46話 黒いサンタが来る夜は 14

 メッセージの着信を知らせる音で洋人は目を覚ました。

 すぐさまスマートフォンを手に取り確認してみるが、画面に現れたのは春日爽の名だった。誠に送ったメッセージは既読のまま返信はない。


 洋人は小さく嘆息して肩を落とした。

 机に置いてあったミネラルウォーターの封を切り一口含むと、付け放しにしておいたエアコンのせいで干からびた喉に生温かい水が沁みていく。

 透明のボトルの中で揺れる水面をぼんやり眺めながら、洋人は寝入りばなの春日との会話を思い出した。

 あの時、二人の会話の時間軸はズレていた。誠が中学生ということは、春日は星野家で起きた事件のことを話していたのだろう。

 春日が言う誠の贖罪とは、親の遺骨を郵便で送ったことではなく、事件そのものに関わる内容だった。


 洋人は誠から事件の話を聞いてはいるが、当然のことながら、当時の様子がどうだったかなんて詳細までを語られたわけではない。

 男に暴力を振るわれ母親は命を落としたが、誠とみのるは駆け付けた警察によって保護された。言葉にすれば僅か数秒の情報だが誠は実際その場にいたのだ。もう十数年も前の出来事なのに、今でも心的外傷後ストレス障害となって彼の心を苛んでいる現実を見れば、それがどれほどの地獄だったのか想像に難くない。

 ……誠が抱く罪悪感は、自分が生き残ってしまったこと、或いは、母親を助けられなかったことだ、と春日は言いたかったのだろうか。


 あんな事件が有ろうと無かろうと誠とみのるは児童保護施設に引き取られるような生活を送っていた。

 育児放棄を重ねる母親と、暴力を振るう男。自分の身を削ってみのるを育てていたのは、母親ではなく当時中学生だった誠なのだ。

 誠はいつもケロッとした顔をしているが、洋人が耳にする星野家の実態は悲惨そのものだ。彼氏がいるからと、家から閉め出されたことが何度もあったと聞いた。母親が料理を作らないので、部屋はぐちゃぐちゃなのに流しと冷蔵庫だけはいつも綺麗だったと誠は冗談混じりに話をしていた。


 世間一般の基準に照らして「そんなの親じゃない」「忘れてしまえ」と言うのは簡単かもしれない。しかし、最低な親であっても尚、誠が心を寄せている現実は変わらない。もう二度と届くことのない、一方通行の子供の想いを知って、洋人はどうしようもないくらい辛くなった。

 釣り糸のように絡み合ってしまった心の先にあるものが母親への慕情だと知っても、誠にはきっと認めることも解くことも出来ないだろう。

 セフレごときの自分が頑張ったところで、何が変わるわけでもない。


 洋人は暗澹たる気持ちを抱えながら身支度を整えた。

 ノロノロと支度をしたつもりだったが、家を出たのはいつもより三十分以上早かった。こんな日に限って渋滞にも巻き込まれずスイスイ車が進むものだから、会社にもあっという間に到着してしまう。

 洋人はエンジンを止めた後、誠と顔を合わせた時のことを何度も何度もシミュレーションしてみた。

 平然と、いつもの満島洋人のまま元気に挨拶をする。

 何事もなかったかのように笑顔を作る。

 大丈夫、大丈夫、心の中で呪文のように繰り返し、集中力を高めて今日をやり過ごす。


「よし……」


 洋人は両手で軽く頬を叩き、気合を入れてから車を降りる。


 ガランとした駐車場を横切り、出入口に設置された喫煙所の前を通過しようとした時、そこに佇む長身のシルエットが視界に飛び込んできた。

 洋人は思わず足を止めていた。

 相手もこちらに気付き、顔を上げる。


「……おはようございます」


 普段通り、相手より先に挨拶が出来たのはイメージトレーニングの成果ではなく、長年身に染みついた習慣だった。予期しなかった誠との再会に洋人は笑顔を浮かべることすらできない。

 「はよ」と片手を上げておざなりな挨拶をした誠の指先には火が灯った紙巻タバコがある。あんなにタバコのことで喧嘩をしたはずなのに、誠が購入したタバコを見た瞬間、洋人の中にカッと鮮烈な怒りが駆け抜けた。

 無表情のままツカツカと誠に歩み寄り、その手から煙草を奪い去った洋人は、まだ半分以上残ったそれを、親の仇のように灰皿に押し付ける。


「何でこんなもの吸ってるんですか?」


 一度口火を切ってしまうと、心の奥に封印しようと決めた昨日のあれやこれやが蘇り、洋人の頭はやっぱり「どうしてあの時引き留めてくれなかったんだ?」という不満で一杯になった。

 本当に二人の接点を全部無くして、元に戻ろうとでもいうのか?

 話もせずに? こんな有耶無耶な状態で?


「何となく。……吸いたくなって」


 誠を前にしてしまうと、付け焼き刃のシミュレーションなど露ほども役には立たなかった。自慢の化け猫も誠相手ではピクとも反応してはくれない。

 こんなことぐらいで崩れてしまう自分が不甲斐ない。

 洋人は悔しさを堪えながら、誠に手を差し出した。


「タバコとライター、出してください」


「え?」


「僕が預かります」


「でも……」


「いいから早く!」


 洋人の大声に驚いたように目を見開いた誠は、躊躇うような素振りを見せていたが、不承不承ポケットから紙巻タバコとライターを出した。洋人はそれを毟り取るように奪って自分のポケットの中に突っ込む。


「代わりにこれどうぞ!」


 そして、今度は自分のポケットにあったIQOSとタバコを渡した。

 誠は胡乱げな表情で洋人の顔を見た。


「お前……タバコなくて大丈夫なの?」


「大丈夫なわけないでしょ……全然大丈夫じゃありませんよ‼ それより、何か僕に言うことはないんですか!?」


 洋人の剣幕に誠はびくっと肩を竦めた。バツの悪そうな顔をして視線を落とす。


「…………」


 謝罪すらしない気か?

 こんな時ぐらい機転を利かせて何か言ってみろ、このヘタレ! 悔し紛れに洋人はそう思ったが、すぐに別の自分が出てきて、こいつにそんな事ができるはずがない、と首を振った。

 東嶋が言うように誠は自分のことに手一杯の子供なのだ、と。


「統括のこと……彼もLGBTだってこと……誠さんは知っていたんですね?」


「……ARROWSで見かけたことがある……」


「どうして教えてくれなかったんですか?」


 誠は肝心なことをちっとも語ろうとはしない。


「お前が入社する前の話だよ。あの時はまだ家族がいたはずだけど……」


 そう言って、俯いた誠はIQOSをギュッと握り、ブルゾンのポケットにしまった。


「東嶋に何か言われた?」


 問われた洋人の脳裏に昨日の出来事が蘇った。


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