【NWC】6月 蛇足のエスケープ 6

「ただいま戻りました」


 ドアを開けると、タバコの匂いをプンプンさせた洋人が入ってきた。

 想定より二時間早い帰宅に驚き微動だに出来ずにいると、洋人は誠の身体にぎゅっと抱き着いてきた。足取りはしっかりしているが、アルコールが回っているのかいつもより少しテンションが高い。


「はぁー。やっと帰れたー」


「……おかえり」


 誠は小さく返して、待ちわびたその温もりを抱きしめる。抵抗することなく胸に収まった頭に鼻を埋めると、タバコの匂いに混じって自分と同じシャンプーの香りがした。今までの不安や杞憂が一気に解消して、誠の肩からクタリと力が抜ける。

 営業部の中でもかなり特殊な部類に属するであろう洋人にちょっかいをかける物好きはそうそういないだろう。しかし、誠は洋人が思いの外享楽的な人間で快楽に弱いことを知っていた。

 二人とも清廉潔白な恋愛をしてきたわけではないので、今更過去をほじくり返して貞淑さを求めるのはナンセンスだと分かっている。しかし、未来についてはそういうわけにもいかない。

 ……二人の未来があれば、の話ではあるが。

 

「どうしたんですか?」


 洋人はキョトンとした顔で見上げ、もぞもぞと身じろぎした後荷物を床に置いた。発表会の冊子が入ったカバンとコンビニ袋が誠の足元でゴトっと音を立てる。


「迷子の子供みたいな顔してますよ?」


 揶揄うように……しかし、傷口を優しく庇うようにそう言って、洋人が頬に手を伸ばしてきた。誠はきゅっと胸を絞られたように苦しくなって口を噤む。きっと心の裏を見透かされてしまったのだろう。

 洋人はそれ以上何も言わず、静かに唇を重ねた。

 洋人の言葉通り、誠はずっと迷子のままだ。家に帰れず、公園で時間を潰していた子供の時から何も変わってはいない。


 いつも帰りたいと思っていた——

 どこかに。

 ——或いは誰かに


 背中に手を回しながらキスを深め、誠が舌を差し込むと、洋人もそれに応じるように自身の舌を絡めてきた。唾液が混ざる音と共に温かい何かが一気に心に流れ込んできて、誠はエアポケットからスルスルと現実世界に戻ることができた。

 『ただいま』の挨拶を交わせる人間がいる家。こんなに当たり前で簡単なことが、誠にとっては学校の授業より、教師の対応よりずっと困難で、途方もない問題だった。


「おかえり」


 長いキスの後、誰ともなしにそう呟くと洋人は可笑しそうにフフっと笑った。


「それはもう聞きましたよ」


「お前、タバコ臭いよ」


 誠はそう言いながら、居ても立ってもいられず洋人のスーツを脱がしにかかる。


「そうですよね。皆スパスパやってるから、回避しようがなくて」


 肩から滑り落ちる上着を気にする様子もなかった洋人だが、誠がネクタイを抜き去りシャツのボタンに指を伸ばしたら、流石に性急だと思われたのか、その手を掴んでストップをかけたきた。


「待ってください。……先にお風呂に入りたいです」


 照れたように誠を見て問いかける。


「今日泊まっていきますよね? コンビニで朝ごはん買って来たんです」


「うん」


 誠が頷くと洋人はスルリと腕の中から抜け出して、床に置いたコンビニ袋の中身を冷蔵庫に仕舞い始めた。縮こまった後ろ姿の、カッターシャツが押し込まれた腰の辺りが妙に色っぽい。

 女性とは違う、硬い腹筋が柔軟にしなる様を誠は知っている。左側の腰骨の下にある黒子のことも、切なげな吐息の湿った感触や、耳元で繰り返される掠れた愛の囁きも……。

 不埒な記憶を行ったり来たりの誠は、引き抜いたネクタイを手持ち無沙汰に丸めながら、洋人に声を掛ける。


「もっと遅くなるのかと思ってた」


「誠さんから連絡があったので、適当に言い訳して切り上げたんですよ」


「え?」


 よもやの回答に誠は胸がキュンと疼き、もっと別の場所がズンとして、歓喜の声を上げるのを感じた。


 もうこれ以上待てる気がしない。

 このまま一緒に風呂入ろうかなぁ……二度目だけど。


 平静を装っていても、頭の中は思春期大爆発の中学生と寸分も変わらない。洋人の言葉ですっかりその気になった誠は、フワフワとあらぬ妄想に胸をときめかせながら上の空で会話を続ける。


「明日、家族が来るからって……」


「ああ。妹が泊まるって言ってたやつ? ……ん? でもコンサート夜じゃなかったっけ?」


「開演六時だから、終わるのは八時過ぎでしょうね。別にいつとは言わなかったんですけど、皆勝手に午前中の予定だと思ったみたいで……」


 洋人は冷蔵庫を閉め再び誠に向き合うと、イタズラっぽく目を細めた。

 嘘ではない——が、三次会不参加の理由にはならない真相。

 皆が勘違いすると知りながら、洋人は敢えて夜の予定だと説明しなかったのだ。事前に話を聞いていたはずの誠ですら騙されそうになったのだから、本当にタチが悪い。

 しかし、誠には洋人の本性を他の人間に暴露する気もさらさら無かった。

 そっと手を伸ばして身体を引き寄せると洋人ははにかんだような笑顔を見せた。


「連絡出来なくてすみません。帰り、統括のタクシーに便乗させてもらえたんですけど、ずっと話しかけられてて……」


 ピクっと誠の動きが止まる。

 今、何だかとんでもなく聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしたが?


「…………」


 腰を折られたと言うか、出鼻を挫かれたと言うか、水を差されたと言うか……。


「どうしたんですか?」


 無表情のまま固まってしまった誠に、洋人は首を傾げた。嘘ではない誤解を招いて営業部の仲間すらもペテンにかける希代の猫被りは、人畜無害な子猫のような瞳で十三センチ下から誠を見上げる。


「風呂は却下」


 誠は冷淡に宣言して手の中のネクタイを解くと、洋人の手首を一つに束ねてクルクルと拘束してしまった。


「えっ、えっ? 誠さんっ⁉︎」


 そのまま、罪人を引っ張ってリビングへと移動する。


「どういうことですか? 何ですか、これ——ぅわっ‼︎」


 ドーンと洋人をベッドに放り投げて覆い被さり、抗議は無視して、今度こそシャツのボタンに手を掛けた。


「何って、お仕置きするだけだよ」


「どうしてそうなるんですか? 誠さんのために三次会切り上げてきたのに!」


 誠は非難の声を上げる膨れ面の横に手を着いて、深い深いため息を吐いた。

 この気持ちを、そしてこのモヤモヤをどうやって理解してもらおうかと考える。しかし、対人スキルが底辺のコミュ障の頭をどれだけ巡らせても、営業マンのような素晴らしいプレゼンは思いつかなかった。


Excelエクセルでさぁ……」


 何故Excelエクセル? と洋人が訝しげに眉を顰める。誠は構わずボタンを外す作業を再開させ、淡々と言葉を続けた。


「どうしてこっちを先にネストしちゃったかなぁ、って残念な関数見たことない?」


 九割九分計算できるのに、順番が違うだけで最後の最後が補完できない構文。

 最小限で最大限の効果を得られる式であっても、東嶋と一緒にタクシーに乗るのは間違っている。

 それだけは許せない。絶対に。


 ……ってか、やっぱり飲み会に参加してたんじゃねーか、あのジジイ。


「僕、エクセルはあまり詳しくないので……その関数と僕が縛られてることに何か関係があるんですか?」


「ある」


 大いにある。

 誠はそう言ってシャツをハラリと捲って、その下のアンダーシャツもズボンの中から引き出した。


「え、あ、ちょっと! 誠さん……」


「今からお前のことをぐっちゃぐちゃにする」


 誠はそう言いながら、自らもTシャツを脱ぎ捨てた。はだけた洋人のシャツの裾から指を侵入させて、日焼けとは無縁の白い脇腹をつつーっと撫でる。


「明日、妹が来るまでにシーツ洗えるよな……?」


 獲物を狙う獣のようにすっと目を細めた誠の問いかけに、洋人は耳まで赤くなった。


「何考えてるんですか⁉︎ 早くこれ解いて下さい! バカ! 変態! スケベ!」


 ジタバタもがきながら散々誠を罵倒した後、困り果てたように濡れた瞳で睨んでくる。

 その言葉、そっくりそのまま洋人に熨斗をつけて返してやりたい。更に乱れた衣服から覗くきめの細かい肌と追い詰められた表情に嗜虐心が煽られる。


「この状況でそんなこと言われても逆効果だぞ。俺、結構我慢してたし……昼にキスした時からずっと」


 誠が憮然と言い放つと、潤んだ瞳の奥にキランと喜びの色が見えた。


「え? まさか、これもわざと計算? スケベはどっちだよ?」 


「だって……」


 最短最速、費用は上司持ちの乗り合いタクシーが必ずしも正解ではなく、更には『待ってました!』『はやく一緒にドロドロになりましょう』と誘われるより、回りくどい構文の方が心に綺麗に映ることがある。

 三十路にして予想だにしなかった気付きを得た誠は、今までの自分の考えを改めながらベッドサイドのリモコンに手を伸ばし、部屋の照明を落とした。


(完)

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