43話 黒いサンタが来る夜は 11

 逃げなきゃ。

 そう思った時には唇に温かいものが触れていた。

 一度だけ唇を押し当てた後、あっという間に離れていった東嶋は、目を見開いたまま固っている洋人の両肩に手を置いて深々と頭を下げた。


「ごめん……。これこそセクハラだ」


 心底反省した様子で項垂れ、アルコールでほんのり色付いた耳を更に赤くする。


「悪かった。謝る」


 洋人は戸惑いながらキスされた口元に手をやった。

 東嶋は一回り以上も年齢が離れている。年齢だけではなく、役職もそうだ。洋人にとってはそれぐらいかけ離れた雲の上の人物であり、恋愛対象として意識することはなかった。

 突然告げられた東嶋の想いに、さすがの洋人も動揺を隠せない。こんな時、何を言えばよいのか、どうすれば良いのか皆目見当もつかなかった。

 東嶋のことは誰よりも尊敬している。憧れの部署の第一線に身を置き、今でも現役で活躍している尊敬すべき上司だ。仕事の向き合い方、他人に対する気遣い、何をとっても学ぶべきところがあり、彼を手本にしている部下も沢山いるだろう。

 そんな男が年齢も立場も取り払って秘めた思いを洋人に打ち明けてきた。


 よくよく考えてみれば、東嶋は性格も体型も仕事に対する姿勢も、何もかもが洋人の理想そのものだった。年齢こそ離れているものの、鍛え上げた東嶋の身体は若々しく、衰えも感じない。

 探し求めていた理想のパートナーが目の前にいて、その手を差し出し自分の事を好きだと告白してくれている。洋人が乗り越えてきた苦労を清算してもまだ有り余るほどの僥倖だと思った。

 それなのに……


「ただ、誤解しないでほしい。これが俺の偽らざる本音だよ」


 そうだと分かっていても洋人の心は悲しいくらい動かない。

 求めているのは、彼ではないと心の深い部分が否定する。


「でも、統括には家族が……」

 

「いたよ。とっくに別れているけど……」


 東嶋は一つ息を吐いてから、洋人の顔をまっすぐに見た。揺るぎない強い意志を感じる強い瞳。彼もまた真剣なのだ、と洋人は思った。


「世の中には結婚することで得られる信用もある。社会的にも……自分の親や相手の親族に対しても。……こんなことを言っても君にはただの詭弁にしか聞こえないだろうけど、俺は生物としての役割を果たしただけだ。感情はいつも別の場所にあった」


 東嶋の言っていることは理解できる。

 家族のこと、友人のこと、そして将来のこと。洋人自身が性的マイノリティであることを自覚した時から抱えている問題だ。そしてそれこそが、この先の未来に横たわっている懸案事項でもあった。

 LGBTの問題は自分と関係性が近い人間ほど本当のことが話せなくなると言われている。

 洋人はイジメ問題が切っ掛けで性的指向をアウティングされてしまったが、洋人の友人は誰にも打ち明けることが出来ず、今でも悩み続けている。カミングアウトするのもしないのも、何を選択してどう生きるのかはそれぞれの判断だ。本当の自分を隠したまま、家族を持つ者だっているだろう。


「……無責任な男だと思われたかな?」


「いいえ……。そんなことは」

 

 東嶋の戸籍にバツがあることは知っている。そして、家族と別れて生活しながら、彼が定期的に父親としての役目を果たしていることも皆が知るところだった。

 東嶋はクレバーな男だ。

 自分を偽って家族を持ち、そこに生じる義務を果たすことで本当の意味での自由を得る、というのは皆にとって最善の、ある意味合理的な考えだったのかもしれない。彼はいろいろなしがらみの中で自分の未来を見据え、最大限惜しみない努力を重ねている。そこに、自分という存在が組み込まれ、大切に扱われるのだとしたら、こんなに光栄で誇らしい人生はないだろう。

 洋人はそう思った。

 もし、隣にいたのが東嶋だったら……。

 その想像は、どこからどう見てもきず一つ見当たらなかった。ツルンとして眩い光を反射して、まるでおとぎ話のお姫様のようにキラキラ輝いて見えた。誰もが納得し、何もかもが上手く行く。そんな風にすら思えた。

 それなのに、洋人は何故だか笑いたくなった。

 その光景が余りにも悲し過ぎて、笑いながら泣いてしまいそうだった。


「……星野のことは知っているよ。俺たちには想像もできないぐらい大変な人生を歩んできたんだと思う」


 虚しい呪文のように、東嶋の言葉が洋人の頭上を掠めて飛んでいく。

 二年前なら、何も考えずに東嶋の胸に飛び込めた。

 一年前でも……胸が痛んで後ろ髪は惹かれても、おそらく誠を振り切ることができただろう。

 でも、今は違う。

 ……もう違うのだ。

 どうしてここに誠がいないのだろう?

 こんな状況で、自分は東嶋に告白されているのに。

 洋人はただそれが悲しかった。

 東嶋の計算されつくした生き方に納得したわけではなのに、反論すべき言葉が一つも見つからない。全ての条件、全てのフラグが皆東嶋を指し示している。お前の描いた理想がここにあるのだと、訴えてくる。

 ——ただ一人、洋人だけを残して。


「だけど、君は君だよ。彼の境遇に同情しているのなら……」


「同情しているつもりはありません」


「本当にそうかな?」


 真正面から問われて、洋人の心に隙が出来た。心に飛来した黒い物がスルリと忍び込んできて、東嶋と同じ言葉を吐く。

 本当に、そうなのだろうか?

 誠が勝手に持ち去っていくタバコは?

 洋人が心を砕き、ずっと見守ってきた時間は?

 いつも自分の気持ちを抑え、譲歩している。自己犠牲の根底にあるものが本当に『同情ではない』と言い切れるのだろうか?


「僕は……僕の意思で彼といるだけです……」


「でもあいつはそうじゃない」


 初めて他人に断言されて、洋人はショックのあまり唇を噛んだ。


「俺だったら絶対に君の手を離さななかったよ。好きな相手のことであれば尚更ね。……相手のことを大切にするってそういうことだよ。君はこんな状況に納得しているの?」


 東嶋は少し強い口調で言い放った。それは、聞き分けのない洋人への苛立ちというよりは、問題児である誠に対する嫌悪感にも思えた。


「……彼はただ誰かに甘えていたい子供なんだよ。君もそれを分かっているだろう? 自分を守ることに必死で、他人を幸せに出来る器じゃない。君は彼の母親にでもなるつもりか?」


 その通りだ。

 東嶋はいつだって正しい。

 完膚なきまでの正論に打破される。

 誠と積み上げてきた時間が崩されていく。


「田所さんはきちんとそれを理解していた。だから、自分の幸せの為に正しい選択をした。星野もそういう相手を見つければいいんだ。君が犠牲になる必要はない」


 心の中を見透かしたような東嶋の言葉に、洋人は泣きそうになった。

 誠のことが好きだ。

 誠と過ごす時間は何も変え難いほどに楽しい。

 このままずっと一緒にいたい。

 だけど、不満がないわけでもない。

 いつも我慢しているのは洋人だ。手を差し伸べているのも、我儘な誠を支えているのも。それで見返りなど求めてはいないと、本当に言い切ることができるのだろうか? 今ここにあるこの寂しさを埋めてはくれない。最低限の義務も果たしてくれない男を、一体いつまで待ち続けるのだろう?

 それは本当に対等な関係と言えるのだろうか?

 東嶋ならきっと全てを受け入れてくれるだろう。例え誠のことを忘れられない洋人であったとしても……。

 ダメだ、泣いてしまう。

 洋人がそう思った時、


「みーつーしーまーサァーーーーン」


 廊下の隅っこから、春日がひょっこり顔を出した。ただならぬ気配を悟ったのかアルコールのせいなのか、目が完全に据わった春日は一直線に洋人の元にやってきてガシッと身体に抱きついた。


「春日さん……っ⁉︎」


「こんな所にいたんスか? 何してるんスか? 何話してたんスか? 俺のことほっぽいて一人でどこか行かないでくださいよぉー」


 一気に捲し立てて春日はグリグリと白黒の頭を洋人の胸に押し付けてくる。かなり早いペースで飲んでいるとは思っていたが、もはや完全な酔っ払いだ。


 カラオケ店に到着する少し前、いきなり洋人の社用携帯に連絡してきた春日は、合流して部屋に案内されるや否や、飲み物の注文を終えるより先に一曲目の予約を入れた。全く面識のないグループに飛び入り参加した割に遠慮もクソもない。鞄をソファーに放り、飲み物のオーダーを取っていた洋人にカルピス酎ハイを頼み、ホイホイとマイクを手に取り中央に進み出る。

 どこまでもマイペースな春日に皆面食らっていたが、一度歌いだすと意外な才能が露見した。春日の歌唱力は尋常ではなく、しかも、皆を差し置いて入れた曲が、集まった世代が青春時代に聞いたであろうドンピシャな歌だったのだ。

 最初こそ怪訝な顔で眺めていた第一営業部のメンバーもイントロがかかった瞬間に目の色が変わり、春日が歌い出すと大きな喝采を送った。無礼講の名を欲しいままに、春日は保守とは思えないほどの明るさで場を盛り上げ、カラオケの主導権を握ってしまったのだ。


 心ここに在らずだった洋人は春日の方に皆の興味が移ったことで救われた。あれこれ余計な詮索をされることもなく、会社で働く『満島洋人』のイメージ通りの自分を演じることに集中できた。誘われて参加した二次会とはいえ、集まったメンバーは年上の先輩ばかりで、洋人にとっては半接待のようなものだ。第一営業部のメンバーに顔を売る一方で、後輩としての役割を果たさなければならない。飲み物が切れてないか、退屈してそうなメンバーがいないか、常にそういった気配りをしていれば、多少は気も紛れた。


「何かあった?」


 洋人の胸にしがみついたまま、春日が顔だけ上げた。

 答えはYESだ。しかし、洋人はこのタイミングでそれを口にするべきか迷った。

 部屋の中でも春日は洋人の横にべったりくっつき、洋人に話題が振られそうになると自らその会話に参加し、相手の注意を反らしてくれていた。

 春日が誰の差し金で洋人の元にやってきたのか、それは解らなかったが、負けそうな洋人の気持ちを首の皮一枚で繋げたのは、営業妨害にしかならない春日の存在だった。

 その春日の顔には、抱えきれないほどの不安が滲んでいる。

 誠に隠し事はしたくない。

 これ以上、春日を巻き込みたくはない。


「……何かした?」


 洋人が無言でいると、春日はすぐさまクルリと東嶋を振り返った。

 あまりにも不躾な質問に東嶋は苦笑して首を振った。


「いや。……何もしてないよ」


 嘘だ。

 洋人が答えるより先に、東嶋が春日に質問を投げかけた。


「春日君は彼女いるの?」


「いますよ」


「へぇ、こんな時間まで遊んでて心配されない?」


「…………怒ってたんで、埋め合わせに今度は二人で来ることになりました」


 春日の答えを聞きながら、洋人は一向に連絡のないスマートフォンに手をやった。


「ははは。幸せそうで何よりだね。彼女のこと


 誠が男女どちらでも付き合えるというのは洋人にとっては大きな不安材料であった。そして案の定、誠と付き合っていた女性が過去にいて、それが東嶋の印象にも残る『営業部の人間』だったことを洋人は初めて知った。

 過去の恋愛は気にしない。どちらかに相手ができれば、それで終了。

 それが二人のルールだ。

 そして、二人の間には有耶無耶になってしまった疑問が今でも残っている。

 洋人が会社で熱を出して倒れた日、誠は車の中で誰かと話をしていた。『クルミ』と呼ばれていた若い女性。彼女は一体誰なのか。

 どんな関係なのか。誠は何も説明してくれない。

 あの日の前後から誠は何となく変だ。本人は普段通りを装っているが、洋人には解る。隠し事をしていることは明らかだ。それでなくともセフレだなんて馬鹿な関係になったあの日からずっと誠のこと見守ってきたのだ。見ていればそれぐらい分かる。好きな相手のことであれば尚のこと。


 誠だって自分に隠し事をしている……。


 洋人は結局、東嶋の嘘を春日に伝えることはできなかった。

 洋人は心をパタンと閉めて、一ミクロンの隙もない笑顔を作った。


「春日さん、だいぶ酔っぱらっているでしょう? もう、帰りましょうか?」


「うん。帰る」


「……統括。途中で申し訳ないんですけど……」


「ああ。その様子じゃ仕方ないね」


 洋人の裏切りを知っている東嶋は、満足したように笑顔で頷く。

 また今度、ゆっくりね。

 そう言って、洋人の肩をポンと軽く叩いた。

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