一行に挨拶こそしたものの、『君子危うきに近寄らず』とばかりに昼食後は別行動を取り、和気あいあいコーヒーショップへと消えてしまった。

 東嶋に話しかけられ辞去するタイミングを逃してしまった洋人は、店の選択を誤ったと後悔したが全ては後の祭りだった。

 経営計画発表会当日の昼食は勤務地周辺で終えるか、会場付近で済ませるかの二択になる。コールセンター周辺は店も限られており、会場までの移動時間もあるためコールセンター勤務の大半の社員は後者を選択する。

 今回はセンター長も同行すると言うので、コールグループの中で若手に属する洋人は幅広い年齢層に対応し、且つ値段的にもお手頃な店を事前にピックアップしていた。迂闊だったのは、いくつか候補があった中で今回選んだ店というのが、そもそも東嶋の紹介で知った場所であったといことだ。当然、東嶋の選択肢の中にも入っていただろうに、洋人はそのことを失念していた。

 東嶋が従えていたのは第一、第二、第三営業部の部長三人、とどのつまり営業部トップ4の一団である。センター長がいるだけでも気を遣うのに、洋人は上司と共に営業部のトップ会談に同席することになってしまったのだ。

 五人は近況報告がてら、部署の現状や他社の動向について話を始めた。コールセンターの近況についてはセンター長が話をすることになるのだが、センターにはコールグループ、料金グループ、テクニカルサポートグループと大きく分けて三つの部門が存在するため、他の三部長とは守備範囲が異なる部分も出て来る。洋人とグループ長の赤嶺は、センター長が説明しきれない現場の詳細を適宜補足する必要があった。


 午後一時に経営計画発表会が始まり、その間何度か小休憩はあったものの、今度は同期や元職場の先輩後輩が引っ切り無しに洋人の元へやってきて、喫煙所に行くことができない。そしてこれも毎年のことではあるが、あれよあれよという間に時間が押し、発表会が閉会する頃にはさすがの洋人も苛立ちを感じ始めていた。

 典型的なニコチン切れの症状だった。輪っかの中をカラカラと駆け回るネズミのように焦燥感が増し無性にタバコを吸いたくなったが、喫煙所に行こうとする度に、そこら中に知り合いがいて引き留められてしまう。

 そして、どうにかならないものかと考えあぐねていた洋人の前に止めを刺すように現れたのが奥枝美保子だった。

 どうしてこんな時に! と一瞬美保子を恨みそうになったが、これも仕方がないと持ち前の営業根性と理性で鉄壁のネコを総動員し、彼女のくだらないおしゃべりに付き合った。ニコチン切れに加え、吐き気がしそうな香水の匂いに頭痛を覚えながら、彼女の機嫌を損ねないよう当り障りのない対応を心がける。努力を重ね続けた洋人の視界に、最後の最後に飛び込んできたのが女性に囲まれる誠の姿だった。


 その光景を見た時の怒りと言ったらなかった。


 公衆の面前だというのに洋人はほんの一瞬真顔になり、爪痕が残るぐらい固く自分の拳を握り込んだ。

 新調したスーツを身に纏い颯爽と現れた誠に、女性たちは熱い視線を送り、黄色い声を出し、頬を紅色に染めた。一斉に紅葉する山肌のごとく女性たちは色めき立ち、誠の一挙手一投足を見守っている。

 誠は会場の出入り口のドアの前で新入社員と思しき女性とぶつかり、一言二言会話を交わしたようだったが、たったそれだけで辺りは騒然となり、其処彼処からため息とも悲鳴ともつかない声が上がった。誠と接触して腰を抜かしている女性社員を労る風を装って無関係な女性たちが彼の周りに集まり始めると、いよいよ収拾がつかなくなり、混乱は深まるばかりである。

 美保子はギリギリとその集団を睨みつけ歯ぎしりしていたが、タバコを吸えない苛立ちもあって、洋人の方こそその集団を蹴散らしてしまいたい衝動に駆られた。二人が見ている間にも人垣は厚みを増していく。そんな状況になす術もなく、狼狽えている誠の表情が見て取れた。

 コールセンターに異動になる以前、誠はネットワークセンターという保守グループの本丸で神のように崇められ、重宝されていた。ちょこちょこと部署異動はあったものの、ネットワークセンターの外に出ることがなかったため、交友関係も限られ、社会人でありながら引きこもり同然の生活である。

 同期会の誘いにも応じず、経営計画発表会にも姿を現さない誠の希少価値は天井知らずで上昇し、それに反比例するように本人の対人スキルは低下した。不均衡がピークに達したこんな状態で社内一の祭典に突如顔出ししたのだから、騒ぎになるのも当然だった。


 洋人は心の中で盛大な舌打ちをした。


 おそらく美保子以上に胸の裡に嵐が吹き荒れていたが、それをそのまま表に出すわけにもいかない。臍を噛む思いで渦中の誠を見守っていると、黒い制服を着たホテルの従業員がやってきて粛々とその場を収めていった。

 逃げるように古巣の同僚たちが集まる場所へと移動した誠は、注目する数多の視線に背を向けて会話を始めたが、その程度の『接近禁止』のアピールで女性たちの関心を振り切ることなどできるはずがない。

 洋人のイライラは極限に達した。

 本当なら、この状況に内心ビクついているであろう誠の尻を思い切り蹴飛ばしたい気分だったが、両肩に乗せた巨大なネコがそれを許さない——

 

 ——で、あるならば、毒をもって毒を制するまでだ。


 黒々とした感情と共に洋人の頭にある名案が浮かんだ。

 偶然にも洋人の右隣には社内一、二を争う毒花が豊満ボディに、赤字覚悟の大サービス! とばかりにフリッフリのフリルを盛って異臭を放っている。これを利用しない手はない。


「奥枝先輩。僕、星野さんに用事があるんですけど……」


 洋人の思惑通り、美保子はぱっと顔を光らせてその申し出を了承した。

 美保子は性格に難ありの典型的カースト女子である。彼女の中にはお気に入り社員が山ほどいるがそこにも明確な序列が存在し、誠が不動の頂点に君臨していることは、誰もが知るところである。洋人の提案を拒否するはずがなかった。


 誠は洋人のことを恨んでいるかもしれないが、あれだけの女子を相手にするのだ。『これぐらいやんないと無理でしょ』というのが洋人の見解だ。

 それが証拠に、美保子をぶつけたことで誠に注目していた女性社員たちは一気にトーンダウンして鼻白らんだ。社内に淑女協定を敷いた張本人であり、敵に回すと面倒なことこの上ない美保子は有刺鉄線のごとく、取り巻きの女たちとの間に一線を引き戦意を喪失させたのだ。

 洋人は胸のすく思いでその場を立ち去り、途中でダンディなホテルマンに喫煙所の場所を尋ねた。


『本日、このフロアの御手洗いは全て女性専用となっています。男性用は二階に準備しておりますが、その廊下を奥へ進みますと北口へ出る階段がございます』

 

 誠の騒動を収めた手際の良さから、ベテランだろうとは思っていた中年の男性は、一秒たりとも気を抜くことなく背筋をシャン伸ばし、すらすらと淀みなく道順を知らせてくれた。営業マンとして彼の対応や物腰は学ぶべき点が多かった。


『トイレ前の廊下が混雑する今日のような日は、中央階段側で待機するお客様には、北口の階段が見えなくなってしまうので、男性トイレの列に並ぶフリをして階段を降りれば一階のロビーを通過することなく外に出ることができます。北口を出ますと正面に川がございます。川辺のベンチは地上から死角になりますので、そちらでゆっくり休まれてはいかがでしょうか』


 彼の言葉通りそこは絶好の穴場だった。頭上に掛かる橋は頻繁に人や車が行き来していたが、身を乗り出して橋の真下を覗き込まない限り居場所を知られることはない。夏の気配を滲ませた六月の風が川を渡り、心地よい空間を作り出してくれていた。

 ゆるゆるとタバコを咥えながら、見るともなしに光を反射する水面をぼんやりと眺めていた洋人はポケットの中で振動を感じ、スマートフォンを取り出す。


「もしもし」


『お前今どこにいるの?』


「川ですよ。ベンチで休憩しています」


『人にあんなもん押し付けて一人で逃げてんじゃねーよ』


 奧枝美保子の襲撃がよほど堪えたのだろう。誠の声は怒気を孕んでいた。 


「女性に対してその言い方はいかがなものかと思いますが」


 洋人が煙を吐きながらクスクス笑うと、電話のむこうで誠はもっと不機嫌になる。しかし、年がら年中子供のように駄々を捏ねている誠を知っている洋人は、その気配を察しても少しも怖くなかった。


『生憎俺はお前みたいに化け猫を飼ってない一般人なんだよ』


 本人はそう言っているが、その対人能力は一般人には遠く及ばない。美保子を押し付けられたことを不満に思う前にあの状況を自分で回避したら良かったじゃないかと洋人の方こそ文句を言いたかった。


『今からそっち行く。どうやって抜け出したんだよ?』

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