10話 蛇足のエスケープ 3
あのバカモノは本当に何にも気づいてないんだな……。
ベンチで一人佇む誠は、短く息を吐いて空を見上げた。
人のことはあんなに細かい部分まで気が付くのに、自分のことはまるで見えてない。スーツがどうだなんて心配する前に、自分の脇を固めるのが先じゃないのか。
「統括ねぇ……」
誰ともなしに呟く誠の頭には、創業以来の奇才と名高い男の姿があった。
彼がその座に就いたのは二年前の事だ。それまで東嶋は第一営業部の部長として、法人相手に取引をしていた。
競合他社がひしめき合うこの世界で、地場企業である強みを生かして様々な企画を立ち上げ、そのことごとくを成功させてきた功労者である。
東嶋のおかげで他社との差別化が進み、会社は提供エリア内で顧客満足度ナンバーワンの栄光を手にすることができた。月額料金が拮抗してきた近年では、電力系というブランドの信頼性もあってジリジリと顧客数が伸びていると聞く。
東嶋はどこにいてもすぐに居場所が分かる男だ。顔のパーツの一つ一つが大きく声もやたらデカい。見た目通りの朗らかな性格に、ジムで鍛えた立派な体躯も相まって、四十代とは思えないほど若々しい姿をしいている。
仕事においては先述の通り素晴らしい成果を上げているが、それ故に彼の要求は非常にレベルが高く、物怖じする人間も当然いる。東嶋の優れている所は、そんな時に飴と鞭を巧みに使い分けながらチームのモチベーションを維持し、皆を高みに導いて行く手腕にある。
陽キャの意識高い系
誠が最も苦手とする種類の人間だ。
この類の人間は『常に全力』みたいな自己啓発を恥ずかし気もなく口にして、自分のフィールドの素晴らしさをアピールしようとする。しかし、世の中には出世欲も夢も目標もなく、ただ言われたことをやってりゃいいと思いながら仕事をしている人間だって山程いるのだ。営業戦略が、他社の動向が、世の中のトレンドが……そんなものは上層部が考えることであって一課員の自分たちには関係のない話である。
通信インフラを支える保守の業務に休日はない。一たび障害が起これば会社に宿泊して対応することだってある。休日ですら緊急当番の持ち回りがあって行動を制限されるのに、そんな崇高な精神を語られたって共感などできるはずがない。仕事に対する誠のスタンスは『とにかく時間内に業務を終わらせて、さっさと家に帰る』ただそれだけだ。
誠が最も苦手とする精神論を掲げ、学園ドラマのような乗りで『苦しいこともある。でも楽しいこともある。だから皆頑張ろう!』などと言いながら、嬉々としてサービス残業している営業部を見ると途端に興ざめしてしまう。それに加えて厄介なのが、こういう類の人間は往々にして自分の考えは正しいと確信している傾向があり、『照れてないで、貴方も一緒にさぁどうぞ』とすぐに他人を巻き込もうとする点だ。『冗談じゃねーよ』と態度で示そうものなら『ああ、残念。貴方はまだ、こちらの楽しさを知らないんですね』と勝手に人を憐れんでくるので尚更具合が悪かった。
当然、その筆頭である東嶋に対しては虫唾が走るほど嫌悪感を抱いているのだが、その感情の根本的な原因は、幼少期におけるスクールカーストにまで遡る。
小、中学校時代、鼻つまみ者だった誠は常にスクールカースト最下位にいた。学校行事も休みがちで修学旅行にも行けない。そんな生活であったため、誠はクラスの話についていけなかったのだ。体調不良で行事を休んでしまったクラスメイトでさえ「よりにもよって、こんな時に休むなよ」と話題に取り上げてもらえるのに、いないのが当たり前だった誠にはその声さえ掛かることはなかった。
皆がワイワイ楽しそうに話す姿を指を咥えて眺めることしか出来ない。しかし、それは自身の努力だけでどうこうなるものではなく、誠は彼らと距離を取ることで自分を守り続けてきた。中途半端に手を差し伸べられて、延々と楽しかった行事の出来事を聞かされる方がよほど惨めだったからだ。
心の裡では色々思っているくせに、コミュニケーションやチームワークを殊更強調する営業部の異様なテンションが誠は大嫌いだ。
しかし、最近輪をかけて東嶋のことが苦手だと思うようになったのは、付き合いたての頃、洋人が散々口にしていた『理想の男』の条件が、まんま忌まわしき統括部長の特徴に重なることに気付いたからである。
誠が度々注意される、社会人としての礼節は当然のことながら、誰に対しても紳士的に振る舞う東嶋の姿には大人の余裕と色気が漂っている。ジムで鍛えたラガーマンのような分厚い胸板も、TPOに見合ったスーツもお金も、誠の手にはないものだ。
はたして、洋人のタイプに年齢制限があるのかどうか定かではないが、あの猫被りが忖度なしに東嶋を尊敬していることは明白で、傍から見ても分かるほどに東嶋も期待の若手を気にかけている。
——相思相愛——
そんな言葉が頭に浮かんだ。
誠はその昔、
繁華街にあるそのバーは、誠や洋人のような性的指向持つ人間が集まる場所であり、同士の間では有名だった。一夜の相手を求めて店に出向いた誠は、そこにひょっこり現れた東嶋を目撃した。
洋人が入社する前の話である。
場所が場所なだけにお互い声を掛けるようなことはなかったが、マスターと親しげに話をする様子を見て、東嶋が馴染みの客であることが分かった。その後、彼が誰とどこに消えたのかは知らない。
東嶋が離婚した、という話を耳にしたのはそれから数年後のことだ。
東嶋のことなど喋るタイミングもなかったので、洋人にはARROWSのことを伝えていない。
それをフェアではないと洋人が
誠は自分の意思で洋人に対して正直ではない状況を作り出している。
そうせざるを得ないほどに東嶋の存在は得体が知れず、厄介だった。
今日は、そこら中に会社の人間がいたため、顔の広い洋人が誰とどこで遭遇しても不思議ではない。しかし、定食屋で東嶋と出会い、そこから離脱できなかったというのは、近況報告の名の下に東嶋がそうさせたからではないのだろうか。
そんな気がしてならない。
誠はバイセクシュアルで女性との性交渉も可能な人間だが、家庭を持ちたいとか子供が欲しいといった願望が全くなかった。
女性か男性かと言われれば、男性と一緒にいる時の方が落ち着くし、気を使わない。それは友人関係でもそうだったし、セックスにおいてもそうだ。
女性と事に及ぶとどうしても母親のことが頭を掠める。それが原因でイケないこともある。誠が通っていた高校は男子の比率が多く、そういった環境も加担して、昔から性の対象に男性を選ぶことが多かった。それを恋人関係と呼ぶのか、体だけの関係と呼ぶのかは気にしたことはない。呼称がどうであれ、心はいつも平坦で一人に固執する感情がなかったからだ。
コールセンターに異動になった時、洋人にちょっかいをかけたのもそんな流れからだった。悪魔の異名を持ち、巨大なネコを被っている洋人が相手なら周りに吹聴される恐れもないし、後腐れもなくコンビニエンスに性欲処理ができそう——ただそれだけの理由だった。
しかし、今日洋人の口から東嶋の名を聞いたときに、何とも言えない嫌悪感とともにはっきりと自覚したそれは、嫉妬であり独占欲だ。
洋人を誰にも取られたくない。
そう思う一方で、完璧な東嶋とは対照的に、負債ばかりを抱えて何も持ち合わせがないこんな自分に洋人を引き留める資格があるのかと反問する声が聞こえた。
——負ける前に逃げてしまえ、と——
誠はポケットの中に手を突っ込んだ。
スマホを取り出すと、そこにあったキーケースがチャラっと音を立てる。
その音だけが、萎えて挫けてしまいそうな誠の勇気を支えてくれていた。
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