09話 蛇足のエスケープ 2
「お前さぁ……マジでいい加減にしろよ」
ホテルマンが教えてくれた道順で追跡を躱した誠は、洋人を見るなり美しいことこの上ない顔に苦情を乗せて渋面を作った。恥を恥とも思わない奥枝の特攻がよほど堪えたらしい。
九死に一生を得た生還者のようにどかりとベンチに腰を下ろし、長い足を交差する。スラリと投げ出された膝下の長いこと長いこと。
「センターの奴らも完全に引いてたじゃん。せっかく久しぶりに会えたのに……」
誠が言う『センター』とは古巣であるネットワークセンターのことである。慣れ親しんだメンバーとの再会を邪魔してしまったのは悪かったが、そもそも誠が女性相手にこれといった手も打たずボーっとしているからいけないのだ。洋人にだって言い分はある。
「奧枝さん、今頃必死になって探してるでしょうね」
「知るか」
吐き捨てるように言って誠は「タバコ」と手を差し出してきた。洋人は
「……相当機嫌悪くない? 疲れてんの?」
「ちょっと色々ありまして」
本当なら誠にだってこんな姿は見せたくないが、ニコチンを摂取しても消えないイライラをぶつける相手は目の前の美丈夫以外にいない。
洋人は心のモヤモヤを押し流すように一つ息を吐いた。
「昼ごはん食べてる時に、統括に捕まったんですよ」
「
「東嶋部長でしょ。営業部の首長を呼び捨てするとは何事ですか」
「俺、あのオッサン嫌い」
「誠さんが営業部を嫌いなことは重々承知してますけど、せめて今日ぐらいは礼節を持った対応を心掛けてくださいね。どこで誰が聞き耳立てているか分からないんですから」
「で? コールグループのお前に何の用事? そっちから営業電話でも掛けろって?」
「いえ、僕にってわけではないんです。ただ、成り行き上立ち去る事ができなかったので、食事が終わってからずっと話に付き合って……営業部の部長三人と、うちのセンター長、グループ長と、会場に入ってからは専務まで。そんなこんなでタバコ吸う暇もなくて……」
営業部のトップメンバーが揃いも揃ってわちゃわちゃしていたのだ。センター長は数字には強いが、コールグループの現状まで完璧に掌握できているわけではない。
営業以外の問い合わせも集中する職場なのでそれも致し方ないが、細かい話になると、実際に働いている洋人たちが補足するという遣り取りが続いた。専務が現れると更に緊張感は増し、洋人が言葉を発する機会はさらに減ったが、目立ち過ぎず控えめになり過ぎず薄氷を踏むような時間を過ごさねばならなくなった。これが疲れないでいられるだろうか。
「発表会の間もいろんな人がやって来るから結局喫煙所に行けなくて、やっと終わったと思ったら、今度は奥枝さんがやってきて……」
そして、何よりも一番苛立たせたのは誠なのだと一向に消えてくれないイライラの正体に気付いて、洋人は再びため息を吐いた。
「相変わらずですよね。彼女」
「相変わらずどころか、年々パワーアップしとるわ。『誠きゅん』って何だよ」
本気で嫌がっている誠に、洋人は力無く笑う。
「ベタ褒めでしたよ。そのスーツ」
「お陰様で。保守の奴らもワイワイ言ってたわ。見違えたとか、馬子にも衣装とか……」
誠はそう言いながら、左手でネクタイを緩めた。
私服通勤の作業着勤務なので、スーツが窮屈で仕方ないのだろう。
かく言う洋人ではあるが、誠の作業着姿はかなり気に入っている。いかにも現場人間な雰囲気や、汚れを気にすることなく作業に打ち込む姿が、スーツ勤務で清潔感を求められる営業サイドの洋人には、殊更豪快に男らしく映るのだ。
画面一杯に謎の英数字が並ぶノートパソコンを覗き込み、無機物と対話する表情は真剣そのもので、ブーブー文句を垂れ流しているいつもの誠からは想像もできない。ランプを点滅させている機械の方がいっそ生き物らしいと思えるほど、静謐で冷たい仕事人の姿を思い浮かべたら、洋人は訳もなく胸の奥が切なくなった。
こんな風に、このスーツ姿も自分の心の中だけに留めておけば良かったのだ……。
あのお偉方との会話にも誠の話題は登った。その昔、誠が企業パンフレットのモデルに起用されたことを専務が覚えていたのだ。新調されたスーツが誠の株を上げたことを喜ぶ一方で、あの男は奥枝美保子どころか、専務までたらし込もうとしているのか、と洋人は遠い目で彼らの話を聞いていた。
隣を見ればその根源が、着崩したスーツ姿でゆるゆるとタバコを吹かしている。川面を渡る風が誠の髪をサラリと撫でると、まるで映画のワンシーンのように完璧な光景が展開され、その神々しさに洋人はただただ絶望するしかなかった。
「あーあ……スーツなんて買いに行くんじゃなかった」
両手で顔を覆い、今更ながらに後悔を口にする。
「はぁ? お前が買え買え言うから買ったんだろうが」
そう。全てはそこなのだ。
こんな事態を招いてしまったのは全て洋人の自業自得の産物だった。
経営計画発表会の二週間前、洋人は誠を連れ立ってスーツを買いに出かけた。
誠が経営計画発表会のために準備していたスーツはリクルーター時代に揃えたもので、季節感もなければデザインも古すぎた。よくよく話を聞いてみれば、誠は入社後二年の間は真面目に経営計画発表会に参加したものの、その後はずっと居残り組として、職場で働いていたのだと言う。誠が発表会に顔を出すのは実に九年ぶりの事で、その間スーツを着る機会もなかったため、これ以外に待ち合わせがないとのことだった。
年一のことだからわざわざ買うまでもない、と抵抗する誠を説き伏せてスーツショップへと足を運び、洋人はあーでもない、こーでもないと思案しながら、誠がこの先何年もスーツを買ったりしないであろうことを見越して、色もデザインも飽きのこない一着を選んだ。
上下の揃いに加え、中に着るカッターシャツ、服に合う靴まで徹底的に吟味する洋人を他所に、当の本人は疲れきった様子で最後は投げやりになっていた。ややもするとこのまま逃げ出し兼ねない誠を宥めるために、ネクタイだけは洋人の持ち物を貸与するという条件で洋人はどうにかこうにか本懐を遂げたのである。
社内一と誉高い色男のことだから、どんなスーツでも似合ってしまうのだろう。そんな予感は確かにあった。しかし、洋人が選んだ落ち着きのある色合いのスーツはその予測を遥かに超え、普段の職場ではあまり見かけることのないストイックでひたむきな誠の一面をこれ以上ない程に引き立たてていた。試着室から出て来た誠を見た瞬間、洋人は時も場所も弁えずポカンと口を開けたまま、その完璧すぎる姿にしばしの間見惚れてしまったのである。
本来持ち合わせた誠の魅力を最大限引き出せたことに満足しながら店を後にし、自宅に戻った洋人は更に張り切って自分のクローゼットの中からこれぞというネクタイを選んで渡した。
華やかなイベントの場であるため洒落っ気は欠かせない。洋人が選んだそのネクタイはオーソドックスな柄ではあるが、色使いがユニークで濃紺のスーツにもよく映える一品であった。
『よしよし、これで完璧だ』と、少なくともその時点まで……否、今日職場に出勤するまで洋人は一ミリも自分の行動を後悔していなかったのだ。
上げればきりがない誠の欠点の中で、唯一服装のセンスについては自分の力で何とかなるのではないかと洋人は常々思っていた。それを実行してみると誠は見違えるほど素晴らしい社会人に仕上がった。皆が驚く顔を想像するとワクワクが止まらなくなり、 「似合ってるよ」「カッコいいよ」と数々の称賛に照れくさそうに笑う誠の姿を思い浮かべ、柄にもなく有頂天になっていたのだ。
——そして、迎えた今日。
件のスーツで誠が職場に姿を現した時、洋人は自分が作り上げた『理想の男』がただの人間兵器でしかなかったことを思い知ったのである。
スーツを着た誠から全方位に放出される魅力は暴力的ですらあった。
称賛の言葉は一言も出て来ず、代わりにその場にいた全員が魔法にかかってしまったかのように時を止めて固まってしまった。
予想外の事態に洋人は焦った。自分が見せたかったのはいつもとは雰囲気の違う『大人な星野誠』だ。皆の心を魅了し腑抜けにしてしまう戦略兵器を作りたかったわけではない。
しかし、冷静になって考えれば皆が骨抜きにされてしまうのも仕方のないことだった。これほどまでに星野誠を知り尽くした自分ですらも、試着段階で心を奪われてしまったではないか。それが、シャツやネクタイ、靴まで完璧に揃った状態で、洋人ほどに免疫のない人々の前に現れたのだ。
もしこれが、経営計画発表会の会場だとしたら……
洋人は思わず身震いした。
頭がお花畑だった。
あまりにも浅はか過ぎた。
その一言に尽きる。
その結果が、ニコチン切れの窮地で遭遇した今日の一切合切だった。
諸悪の根源は、自分には非がないとタバコを吹かしながら憤慨するばかりで、後悔する洋人の気持ちには全く気づいてない。
犯罪の片棒を担いだような、飼い犬に手を噛まれたような、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったような……。一言では語りつくせないほどの後悔を抱える自分と、外見が変わったところで何ら変わらない誠を見て安心している自分……。
とにもかくにも洋人は複雑な気分だった。
「えーえー。そうですよ。その通りですよ」
げっそりとため息をこぼす洋人に納得がいかないと誠は眉を顰める。
「何それ? 何その態度?」
「別に。自分のバカさ加減を反省しているだけです。どうですか? 九年ぶりの発表会は?」
「面白いわけねーだろ。盛り上がってんの営業だけだし」
経営計画発表会は、今期の各部門の方針発表と共に優秀な成績を収めた営業マンの表彰式も行われる。経営計画発表会の時間が押してしまうのは、この表彰式の影響が大きい。営業マンにとっては一年間の集大成とも言うべき晴舞台だが、非営業部門の社員はずれ込んでいく式次第に文句も言えず、延々と拍手を繰り返すだけの時間が続く。
「保守は大半が寝てるか暇潰しに勉強してるよ。CCNAとか、主任技術者とか」
「そうなんですか?」
「ただ座ってるだけじゃ時間経たねーもん。何年前だったか、何人かでゲーム機持ち込んだら会場暗いから画面の光でソッコーバレたことがあって……」
保守グループの悪巧みに、洋人はふふっと笑みをこぼした。
誠と話をしただけで不思議と疲れが少し飛んで行った気がする。
馬子にも衣装なんて揶揄われるほどに、保守グループに愛されている誠を見ているだけで、ほっこりと幸せな気分になる。
——ま、いっか。
洋人はいつも繰り返している呪文を胸の中で唱える。誠が注目されるのは仕方がない。恋人とはいうものの、自分にその権利を主張できるほどの正当性があるかと問われれば、そういうわけでもない。
「コールはこれ終わったら飲み会?」
「恐らくそうなるでしょうね」
「あのオッサンも一緒?」
「そこはわかりません。今のところそういった話は出てないですよ。東嶋部長の都合もあるでしょうし」
営業部の飲み会は人脈形成の場であり、情報交換の場でもある。それを打算的だと嫌う誠のような人間もいるが、営業とはそういうものだ。楽しめるのはほんの一部、大半は仕事の延長である。
「誠さんの方はどうなんですか? 保守グループの皆さんと会うのも久しぶりでしょう?」
誠がそういう場が苦手なことは知っているが、流石に今日ぐらいは……と洋人が訊ねると、誠は満更でもなさそうに首を傾げた。
「そうねー。ちょっとだけ顔出そうかなぁ……久しぶりに」
「いいんじゃないですか? たまには外に出て対人スキルを磨いてきて下さいよ」
人づきあいが苦手な誠が心置きなく話ができる古巣のメンバーだ。洋人よりも断然付き合いは長いし、専門的な話やゲームの話にも花が咲くことだろう。
「誠さんが飲みに行くって言ったら、女の子もゾロゾロ付いて来るんじゃないですか? ……良かったですね。モテモテで」
洋人は誠の胸元に手を伸ばし、緩んだネクタイを締め直す。
誠が参加したいと思える飲み会。それはどんな飲み会なのだろう。
興味はあっても、昼間に勃発した営業部の重役会議以上に洋人には縁のない場所である。そんなところに洋人が呼ばれるわけもなく、参加させてくれとも口にはできない。
「それ、褒めてんの?」
「褒めてるように聞こえました?」
されるがままの誠は、横を向いてタバコの煙を吐いた後、再びこちらに向き直り洋人を見下ろした。
「……そういうお前こそ、モテモテじゃん? 飲み会行って浮気すんなよ」
洋人はあまりにも頓珍漢なその言葉に思わず吹き出した。
一体何の心配しているのか。そう言う誠こそ数多の浮気相手候補が存在することを今日証明してみせたばかりなのに。
しかし、笑いながら見上げた先には、思いのほか真剣な……真面目な顔をした誠の姿があった。
トクンと心臓が波打ち、洋人の顔から笑みが消えた。
「……バカな心配してる暇があったら、女の子達を撃退する処世術を少しでも身につけてくださいよ……」
二人の瞳が、それぞれ何か言いたげにスルリと絡まる。本当に伝えたかった言葉を飲み込んだまま二人の顔が近づき、洋人は静かに目を閉じて誠のキスを受け入れた。
陽が傾き始めた橋の下、甘噛みするように重ねられた唇は、すぐに離れてしまう。物足りなさを感じた洋人と同じ色を残した誠の瞳だけは、唇が離れた後も互いの姿を捉えて離さなかった。
「……タバコ、俺が預かっててもいい?」
誠がIQOSの機体を握ったまま洋人に囁く。湿度を含んだ風が二人の間をゆっくり流れ、セットされた洋人の髪僅かに揺らした。
「それはちょっと……。お酒飲んだら絶対吸いたくなりますって」
チェーンスモーカーではないにしろ、洋人もそれなりに喫煙歴のある人間だ。素面の状態ならまだしも、酒の席でタバコが吸えないのは辛すぎる。
「だからだよ。そんぐらいやんないと、お前誰にでも付いて行きそうだし」
「心外なこと言わないでください。
二人とも通ったことがある、所謂ハッテン場と呼ばれる店の名前を出して、洋人はIQOSを取り戻した。どうやら本気で心配しているらしい誠に苦笑しながら、吸い終えたカートリッジを携帯灰皿に仕舞い、代わりにキーケースを取り出す。
「はい、これ」
手のひらに置かれた革製のキーケースに誠が目を瞠った。
「飲み会行くにしろ、行かないにしろ、誠さんの方が先に終わるでしょう? ちゃんと起きてて下さいよ。家に入れなかったら本気で無断外泊しますから」
洋人はそう言って、今し方整えたネクタイを引っ張って驚く顔を引き寄せた。
近づいてきた唇にもう一度キスをして、そのまま誠の胸にぎゅっと抱きつく。真新しいスーツの生地を通して誠の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ後、洋人は颯爽と立ち上がった。
「そろそろ時間なので僕は戻りますね。誠さんも遅れないでくださいよ」
「はいはーい」
適当な返事を寄越す恋人を見てその気がないことを悟ったのか「ダメだこりゃ」と肩を竦め、洋人は笑いながら背を向けた。
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