13話 蛇足のエスケープ 6
「ただいま戻りました」
ドアを開けると、タバコの匂いをプンプンさせた洋人が入ってきた。
想定より二時間早い帰宅に驚き微動だに出来ずにいると、洋人は誠の身体にぎゅっと抱き着いてきた。足取りはしっかりしているが、アルコールが回っているのか、いつもよりテンションが高い。
「はぁー。やっと帰れたー」
「……おかえり」
誠は小さく返して、待ちわびたその温もりを抱きしめた。
抵抗することなく胸に収まった頭に鼻を埋めると、タバコの匂いに混じって自分と同じシャンプーの香りがする。それが引き金となって、今までの不安や杞憂が一気に解消し、誠の肩からクタリと力が抜けた。
営業部の中でもかなり特殊な部類に属するであろう洋人にちょっかいをかける物好きは余程の人間だろう、とは思う。しかし、誠は目の前の男が思いの外享楽的で快楽に弱い人間であることも知っている。清廉潔白な恋愛をしてきた二人ではないので、今更過去をほじくり返して小言を言うのはナンセンスだが、本心では洋人に対してそんな貞淑さを求めていたのだと、誠は今回の一件で自身の狭量な心の姿をまざまざと見せつけられてしまった。
「どうしたんですか?」
キョトンとした顔で見上げ、身じろぎした後、洋人は手にした荷物を床に置いた。発表会の冊子が入ったカバンとコンビニ袋が誠の足元でゴトっと重たい音を立てる。
「迷子の子供みたいな顔してますよ」
揶揄うように……しかし、傷付いた心を庇うように洋人が頬に手を伸ばしてきた。誠はきゅっと胸を絞られたように息苦しくなって口を噤んだ。
それ以上何も聞かず、洋人は微笑みにも満たないほどの何とも言えない優しい表情を浮かべ、ゆっくり唇を重ねてきた。
きっと心の裏を見透かされてしまったに違いない。何があったかは知らなくとも、何かがあったことはとっくに看破されている。
洋人の言葉通り、誠はずっと迷子のままだ。
家に帰れず、公園で時間を潰していた子供の時から何も変わってはいない。
いつも帰りたいと思っていた——
どこかに。
——或いは誰かの元へ
『ただいま』『おかえり』の挨拶を交わせる人間がいる家。こんなに当たり前で簡単なことが、誠にとっては学校の授業よりずっと困難で、途方もない問題だった。
背中に手を回しながらキスを深めると、洋人もそれに応じるように自身の舌を絡めてきた。アルコールの香りがする吐息と共に温かい何かが一気に心に流れ込んできて、誠は泥沼のような堂々巡りからようやく現実世界に戻ることができた。
「おかえり」
長いキスの後、誰ともなしにそう呟くと洋人は可笑しそうにフフっと肩を震わせた。
「それはもう聞きましたよ」
「お前、タバコ臭いよ」
誠はそう言いながら、居ても立ってもいられず洋人のスーツを脱がしにかかる。
「そうですよね。皆スパスパやってるから、回避しようがなくて」
肩から滑り落ちる上着を気にする様子もなかった洋人だが、誠がネクタイを抜き去り、シャツのボタンに指を伸ばすと流石にその手を掴んでストップをかけたきた。
「待ってください。……先にお風呂に入りたいです」
そして、照れたように誠を見て問いかける。
「今日泊まっていきますよね? コンビニで朝ごはん買って来たんです」
「うん」
誠が頷くと洋人はスルリと腕の中から抜け出して、床に置いてあったコンビニ袋の中身を冷蔵庫に仕舞い始めた。縮こまった後ろ姿の、カッターシャツが押し込まれた腰のディテールが妙に艶かしく見える。
女性とは違う、この硬い筋肉が柔らかくしなる様を誠は知っている。左側の腰骨の下にある黒子のことも、切なげな吐息の湿った感触や、耳元で繰り返される掠れた愛の囁きも……。
不埒な記憶を行ったり来たりの誠は、引き抜いたグレーのネクタイを手持ち無沙汰に丸めながら、洋人に声を掛ける。
「もっと遅くなるのかと思ってた」
「誠さんから連絡があったので、適当に言い訳して切り上げたんです」
「え?」
よもやの回答に誠は思わず瞬きをした。
これも洋人特有のリップサービスかと思っていたら、冷蔵庫の庫内灯に照らされた洋人の横顔が、ほんのり赤くなっていた。ひょっとして、営業部とのコネクションよりも自分のことを優先してくれたのだろうか? そんな想像がチラリと掠めたら、さっき飲んだ缶ビールの酔いが回り出したのか、急に頭の中がフワフワしてきた。
「明日、家族が来るからって……」
「ああ。妹が泊まるって言ってたやつ?」
一緒にスーツを買いに行った際、確かに洋人がそんな話をしていた。
誠は面識がないが、洋人には二人の妹がいる。泊まりに来るのは、推し活をしている末の妹だ。
平静を装いながらつらつらと洋人の家族の情報を頭の中に引きだしてみるが、誠は先程ほど喰らったお預けの続きが気になって仕方がない。気もそぞろに返事をしながら、このまま一緒に風呂に入っちゃおうかなぁ……などと、思春期大爆発の中学生と寸分違わぬ妄想に胸をときめかせていたところ、同時並行で処理されていた洋人の言葉の違和感にようやく気付いた。
「……ん? でもコンサート夜じゃなかったっけ?」
「開演が六時だから、終わるのは九時前でしょうね」
問われた洋人は事もなげに頷く。
「別にいつとは言わなかったんですけど『家族が来る』って言ったら皆勝手に午前中の予定だと思ったみたいで……」
洋人は冷蔵庫を閉めて誠に向き合うと、イタズラっぽく目を細めた。
嘘ではない——が、三次会途中退席の理由にはならない真相。
皆が勘違いすると知りながら、洋人は敢えて夜の予定だと説明しなかったのだ。事前に話を聞いていたはずの誠ですら一瞬騙されそうになったのだから、本当に
だからと言って誠には洋人の本性を他の人間に暴露する気もさらさら無かった。手を伸ばして再びその身体を引き寄せると、洋人ははにかんだような笑顔を見せた。
「連絡出来なくてすみません。ずっと統括が隣にいて、帰りのタクシーもスマホを取り出せる状況でもなかったので……」
ピクっと誠の動きが止まる。
今、何だかとてつもなく聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしたが?
「…………」
腰を折られたと言うか、出鼻を挫かれたと言うか、水を差されたと言うか……。
「どうしたんですか?」
無表情のまま固まってしまった誠に、洋人は首を傾げた。嘘ではないから、とわざわざ説明不足の情報を提供し、営業部の仲間すらもペテンにかける希代の猫被りは、罪悪感などこれっぽちも感じた様子もなく、人畜無害な子猫のように十三センチ下から誠を見上げてきた。
「風呂は却下」
誠は冷淡に宣言して手の中の丸めたネクタイをハラリと解くと、洋人の手首を一つに束ねてクルクルと拘束してしまった。
「えっ、えっ? 誠さんっ⁉︎」
そのまま、罪人を引っ張ってリビングへと移動する。
「どういうことですか? 何ですか、これ——ぅわっ‼︎」
ドーンと洋人をベッドに放り投げて覆い被さり、抗議は無視して、今度こそシャツのボタンに手を掛けた。
「何って、お仕置きするだけだよ」
「どうしてそうなるんですか? 誠さんのために三次会切り上げてきたのに!」
誠は非難の声を上げる膨れ面の横に手を着いた。
この気持ちを、そしてこのモヤモヤをどうやって理解してもらおうかと考える。しかし、対人スキルが底辺のコミュ障の頭をどれだけ巡らせても、トップ営業マンのような素晴らしいプレゼンは思いつかなかった。
「
何故
「どうしてこっちを先にネストしちゃったかなぁ、って残念な関数見たことない?」
九割九分計算できるのに、順番が違うだけで最後の最後が補完できない構文。
最小限で最大限の効果を得られる式であっても、東嶋と一緒にタクシーに乗るのは間違っている。
それだけは許せない。絶対に。
……ってか、やっぱり飲み会に参加してたんじゃねーか、あのジジイ。
「僕、エクセルはあまり詳しくないので……その関数と僕が縛られてることに何か関係があるんですか?」
「ある」
大いにある。
誠はそう言ってシャツをハラリと捲って、その下のアンダーシャツもズボンの中から引き出した。
「え、あ、ちょっと! 誠さん! タバコの匂いついちゃうじゃないですか!」
「いいよ。どうせシーツもぐちゃぐちゃになるし……」
誠はそう言いながら、自らもTシャツを脱ぎ捨てた。はだけた洋人のシャツの裾から指を侵入させて、意味深な手つきで日焼けとは無縁の白い脇腹をつつーっと撫でる。
「妹が来るまでに洗えるだろ……?」
明日の夜までにはたっぷり時間もあるし。
獲物を狙う獣のようにすっと目を細めた誠の問いかけに、洋人は耳まで赤くなった。
「何考えてるんですか⁉︎ 早くこれ解いて下さい! 変態! スケベ!」
ジタバタもがきながら散々誠を罵倒した後、どうにもならないと悟ると、困り果てたように濡れた瞳で睨んでくる。一層乱れた衣服から覗くきめの細かい肌と追い詰められた表情に嗜虐心が煽られる。
「この状況でそんなこと言われても逆効果だからな。俺、結構我慢してたし……昼にキスした時からずーーーっと」
誠が憮然と言い放つと、潤んだ瞳の奥に期待と喜びに満ちた色が一瞬だけ見えた。
え? まさか、これも洋人の計算なのだろうか?
煽られてるのは俺の方?
何が本当で何が嘘なのか、相変わらず誠には分からない。
「……お前はどうなの?」
問いかけて、仰向けになった洋人を見下ろした。
「俺に触りたかった?」
洋人は「え……?」と微かな戸惑いを口にしながら、今度こそ演技ではない困り顔で誠を見上げた。
「……そうかもしれません」
観念したように頷いた洋人が、曖昧な返事とともにそろそろと誠の頬に両手を伸ばす。
近づく体温の気配に、誠は今度こそ理性を放棄した。
最短最速、費用は上司持ちの乗り合いタクシーが必ずしも正解ではなく、更には『僕もこの時を待ってました!』『はやく一緒にドロドロになりましょう』と単刀直入に誘われるより、回りくどい構文の方が心に綺麗に映ることもある。
三十路にして予想だにしなかった気付きを得た誠は、今までの自分の考えを改めながらベッドサイドのリモコンに手を伸ばし、部屋の照明を落とすのであった。
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