【NWC】6月 蛇足のエスケープ 2
「お前さぁ……マジでいい加減にしろよ」
ホテルマンが教えてくれた道順で追跡を躱した誠は、洋人を見るなり美しいことこの上ない顔に苦情を乗せて渋面を作った。あんなにしつこかった付き纏いもさすがに男性用トイレの前までは及ばなかったようだが、恥を恥とも思わない奥枝の特攻がよほど堪えたらしい。
九死に一生を得た誠はどっかりと洋人の隣に腰を下ろして、スラリと伸びた足を交差した。
「センターの奴らも完全に引いてたじゃん。せっかく久しぶりに会えたのに……」
久方ぶりの再会を邪魔してしまったのは悪かったが、そもそも誠が女性相手にこれといった手も打たずボーっとしているからいけないのだ。洋人にだって言い分はある。
「奧枝さん、今頃必死になって探してるでしょうね」
「知るか」
吐き捨てるように言って誠は「タバコ」と手を差し出してきた。洋人は
「今、相当機嫌悪いだろ? 疲れてんの?」
「ちょっと色々ありまして」
本当なら、誠にだってこんな姿は見せたくないが、ニコチンを摂取しても消えないイライラをぶつける相手は目の前の美丈夫以外にいない。
洋人は心のモヤモヤを押し流すように一つ息を吐いた。
「昼ごはん食べてる時に、統括に捕まったんですよ」
「統括って……東嶋?」
「東嶋部長でしょ。営業部の首長を呼び捨てするとは何事ですか」
「俺、あのオッサン嫌い」
「それは重々承知してますけど、せめてこんな時ぐらいは子供じみた態度を改めてくださいね」
「で? 統括部長がお前に何だって?」
「いえ、僕にってわけではないんです。ただ、成り行き上立ち去る事ができなかったので、食事が終わってからずっと話に付き合ってて……営業部の部長三人と、うちのセンター長、グループ長と、途中からは専務まで。そんなこんなでタバコ吸う暇もなくて……」
営業部のトップメンバーが揃いも揃ってわちゃわちゃしていたのだ。センター長は数字には強いが、コールグループの現状まで完璧に掌握できているわけではない。
営業以外の問い合わせも集中する職場なのでそれも致し方ないが、細々とした話になると、実際に働いている洋人がフォローを入れるという遣り取りが続いた。専務が現れると更に緊張感は増し、洋人が発する言葉は半減したが、当たらず触らず、目立ち過ぎず、控えめになり過ぎず、周囲の状況を読みながら、薄氷を踏むような時間を過ごさねばならなくなった。これが疲れないでいられるだろうか。
「発表会の間もいろんな人がやって来るから結局喫煙所に行けなくて、やっと終わったと思ったら、今度は奥枝さんがやってきて……」
そして、何よりも一番苛立たせたのは誠なのだと、一向に消えてくれないイライラの正体に気付いて、洋人は再びため息を吐いた。
「相変わらずですよね。彼女」
「相変わらずどころか、年々パワーアップしとるわ。『誠きゅん』って何だよ」
本気で嫌がっている誠に、洋人は力無く笑う。
「随分褒めてましたよ。そのスーツ」
「お陰様で。保守の奴らもワイワイ言ってたわ。見違えたとか、馬子にも衣装とか……」
誠はそう言って、左手でネクタイを緩めた。私服通勤の作業着勤務なので、スーツが窮屈で仕方ないのだろう。かく言う洋人も、誠の作業着姿はかなり気に入っている。如何にも現場人間な雰囲気や、ケーブルや機械を扱っている時の誠の静かで真剣な表情は、一緒に働く者にしか見ることのできない一面だ。
チカチカとランプを点滅させる機械の方がいっそ生き物らしいと思えるほど、その瞬間の誠の顔は静謐で冷たい。瑕一つ見つからない完成された仕事人の姿は、どれだけ見ても飽きるものではなかった。
そんな風に、このスーツ姿も自分の心の中に留めておけば良かったのだ……。
洋人は新調したスーツによって誠の株が上がったことを喜ぶ一方でそんなことを考えていた。
あのお偉方との会話にも、誠の話題は登った。過去会社のパンフレットに制服紹介のモデルとして起用されたことを専務が覚えていたのだ。
あの男は、奥枝美保子どころか、専務までたらし込んだのか、と洋人は遠い目で彼らの話を聞いていた。
隣を見ればその根源が、着崩したスーツ姿で、ゆるゆるとタバコを吹かしている。ファッション雑誌の一面を切り抜いたような完璧すぎる光景に、洋人は絶望するしかなかった。
「あーあ。……スーツなんて買いに行くんじゃなかった」
「はぁ? お前が買え買え言うから買ったんだろうが」
今更ながらの後悔を口にした途端、誠が牙を剥いた。
そうなのだ。
こんな事態を招いてしまったのは全て洋人の自業自得の産物だった。
経営計画発表会の二週間前、洋人は誠を連れ立ってスーツを買いに出かけた。誠が経営計画発表会のために準備していたスーツはリクルーター時代に揃えたもので、季節感もなければ、何もかもがダサ過ぎた。よくよく話を聞いてみれば、誠は入社後二年の間は経営計画発表会に参加したものの、その後はずっと居残り組として、職場に残っていたと言う。誠が発表会に顔を出すのは実に九年ぶりの事で、その間スーツを着る機会もなかったため、これ以外に待ち合わせがないとのことだった。
年一のことだからわざわざ買うまでもない、と抵抗する誠を説き伏せてスーツショップへと足を運び、洋人はあーでもない、こーでもないと言いながら、恐らくこの先何年もスーツを買ったりしないであろう誠のことを見越して、色もデザインも飽きのこない一着を選んだ。上下のツーピースに加え、中に着るカッターシャツ、服に合う靴まで徹底的に吟味する洋人とは裏腹に、当の本人はすっかり疲れた様子で最後は投げやりになっていたので、ネクタイだけは洋人の持ち物を貸与するということで何とか購入まで漕ぎつけたわけだが、その時点まで……否、今日この場に来るまで洋人は一ミリも自分の行動を後悔してはいなかった。
社内一と誉高い色男のことだから、どんなスーツを選んでも見事に着こなしてしまうのだろうが、洋人が選んだ落ち着きのある色合いのスーツは、普段見ることができないストイックでひたむきな誠の隠された一面を引き立たてていた。
本来持ち合わせた誠の魅力を最大限に引き出せたことに満足し、自宅に戻った洋人は、自分のクローゼットの中からこれぞというネクタイを選んで誠に渡した。
経営計画発表会という華やかなイベントの場でもあるため、洒落っ気も欠かせない。そのネクタイはレジメンタル柄のオーソドックスな物ではあるが、色使いが少しユニークで、濃紺のスーツに合わせると胸元が映えて、程よいアクセントになっていた。
いつも作業着で仕事をしている反動もあって、正装した誠から全方位に放出される魅力は破壊的で暴力的ですらあった。昼夜を問わず、もう散々見尽くして、知り尽くして、この美形を見飽きるほど見慣れてしまった洋人ですら思わず呆けてしまったほどだ。
そんなこともあって、洋人は柄にもなく有頂天になっていた。
誠をここまで完璧に整えたのは自分だという満足感が、自己顕示欲や独占欲と相まって、とても誇らしい気分で今日を迎えたのだが。
浅慮だった。
頭がお花畑だった。
余りにもバカ過ぎた。
その一言に尽きる。
洋人の思惑通り誠が出勤するとコールセンターにいた皆が息を飲み、目を瞠った。
誠と洋人以外の人間は夢の世界に迷い込んだかのように時を止め、室内がシンと静まり返ったのだ。
洋人は内心鼻高々であったが、それが八百余名の人間の前に晒された時の衝撃を推し量るまでには至らなかった。
その結果が、ニコチン切れの窮地で遭遇した今日の一切合切だった。
諸悪の根源は、自分には全く非がないとタバコを吹かしながら憤慨するばかりで、洋人の気持ちには全く気づいてない。何だってこんな罪作りな男に加担してしまったのか。
げっそりとため息をこぼす洋人に納得がいかないと誠は眉を顰めている。
「えーえー。そうですよ。その通りですよ」
「何それ? 何その態度?」
「別に。自分のバカさ加減を反省しているだけです。どうですか? 九年ぶりの発表会は?」
「面白いわけねーだろ。盛り上がってんの営業だけだし」
経営計画発表会は、今期の各部門の方針発表と共に、優秀な成績を収めた営業マンの表彰式も行われる。経営計画発表会の時間が押してしまうのは、この表彰式の影響が大きい。営業マンにとっては一年間の集大成とも言うべき晴舞台だが、非営業部門の社員はずれ込んでいく式次第に文句も言えず、延々と拍手を繰り返すだけの時間が続く。
「保守は大半が寝てるか暇潰しに勉強してるよ。CCNAとか、主任技術者とか」
「そうなんですか?」
「ただ座ってるだけじゃ時間経たねーもん。何年前だったか、ゲーム機持ち込んだ奴がいたけど、会場暗いから、画面の光でソッコーバレたって言ってた」
保守グループの悪巧みに、洋人はふふっと笑みをこぼした。
誠と話をしているうちに疲れが少し飛んで行ったのは、恐らく、気のせいではない。
馬子にも衣装なんて揶揄われながら、保守グループに愛されている誠を見ていると、親心ではないが、ほっこりと幸せな気分になるのは事実だ。
「コールはこれ終わったら飲み会?」
「恐らくそうなるでしょうね」
「あのオッサンも一緒?」
「場合によってはそうなるかもしれませんけど、今のとこそういった話は出てないですよ。東嶋部長の都合もあるでしょうし」
営業部の飲み会は、人脈形成の場であり、情報交換の場でもある。それを打算的だと嫌う誠のような人間もいるが、営業とはそういうものだし、根本的に人が好きで相手を知りたいという気持ちがいつも心の中にある。
「誠さんの方はどうなんですか? 保守グループの皆さんと会うのも久しぶりでしょう?」
飲み会嫌いなのは知っているが、流石に今日ぐらいは、と洋人が訊ねると、誠は満更でもなさそうに首を傾げた。
「そうねー。その再会も人でなしに邪魔されたし、ちょっと顔出そうかなぁ……」
「いいんじゃないですか。天岩戸に隠れてないで、たまには外に出て対人スキルを磨いてきて下さいよ」
とはいえ、洋人は誠のことを束縛したいわけでもない。友人付き合いの薄い誠のことをそれなりに心配している。
「皆喜ぶと思いますよ。誠さんと飲みたいって人、ごまんといるでしょうから。良かったですね。相変わらずモテモテで」
洋人は誠の胸元に手を伸ばし、緩んだネクタイを締め直す。されるがままの誠は、横を向いてタバコの煙を吐いた後、マジマジと洋人を見下ろした。
「それ、褒めてんの?」
「褒めてるように聞こえましたか?」
「……そういうお前こそ、モテモテじゃん? 飲み会行って浮気すんなよ」
洋人はその言葉に思わず吹き出した。
誠は一体何を心配しているのか。そう言っている誠こそ数多の浮気候補が存在することを今日証明してみせたばかりなのに。
しかし、笑いながら見上げた洋人の瞳には、思いの外真剣な……それこそ、一緒に働いた人間にしか知り得ない真面目な顔をした誠が映っていた。
トクンと心臓が波打って、胸がきゅうっと苦しくなった。
「……バカな心配してる暇があったら、女の子達を撃退する処世術を少しでも身につけてくださいよ……」
二人の瞳が、それぞれ何か言いたげに言葉を飲み込んでスルリと絡まる
無言のまま誠の顔が近づいて、洋人は静かに目を閉じてキスを受け入れた。
夕方にはまだ早い橋の下、甘噛みするように重ねられた唇は、すぐに離れてしまう。物足りないと感じた洋人と同じ色を残した誠の瞳だけは、唇が離れた後も洋人を捉えて離さなかった。
「……タバコ、俺が預かっててもいい?」
誠がIQOSの機体を握る洋人の手に、自分のそれを重ねた。湿度を含んだ風がゆらりとセットされた誠の髪を揺らす。
「それはちょっと……。お酒飲んだら絶対吸いたくなりますって」
チェーンスモーカーではないにしろ、洋人もそれなりに喫煙歴のある人間だ。素面の状態ならまだしも、酒の席でタバコが吸えないのは辛すぎる。
「だからだよ。そんぐらいやんないと、お前誰にでも付いて行きそうだし」
「心外なこと言わないでください。そんなわけないでしょう。ARROWSで飲むのとはわけが違うんですよ」
二人とも通ったことがある、所謂ハッテン場と呼ばれるバーの名前を出して、洋人はIQOSを取り戻した。どうやら本気で心配しているらしい誠に苦笑しながら、ポケットに小さな機体を仕舞い、代わりにキーケースを取り出す。
「はい、これ」
手のひらに置かれた革製のキーケースに誠が目を瞠る。
「飲み会行くにしろ、行かないにしろ誠さんの方が先に終わりますよね? ちゃんと起きてて下さいよ。家に入れなかったら本気で無断外泊しますから」
洋人はそう言って、今し方整えたネクタイを引っ張って驚く顔を引き寄せた。
近づいてきた唇をもう一度捉え、そのまま誠の胸にぎゅっと抱きついてその匂いを胸いっぱいに吸い込んだ後、洋人は颯爽と立ち上がる。
「そろそろ時間なので僕は戻りますね。誠さんも遅れないでくださいよ」
「はいはーい」
適当な返事を寄越す恋人を見てその気がないことを悟ったのか「ダメだこりゃ」と肩を竦め、洋人は笑いながら踵を返した。
(続)
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