第6話

「……ダメだ」

 行こうと奮起した次の日の朝。俺は久しく歩いていなかった通学路に立っていた。ゆっくりと、しかし確実に学校への距離は縮んでいく。まだ一限目が始まるまで時間もあるし、何もかもが順調……のはずだった。

 だがなんということでしょう。一度レールから外れた人間が再びその道に戻るには、とてつもない覚悟が必要だったのだ。ノリだけでどうにかできる問題ではなかった。登校途中でそれに気付くとは、自分のことながら滑稽である。

 だが、こんな重圧に負けている場合じゃない。リオさんのために曲を作ると決めたんだ。ここで諦めたら彼女にも迷惑がかかる。俺一人の問題ではなくなったという現実が無理やり足を動かした。

 そして、記憶している限り普段の倍以上の時間を費やして俺は約半年ぶりにA専のビルと対峙する。都心部の真ん中に建つビルの入り口は、他のオフィス向けとは違い独創的なアートに彩られていた。

「おはようございまーす!」

 重い足を引きずるようにして玄関をくぐると、挨拶運動か何かで直立している教師が声を張り上げた。校訓で挨拶を大切にしているからと言って、ここまでするのはどうなんだ。小学校の通学路じゃあるまいし。

 軽く会釈だけをして、俺は脇にある階段を上る。エレベーターもあるにはあるのだが、この時間は登校してくる生徒でギチギチになってしまう。そんな地獄に自ら入る趣味はない。教室までの道は遠いが、仕方のないことなのである。

「……あ」

 そうして軽いハイキングに苦しめられていると、知っている顔を見つけた。思わず漏れた声に、その生徒もこちらへ目を向ける。

「孝明君……?」

「よう、久しぶり……」

 井神いかみ茉奈まな。イラスト学科に所属する俺の同期にして、数少ない女友達。去年の文化祭で彼女が販売してたイラスト本を購入したことがきっかけで遊ぶようになった。

背が小さく、前髪をぱっつんに切り揃えているせいで年齢よりも幼く見える。容姿自体をコンプレックスだとは思ってないみたいだけど、子ども扱いされるのは気に食わないらしい。本人には黙っているが、異性というよりも妹に近い感覚だ。名前で呼ぶのはなんかしっくりこなかったので、俺はイカちゃんと呼んでいる。

 ……まぁ、全部俺が真面目に通ってた頃の話だけど。

「久しぶり……じゃないよ! 今まで何してたの?」

「いやぁ、その……何と言いますか……イカちゃんは元気してた?」

「元気だったよ。まぁ、課題に追われて大変ではあるけどね……」

 イカちゃんは何気なく言ったのだろうが、課題という一言が俺の心臓をつっついた。真面目に夢へと突き進んでいる人間だけが経験してる苦悩というやつを、俺は忘れてしまっている。

 ここで正直にサボってたといえばいいのだが、誰が聞いてるかもわからない廊下で話す気にはなれなかった。自分の所属している学校だというのに、空気感に圧倒されてしまっている。

「まぁ、話したくないなら詳しくは聞かないけどさぁ……これからはちゃんと来てよね!」

 それだけを言うと、急いでるからと彼女は足早に去っていった。

 半年という決して短くはない期間姿を見せなかったというのに、彼女の態度は何も変わっていなかった。もしかしたらだけど、自分が考えすぎているだけで他の人間は何とも思ってはいないんじゃないか?

 さっきより軽くなった足取りで俺は教室まで向かう。そして扉を開いた先で、それは自分の勘違いであることを思い知らされた。

「え……」

教室には智以外の同級生が顔を揃えていた。その中の一人が声を漏らす。

 彼らも今更俺が来ると思っていなかったのだろう。さっきの一言を最後に、室内から声という声が消える。俺に向けられたのは、歓迎の声ではなく驚きと疑問に満ちたような視線だった。どうやらイカちゃんみたいに優しい人間はいないらしい。とはいえそれを非難できる立場じゃない。今までサボってきた罰だと思えば、まだ耐えられる。

 彼らの視線から消えるように、俺は最後方の席へと腰かける。講義を聴くだけなら席なんてどこでも構わない。それよりも今日という一日をどうにか乗り切ることが大切だ。

 俺が席に着いてから五分と経たずに、講師はやってきた。中年の講師は、荷物を教卓の脇に置くと飲みかけのコーヒーを口に含む。二年が始まって数回は通っていたから顔は覚えてるけど……名前がどうしても出てこない。それは向こうも同じのようで、俺の顔と出席簿が入っているタブレットを行ったり来たりしていた。

「君は……」

「藤原です。藤原孝明」

「あぁ、藤原君ね……この授業は、えーと……あぁ、来たことはあるのか」

 こんなどうしようもないやり取りが行われたあと、始業を告げるチャイムが鳴り響いた。中年の講師は気の抜けたような声で、出席を取り始める。

「さて、それじゃ先週の続きから作業をしてもらうんだけど……その前に藤原君のために説明をしておくね」

 俺としてはありがたい話だが、わざわざ教卓に立ったままする必要があるのだろうか。ほかの生徒からの視線やら圧やらが痛い。しかも後方に座ったせいで、講師の声がやたらと大きい。せっかく回避したというのに、これじゃ逆効果だ。

「……で、説明は以上なんだけど、大丈夫?」

「あ、はい……」

 説明なんて大それた風に言っていたが、ようは次の審査会へ提出するための作品を制作する時間らしい。審査会といえば夏休み明けの数週後とかにあったはずだ。まだ全然時間もあるというのに、講義の時間を割いてまでするなんて去年ではなかったぞ。

 とにもかくにも、これまで参加してこなかった俺が口出しする権利などない。言われたとおりに作業に取り掛かろうとするが、手がすぐに動くことはなかった。

 今まで何もしてこなかったうえに、作詞をするための脳に切り替わっていたのだ。すぐにスイッチが切り替わらない。講義を聴くだけだとなめていた自分を悔いる。

「大丈夫かい? できそう?」

「えぇ、頑張ってみます……」

 講師もかなり気にかけてくれている。けど、ここでできませんと言ったところで状況がよくなるわけじゃない。無理にでも作業を進めるしかないのだ。

 だが、ないものをひねり出そうとしても出てくるはずもなく。俺は一限目を無為に過ごすことしかできなかった。

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