45話 黒いサンタが来る夜は 13
恋人と親友が同時に溺れました。どちらもあなたにとって大切な人です。しかし、助けられるのは一人だけ。
さて、あなたならどちらを助けますか?
よくある究極の選択に「近い方」と秒で返したら、一緒に夜勤に入っていた後輩からぎょっとした目で見られた。「普通ならもっと悩んで答えを出すものでしょ。星野サンには血も涙もないんすか?」と目を潤ませて、非難ゴウゴウ責めてくるので、誠は暇つぶしに自分の過去をカルピスを十倍の水で希釈したぐらいに薄めて話をしてやった。
人の生死がかかる場面に直面したら、大抵の人間はパニックに陥ること。思考が停止して身体が動かなくなること。映画のヒーローのように機転を利かせて危機一髪、皆が助かり大団円——なんてことにはならないこと。
足元にも及ばないレベルでラスボスに立ち向かうようなクソゲーだった。
心配した隣人がドアを叩いてくれる、なんて隠しイベントが発生するわけでもなく、誠には伝説の剣も勇者の鎧もない。ただの子供がこの身一つで戦う三対一のデスゲームだ。
頭数だけなら有利に思えた誠の陣営は、しかし、1ターンで死んでしまうほど非力な
ベランダから飛び降りれば自分だけは助かる。そんな局面だった。
さっき喰らったボスキャラの足蹴りで誠の肋骨は折れている。だとしてもここは二階だ。きっと死ぬことはない。
殺される。
逃げよう。
誠は咄嗟にそう思った。
それなのに怖くて体が動かない。ピクリとでも身じろぎしたらすぐさま男にボコボコにされそうで、足が震えてどうしようもなかったのだ。
男の向こうでは言葉も喋れない弟が泣き声を上げている。「うるせぇ!」と怒鳴ってあいつが投げつけたグラスが壁にぶつかって砕け散った。
心臓が口の中から飛び出しそうなほど跳ね上がり、激しい破砕音にどっと冷や汗が滲む。しかし、年齢に似つかわしくないほど痩せ細った
お前さえいなければ自分はもっと自由でいられた。憎しみさえ覚えながらこの一年余り接してきた命だった。しかし、
握りつぶせば簡単に消えてしまう、こんなに無力な命にすら暴力の刃を向けた悪魔の所業に、抑圧され続けた誠の怒りと憎しみが一気に吹き出した。
プツンと何かが切れ、頭が真っ白になる。
それは怒り狂って後先考えず相手に向かって行くような激しい衝動ではなく、どこまでも透明で澄み渡るような感情の喪失であった。
潮が引くように全ての感覚が遠ざかり、心が凍結する。恐怖から解放され、生まれ変わった脳は、思い出や過去や、その他諸々の感情と感傷を一切排除し、驚くべき速さで生き残るための計算を始めた。
息をする度に痛みを訴えていた
母親は?
ダメだ。救えない。
でも、
ベランダから飛び降りて逃げる事が出来るだろうか?
それなら玄関は?
こちらもダメだ。カギが閉まっている。玄関まで辿り着けたとしても、満身創痍の身体で
やはり、一人で逃げるしかないのか?
顔の位置はそのままに、玄関から視線だけを移す誠の視界にトイレのドアが映った。
僅か二秒半のうちに全ての計算を終え、結論を下した誠は早速行動を起こした。男に気付かれないよう、母の方へ手を伸ばす。母は苦しみに悶えながら、助けが来たと思ったのか腫れ上がった頬に笑みを浮かべた——しかし、誠が握ったのは美しいマニキュアが光る母の手ではなく、床に転がっていた携帯電話だった。
ひび割れた画面に映り込んだ母の顔が絶望に変わる。
誠はその顔には目もくれず、ポケットに携帯電話を押し込むと、最後の力を振り絞って男に体当たりをした。奇襲攻撃は一度きり。これで捕まれば、誰も助からない。
男がよろけてテーブルに突っ込んだ瞬間に横をすり抜け、
便器の縁に頭をぶつけた
誠の足は踏みたくったガラスで血まみれだった。
怒り狂ってドアを蹴り破ろうとするボスキャラの攻撃を、誠はドアに背中を押し付けて止めながら、ガタガタ震える手で110番を押した。
対応に出た人間と何を喋ったのか、誠には当時の記憶がない。
覚えているのは警察がドアを破って助けに来るまでの、永遠とも思える時間だった。
男の標的は一人残された母に向いた。
助けて! と何度も自分を呼ぶ声がした。
しかし、誠は膝の間に顔を伏せ、両手で耳を塞いだ。
後から後から零れてくる涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、自分を正当化する言い訳ばかりを心の中に並べた。
あんたも俺のこと殴ったじゃん。
——今更助けてなんてムシが良すぎる。
これでお互い様だ。
五分五分の痛み分けだろ、母さん。
ただ、生まれてきた
母への恨み言なら山ほどあった。何度も何度も止めたのに、あの男と別れなかった。二人して見るからにヤバいクスリに手を出した。子供を放り出して何日も姿をくらました。家のお金も使い込み、電気が止められた家にハイテンションで戻ってきた母の「なんだ、生きてたの?」という開口一番の言葉に涙よりも先に笑いが零れたのは、ほんの数ヶ月前の出来事だ。
だから、病院で痣だらけになって生き絶えた母親の顔を見ても誠は涙を流すことはなかった。
母を失ったのは今じゃない。
去年のクリスマスイブだ。
これは母の形をした、ただの人形なのだ。
——自分に母はいない。
誠の中ではとっくの昔に死んでしまった存在だった。
それなのに何故か、誠はたった一つだけ警察に嘘をついた。
無数に残る体の痣のことを訊かれた時、誠は「あの男が全部やった」と答えた。何度聞かれても、誰に聞かれてもそう答えた。
酷い母親ではあったが、少なくとも子供に手を上げるような女ではなかったと。
死んだ人間の体裁なんて、今更取り繕う必要はなかったはずのに……。
そして、嘘をついたその日から悪夢を見るようになった。
助けを求める声が聞こえる。絶望に染まった、あの顔が何度も記憶の中に蘇る。
花を備え、手を合わせても悪夢は続いた。遺骨を処分してみたが何も変わらなかった。母親が残したもの……その人生の残債を誠は弟を育てることで清算しようと頑張った。それでも自分を呼ぶ声がする。人を殴る鈍い音が聞こえる。
まるで永遠に解けることのない呪いのように。
*****
近年稀に見る、最悪の目覚めだった。
明け方にピンポンピンポンとスマホが鳴る音で誠は目覚めた。
寝入ってから一時間も経ってはいない。その睡眠すら母親の記憶に邪魔され、寝るんじゃなかったと誠は心底後悔した。
メッセージの着信を知らせる音と、夢の中で聞いたチャイムの音が重なり、やっと助けが来たのだと一瞬現実を見失いそうになったが、電気が煌々と灯る部屋は静寂そのもので、誠は柔らかい布団の中にた。汗でベタベタになった身体をシャワーで流し、溜まったメッセージを確認したら、洋人と春日からだった。
『今帰りました』
洋人のメッセージはたったそれだけ。
怒っている。
……そう思った。
そして明け方、夢の中でインターホンと重なったのは春日からの連続投稿だった。
『おっはよーございまーーーす♡』
何このテンション? お前は馬鹿か?
そうツッコミたくなる挨拶の後にはカラオケボックスの様子と、誠の部屋着を着てピースをする春日の自撮り写真が多数。
そして、出勤前に撮影したと思しき洋人の寝顔が一枚と、一言だけのメッセージがあった。
『満島さん、泣いてましたよ』
誠にも分かっていた。洋人を傷つけてしまったこと。
でも泣いたは嘘だ。
洋人はそういう男じゃない。常に前を向いて歩いている。計算も出来るし、春日と違って馬鹿ではない。こんなことぐらいで立ち止まるような人間ではないのだ。
東嶋には渡したくない。でも、東嶋こそが洋人の理想なら、誠がこれ以上我儘を通すわけにはいかないだろう。
あーあ……。
誠は心の中で思った。
何が「あーあ」なのかよくわからない。ただ、恋人とか恋愛とか、そういうの当分いいや……と、そう思った。洋人がこのままどこかに行っても、誠はきっと洋人のことを思い出す。もう一つ、心の中に忘れられない痛みを抱えてしまうのかと考えると絶望的な気分にはなったが、この二年と数ヶ月、楽しかったし、気持ち良かったし、それだけでも幸せだと思えた。
洋人が笑っていられるのなら、それだけで良かったじゃないか、と自分に言い聞かせることはできる。
「……最後の一枚以外、マジでいらねー」
誠は誰ともなしに呟き、布団の上にスマホを放り投げた。
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