17話 rendezvous 4
玄関先に現れたのは妻だった。
歳の頃は四十代後半から五十代前半。目鼻立ちのはっきりした美人で、品の良いショートボブを栗色に染め、ベージュのサマーニットと白のワイドパンツを穿いている。絵に描いたような有閑マダムといった風情であるが、ローズレッドのルージュが艶やかな唇を真一文字に結び、これ見よがしにため息を吐く様子からは、かなりの苛立ちが感じられた。
「まったく、お宅の会社は……」
「この度はご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」
「申し訳ございませんでした」
ドアを開いた女性は、開口一番に二人に文句を浴びせようとしたが、洋人はそれに被せるように勢いよく謝罪をした。誠も半瞬遅れて頭を下げ、後の対応は洋人に任せる。
「担当者から連絡を受け、回線の状況とご契約の内容を確認させていただいておりましたが……」
「あのね! こっちは今すぐ使いたいから、早く来てって言ったの!」
「はい。佐々岡様の状況も重々承知しておりましたので、取り急ぎお電話での解決方法をご案内させていただこうと思いましたが、結果的に弊社の対応が遅れることになりました。お客様に不快な思いをさせてしまったことにつきましては大変申し訳なく思っております。本当に申し訳ございませんでした」
後々指摘されるであろうこちらの不手際に、先手を打って謝罪する洋人に倣って誠も再び頭を下げる。沈痛な面持ちで心の底から申し訳なく思っているという意思を前面に出しつつも、全部が全部こちらの非ではないと、謝るべき部分をきちんと限定している辺りは流石である。
誠も例に漏れず入社直後の新人研修でクレーム対応も一通りレクチャーを受けてはいたが、現場でそれが実行できるかというと必ずしもそうではない。会話は自分に任せろと言ってくるだけのことはあって、洋人は謝るべき内容を吟味し、それでいて相手に禍根を残さないように言葉を選んで対応していた。
「お電話でも少しお話しさせていただいたのですが、弊社の回線には異常が見当たらず、屋内の設備を確認する必要がごさいまして……」
「だから、それはあなたたちの問題だって何度も言ってるでしょう⁉︎ 全部お宅の会社が準備したものなのよ! そっちが設定したものをどうして私たちが見なきゃならないのよ?」
「ええ。ですから、今回はそれを調査するために訪問させていただいた次第です」
誠は二人の遣り取りを眺めながら、よくもまぁこれ程までに淀みなくスラスラと言葉が出てくるもんだなぁと隣の男の対応力に感心していた。
誠にしてみればヒステリックなキンキン声は一々癇に障るし、切り分けに協力もせず『お前らの所為だ』を繰り返す女性に同情の余地はない。これが、八十、九十の爺ちゃん婆ちゃんや、LANとモジュラーの区別もつかないような子供であれば配慮するが、頭も体も正常なこの女性が切り分けを拒否したのは怠慢だとしか思えなかった。本気でインターネットを使いたいのなら、タブレットでもスマホでもいいからルーターからの電波を確認しろ、と言っているのだ。私は機械音痴で……などという言い訳は通用しない。こういう時のために、コールセンターがあり、テクニカルの受電担当がいる。見たままのことを伝え、言われた通りのことをする。ただそれだけのことがどうしてできないのか? 文句を言っていれば周りの人間がどうにかしてくれるとでも思っているのだろうか……。
全く話にならない。
誠なら三ターンぐらいで『そんなに嫌なら旧電電公社さんのサービスにでも乗り換えたらいかがですか?』とぶった斬ってしまいそうな状況だが、洋人は出来得る限り丁寧に、そして根気強くクレーマーへの説明を試みている。
勢いのあるクレーマーから罵声を浴び、子犬のようにシュンと項垂れた表情をしつつも、ちっとも臆することなく口の回転が止まることもないのだから、こいつどんだけ肝が据わってんだよ、と誠はむしろそちらの方が気になって仕方がない。
「奥様、紹介が遅れました。私は……」
言いたいことを言い散らかして婦人が落ち着いたところで洋人は自己紹介と共に恭しく名刺を差し出した。受け取った女クレーマーの注意が名刺の方に逸れた瞬間、誠の肘をつんつんと突き合図を送る。ボケっとしていた誠は慌ててポケットから名刺入れを取り出した。
「同じく、テクニカルサポートグループの星野誠です。よろしくお願いします」
誠が頭を下げて同じように名刺を差し出すと、婦人は誠の顔を見たまま時を止めてしまった。驚きに目を見開き、名刺を受け取ることもなく惚けたような顔をして誠に釘付けになっている。
「…………」
宙に浮いたままの名刺をどうすれば良いのか分からず、誠が戸惑ったように愛想笑いを浮かべると、婦人は途端に赤面し、胸の辺りに手を当てたかと思うとフラリとよろめいた。
「奥様っっ⁉︎」
洋人は慌てて手を差し出し、女性の腕を支える。
「ああ……ごめんなさい。ちょ……ちょっと目眩がしただけよ。大丈夫。もう問題ないわ。と、とにかく上がって頂戴。インターネットが繋がらないんじゃ話になりませんからね!」
「はい。お邪魔いたします」
誠は相変わらず名刺を持ったままだが、どうやら受け取ってもらえそうにはない。
先に上がった洋人に続いて挨拶をしながら靴を脱ぐ。その間も、項の辺りに女クレーマーからの奇妙な視線を感じていた。案の定、誠が顔を上げるとブラウンのアイシャドウと小皺に縁取られたアーモンド形の瞳に遭遇し、それに応じるように黙礼を返したら、婦人は慌てたようにそっぽを向いて取り澄ました顔をした。
「……そう言えば……貴方の名刺を貰いそびれてしまったわね? 星野さん、だったかしら? テクニカル……えーっと、何だったかしら……」
どのこ馬の骨とも分からない不審者をこの家に上げるわけにはいかないの。仕方がないからあなたの名刺も貰ってあげるわ、とクレーマーはあくまでも数段上の立場から誠に命令する。
「テクニカルサポートグループの星野誠です。今回、お電話での問題の切り分けを担当させていただきました。回線には異常がなかったので、お客様の設備を確認させていただきます。よろしくお願いします」
誠の名刺を受け取った婦人は、その名を潤んだ瞳でスキャンした後、少女のように頬を蒸気させた。今まさに、目の前に貞操の危機が迫っているかのように誠を警戒する素振りで、胸の前でぎゅっと腕を組み直す。ひょっとしたら『インターネットなんかよりも、奥さん……まずはアンタのLANポートに接続させてくださいよ』などというアダルト動画ばりの卑猥な展開を期待されていたのかもしれないが、大変残念なことに誠がそんな興味を抱くのは、欲求不満の美人マダムではなく、隣に立つコールグループ所属の年下の営業マンただ一人だけであった。
女クレーマーが素っ気なく顔を逸らしつつも、視界の隅でチラチラとこちらの様子を気にしていることは明らかだったので、誠は失礼にならない程度に応じつつ、極力顔を合わせないよう務めていた。
「では——」
そんななけなしの努力を一蹴するかの如く、小さな咳ばらいがギロチンのように落ちてきて、誠に纏わりついていた有閑マダムの視線を秒で断ち切った。
「早速ですが、宅内の設備を確認させていただきましょうか。……ねぇ、星野さん?」
いつもより数百倍冷徹な声が、切断された首のように白い大理石の床の上を転がって消える。
営業スマイルで穏やかな表情を作りながら、洋人の目は全く笑ってなかった。
怖い……。
クレーマーよりも先に自分が抹殺されてしまうかもしれない。
「……そうですね。満島君」
誠は背中に冷たいものを感じながら長い廊下の先に視線を向けた。
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