20話 rendezvous 7

 リラックスした表情で細く開いた窓の隙間から紫煙を吐き出す後輩に、誠はカフェラテが入ったカップを差し出した。


「飲む?」


「いいえ結構です」


 元凶である妻を見事に手懐けた洋人は、屋敷を出て車に乗り込んだ瞬間に営業モードも職場モードもすっ飛ばし、素の状態に切り替わっていた。同行者が誠だったのでスイッチを全て切っても問題ないと思ったのだろう。先輩である誠に運転を任せ、立ち寄ったコンビニで念願のニコチンタイムに突入すると、やっと人心地ついたのか目をトロンとさせた。ネコを脱ぎ捨てた本人が気まぐれな猫に変身してしまったかのように、今は拗ねた表情で助手席の背もたれに身体を預けている。


 問題のパソコンを疎通させた二人は夫妻に改めて今回のトラブルの原因を説明し、PLC又は中継器の増設を行ってもらう旨の約束を取り付けた。後日、今日の件で電話がかかってこないように、作業内容とともに対処方法が書かれた紙を渡し、そこに電気店で相談するポイントも列記している。用紙の裏には誠がここら辺に中継器を設置したら良いという間取り図まで書き足す念の入れようだ。

 開通から年数が経っている上に無線には厳しい建物なので、補足としてメッシュルーターの説明も加えたが、妻は聞きなれない言葉の羅列に最後まで二人に対応を依頼したがっていた。いずれにせよ、二階の中継機の存在を明らかにしないことには始まらない。どうあっても『あっくん』は避けて通ることの出来ない問題だと悟ると、妻は再び頭を抱えた。

 インターネットはどうにかできてもさすがに家族の問題にまでは介入できない。それこそ後は自力でどうぞの世界だ。親の留守中にこそこそ人の家に上がり込んで……という部分が心情として許せないのだろうが、残念ながら娘の純潔はほぼ確実に奪われている。どころか、ここではない場所で二人ともノリノリでヤリまくっている可能性が高い。付き合いたてのカップルなんてそんなものだし、順当に恋愛経験を重ねている娘はある意味健全だ。


『君に全部任せて悪かった』


 悩む妻を見て、夫は反省したように声をかけた。

 マダムはハッとしたように顔を上げて、夫の方を見た。まるで今の今まで味方の存在など忘れていたかのように、その目は驚きに見開かれている。


『星野さんと話しているうちに思い出したんだよ。君と出会った頃のことを……。一度彼に会ってみないか?』


『会う? 会って何を話すつもりなの? あんな子絶対にダメよ』


『はは……。そうだね。でも、僕たちだってそうだったじゃないか』


 退出のタイミングを見計らっていた洋人と誠は、思いがけない主人の言葉に『まさか?』と夫妻に気付かれないところで顔を見合わせた。


*****


 半婿入り状態の主人と深窓の令嬢であったマダムの馴れ初めはこうだ。

 主人の家業であるスーパーの前身は八百屋で、祖父の時代から御用聞きとして令嬢宅と取引があった。時代の波と共に八百屋はスーパーへと姿を変え、家業を手伝っていた主人は配達の際にマダムに出会った。初めて言葉を交わした若い二人の情熱はあっという間に燃え上がり……後は説明するまでもない。

 ——で、件の『車に乗った途端全スイッチオフの満島洋人』に繋がるのだが。


「結局のところ、自分たちも親の目を盗んで逢引きしてたんじゃないですか」


 人のことを言えたクチか。

 舌打ちと共に毒付いたコールセンターの悪魔の隣で、ネットワークセンターの神と呼ばれた男はシロップ二つを投入した甘々のカフェラテを一口含んだ。

 ついさっきまで「素敵なお話ですね」なんてニコニコしながら二人の会話に耳を傾けていた優等生営業マンの姿はどこへやら。ネコが剥がれ落ちた途端にこの有様だ。洋人におだてられ、照れ臭そうにしていた二人がいっそ哀れに感じる。

 妻の苛立ちの原因は家族だ。インターネットはきっかけに過ぎず、旦那をけし掛けて業者を呼び出したのも、年甲斐もなくイケメン保守社員に色目を使ったのも、イチャついている娘を叱ったのも、全ては家庭で誰からも相手にして貰えない妻のフラストレーションから派生していた。旦那がしっかりフォローしていればこうはならなかった、というのが洋人の見解だが、いくらなんでもそれはフィルターかけ過ぎだろう、と誠は思う。

 イラついているのは洋人の方だ。第一営業部からの無茶振りに始まり、煙草を我慢して向かった家は検証するまでもない鉄筋コンクリート造の豪邸で、中継機も行方不明。更には更年期のおばさんのヒステリーに付き合い、娘の不純異性交遊やら、若かりしクレーマーの青臭い恋愛話なんぞを延々と聞かされたのだ。同情の余地はある。誠が分電盤を見ている間に無理せず一服してくれば多少なりとも心が落ち着いたのでは? とは思わなくもないが、多大なストレスを微塵も悟られることなくクレーム対応を乗り切った精神力は称賛すべき点だろう。


「でも、あっくんが公認になってくれたら、こっち的には楽だよな」


 よしんばフリーダイヤルに電話がかかったとしてもあっくんなら全てを理解して、サクサクと動いてくれそうな気がする。

 二人の前では冗談でもそんなことを言える状況ではなかったので誠は口を噤んでいたが、彼の悪魔は思い出話に花を咲かせる二人に対して、営業スマイルを浮かべ、作業票に『電気店、又はに相談して下さい』と二重下線付きでしっかり書き残していた。

 『通信機器に詳しい方』とは、つまりあっくんのことだ。この強烈な当て擦りにマダムと主人が気付いたかは分からない。しかも洋人の説明はそれだけに止まらず、親切丁寧、全てはお客様のためにという大義名分の元に、ルーターを交換し、中継機を増設した場合の訪問設定作業、そしてLAN敷設を行った場合の概算費用をそれぞれ弾き出し、いずれの選択をしても五桁の請求になることを伝えていた。一般家庭なら『そんなにお金かかるの!?』と眉を顰められる金額である。断られることを前提に、それだけの人件費がかかっているのだから二度と下らない内容で呼び出すんじゃない、という遠回しなメッセージかと誠は訝ったが、万が一設定サービスやLAN敷設の依頼があったとしても、それはそれで売り上げに繋がるという、嫌味に便乗したガチ物の悪魔の営業トークであった。

 黙っていてもじきに退出できそうなこの局面で意趣返しも営業本分も忘れない大胆不敵な言動に、誠は改めてこの男だけは敵に回すまいと心の中で誓った。


「……ってか、何で分かったの?」


「え?」


「オヤジが単身赴任だってこと」


 誠が尋ねると、洋人は「ああ」と頷いて、窓の隙間に顔を寄せてまた煙を吐き出した。送風口から吐き出される冷気に目を細め、チラと誠を見る。


「リビングに写真立てがあったでしょう? そこに、一枚だけ同じ写真が飾られていたんですよ。全く同じフレームで。最初に見た時にそれがすごく引っかかって……」


「……そうだっけ?」


 誠も写真は見たが、どんな写真かまでは覚えていない。意識しないものは見てないのと同じだ。


「はい。ご主人の誕生日だと思うんですけど、本人は写真に写ってないし、片方は日焼けしてたから、それぞれ別の場所に飾られてたんだろうなって……。二人の会話を聞いてたら、家のことは奧さんに任せてるって雰囲気でしたし、あと着ているものも奧さんとは随分テイストが違っていたので、自分で買ったんだろうな、って」


 説明されれば納得できるが、写真には気づいても誠は『家族写真だな』ぐらいの感想しか抱かなかったし、服に関してはテイストなるもがどんなものかすらよく分からない。


「じゃ、マダムはどうやって誘惑したの?」


「誘惑したのは誠さんの方でしょ」


 じっとりと横目で睨まれて、誠は一瞬怯んだ。

 まさか、いつもより割増されている洋人の不機嫌の原因はなのか?


「いやいや。いつ俺がそんなことしたよ?」


 誠が誘惑したかったのはマダムではなく洋人の方だというのに。


「めっちゃエロイ目で見られてたのに、ヘラヘラ笑ってたじゃないですか」


「営業スマイルだろ。黙ってると顔が怖いから挨拶の時ぐらい笑えってグループ長からも言われてるんだよ」


 どれだけ顧客対応が嫌だろうと、不本意な障害対応に付き合わされようと、誠だって社会人の端くれだ。会社の看板を背負って名刺を差し出すような場面ではそれなりに取り繕う。不可抗力の出来事に言い訳することもできず誠が困っていたら、洋人はタバコの吸い殻をIQOSから抜き、ボソっと零した。


「誠さんが愚痴ってたことをそのまま振りました」


「は?」


「よく言ってたじゃないですか。進路指導がどうとか、PTAが面倒だったとか……そういう話をしたんですよ。そしたら彼女の方からペラペラしゃべり出したので、相槌を打ちながらスッキリするまで話を膨らませただけです」


「あ、そう」


 誠がコールセンターに異動したのは、みのるが高校三年の時だった。就職すると言い張る弟と、専門学校に行かせたい誠は事あるごとに喧嘩し、洋人はその様子を隣で見ていた。確かに洋人にもいろいろ愚痴った。進路問題に限らず、それこそ主人にした夜勤明けの旗振り当番みたいな昔のエピソードを交えながら所帯染みた話をしたこともあった。


「……ま、役に立ったなら良かったけど」


 まさか自分発信のネタがそんなところで役に立っていたなんて、露ほども考えなかった誠は自慢にもならないアシストに何とも言えず再びカフェラテを口に運んだ。

 時計を見れば会社を出てから三時間が経過しようとしている。誠の定時はもう目前に迫っていて、この後最寄駅で下ろしてもらえば業務は全て終わる。今日は早番な上に帰宅時間がカットされたので、弟が帰るまでに余裕で夕飯の支度ができるだろう。


 洋人は……

 やっぱ無理だよなぁ……。


 誠が僅かな期待を持って隣を見ると、同じくこちらを見ていた洋人と目が合った。

 何かがカチっと嵌ったような気がして、誠が目を離せずにいると、IQOSを仕舞った洋人が、僅かに頬を染めながら誠におねだりしてきた。


「誠さん。帰る前に……してください」 


「え?」


 思いがけない言葉に、誠は目を瞠った。

 洋人の定時はあと二時間後だ。しかし、会社にはまだ作業完了の報告はしていない。


 障害対応延びたとか言い訳しちゃう?


 まさかまさかの申し出に誠はしばし逡巡した後、


「えーっと……」


 それならば、とカーナビの画面に手を伸ばした。


「え? 何してるんんですか?」


「え? ラブホ見つけるんじゃなくて?」


 マダムの妄想ではないが『そんなことより、お前のLANポートに繋がせてくれよ』っていう例のでは?

 しかし、誠がその言葉を口にした途端、洋人は目の色を変え、ガシっとカーナビに伸びた腕を掴んできた。


「何考えてるんですか! これ、社有車ですよっっ⁉︎」


 履歴辿られたらどうするんですかっっ!?


「……そうじゃなくて……」


 洋人は耳まで真っ赤になりながら、誠に恨めし気な視線を向けた。

 もごもご口籠り、何か言いたそうに口を開いてやめてということを二回繰り返した後、観念したようにこう言った。


「…………出発する前にやってくれたでしょう?」


 ——よしよし、頑張れってやつです——

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