【NWC】6月 蛇足のエスケープ 5
——「待ってるよ」って連絡入れてみたら? ——
別れ際、定森にそうアドバイスされ、洋人の家へ向かうバスに乗り込んだ誠はスマートフォンを片手に考えていた。
偽らざる本音は『早く帰ってこい』だが、当然ながらそんなメッセージを送ることはできない。『待っている』のは事実だとしても、それを既読スルーなんかされた日には立ち直れそうにないし、既読待ちするであろう自分を想像すると何だかいたたまれない気持ちになり、結局定森の提案も却下した。
バスの中でメッセージを送ることはできず、さりとて、洋人がどこで誰と飲んでいて、いつ帰ってくるかもわからない不安を払拭することもできず、誠はマンションのエントランスでようやく『着いた』とだけ洋人に送った。
読まれなくても既読スルーでも傷つかない、それでいて自分の現在位置と飲み会が終わったこちらの状況を知らせる最低限のメッセージだ。
暗く静まり返った部屋は、今まで幾度となく通ったはずなのにまるで違う場所のように感じられた。
洋人の匂いを追い求めるように、急にタバコを吸いたくなったがIQOSも紙巻きタバコもここには無い。ちょろっと出かけてコンビニで買えば事足りるのに、わざわざここにはない洋人のIQOSを欲しがっている自分の卑屈さに誠は打ちのめされていた。
東嶋だったらこんな女々しいメッセージを送ったりしないのだろうとか、タバコだって人に強請ったりせずとっくの昔に自分で準備していたのだろう、とか……。
考えれば考えるほど自分の格好悪さばかりが際立ってきて、いっそのことふて寝してしまおうかと誠は考えた。さすがに、インターフォンが鳴れば起きる自信はある。
スマホを確認してみるが、まだ既読はついていない。
餌待ちの犬のような自分にモヤモヤして誠はテーブルの上に小さな画面をひっくり返してテレビをつけた。
あ、ごめーん。テレビ見てたから、連絡気付かなかったわ。
そんなことが言えるぐらい、余裕のある男になりたい。
先にシャワーを浴びよう。
誠は気分を変えようと立ち上がる。その間に洋人が帰ってきたらどうしようという不安を意地でもって押さえつけて、洋人のクローゼットの中からバスタオルと着替えを出した。
誠には放置子と呼ばれていた時期がある。
それは弟が生まれる前から続いていたことだ。
小学校の授業はバカバカしくなるほど退屈で、あらゆる意味でついていけなかった。
ある日、算数の授業で三平方の定理を使ったら「解き方が違う」と教師に言われたことがあった。答えは合っていたのに「先生の話をきちんと聞きなさい」と。それ以来、誠はどんな問題も「分かりません」で流すようにした。教師に注意された理由も、美しくない問題の解き方も理解できなかったからだ。
学校にもクラスにも馴染めなかったが給食は美味かった。それだけが唯一の救いとなり退屈な授業に文句も言わず学校に通い続けることができた。
友達と呼べるような存在はおらず、たまに誰かの家で遊ぶ機会はあっても、いつの間にか疎まれて、
シャワーを浴びて部屋に戻ってくると、洋人からのメッセージが入っていた。
『今から三次会です』『また連絡します』
「……待ってろってことか?」
冗談じゃない。こっちは明日も仕事なのだ。いつまでほっつき歩くかも分からない不良を待っていられるか。
誠は盛大なため息を吐いて冷蔵庫にあったビールを一本取り出した。人の家を訪問するのに、食べ物はおろか飲み物すらも準備しなかったことに今更気づいた。
元放置子の本領発揮だ。
しかし、誠に鍵を預けたのは洋人だから、誠がここで何をしようと文句を言われる筋合いはない。ビールだけではなく、既に洋人の服も借りている。
フリーサイズのジャージとTシャツ。
洋人の匂いがたっぷりと沁み込んだ部屋着は、ひょっとしたら今日洗うつもりだったのかもしれないが、そんなことは構わなかった。
真の所有者が着るとオーバーサイズのTシャツは誠の身体にしっくりと馴染んでいるが、洋人にはぴったりのジャージのズボンは誠には短すぎる。
何かが少しずつうまくいかない。
今日はきっとそんな日なのだろう。
誠はベッドの縁に背を持たれ、ビールのタブを引いた。
つまみもないままビールを飲み、途中参戦でストーリーも理解できないドラマを見るともなしに眺める。随分長い間居酒屋にいた気がするが、時計はまだ十時前を指していた。三次会であっても、夜はまだ十分に長い。
こりゃ、当分帰って来ないないな。
誠はやさぐれながらビールを煽る。
保守でも羽目を外したように飲む人間はいるが、営業の飲み会の実態を誠は知らない。ただ、どいつもこいつもお祭り人間のパリピで、最後の最後までワイワイ騒いで飲んでいるという印象だけはある。
自分のことをそっちのけで、洋人がそんな宴会に耽っているのかと思うと、腹立たしい気持ちで一杯になるが『これも仕事の一環』と考えているであろう猫かぶりの思考が手に取るように分かるが故に、誠はただ待つことしかできなかった。
鬱々としながら全く頭に入って来ないテレビの画面を目で追い、二度目のCMが放送された時――何の前触れもなくインターフォンが鳴った。
誠はビクっと背中を竦めて壁に取り付けられたモニターに向かう。
「開けてください」
そこには上機嫌で両手を振っている洋人の姿があった。
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