第32話
夕方。あれから歩けるまで回復した俺は、店長に付き添ってもらいながら帰宅していた。「今日は作業禁止!」と固く言いつけられたので守っているが、なんだか落ち着かない。最近は作業しっぱなしだったから、何もしないということに違和感を覚えるようになってしまった。しんどさも残っていたし睡眠を取ってみたけど、結局一時間もしないうちに起きてしまう。
どうにかして時間を過ごせないかと模索していたところ、インターホンが鳴る。少しだけ重い体を起こしてインターホンのカメラを見てみると、そこにいたのはイカちゃんだった。
「ごめんね。しんどいのに起こしちゃって」
「いや、それはいいんだけど……」
彼女の手に持ったレジ袋に視線を落とす。そこには、いろんな食材が詰め込まれていた。
「店長から聞いてね。ご飯とかも作れないだろうと思って……キッチン借りていい?」
「え、うん……」
俺の承諾を得ると、彼女は遠慮がちに室内へと入ってきた。キッチンの場所を把握すると、袋を机に置き用意を始める。いつも作っているからか、恐ろしいほどに手際がいい。
「ちょっとだけ時間かかると思うから、寝てて」
手を洗い、イカちゃんは俺に声をかける。それだけを言うと、彼女は本格的に調理へと取り掛かった。
言われた通り布団にくるまるが、今度は違う意味で落ち着かない。俺の家で女子が料理を作っているということが現実のものとは思えないからだ。なんかもう、体の不調などどこかへ消え去ったんじゃないかと思えるくらい舞い上がってる自分がいる。
「お待たせー。食べれる?」
「あぁ、うん」
三十分もしないうちに、料理が運ばれてきた。うどんにほうれん草の和え物。それにデザートにはゼリーもある。どれも健康に良さそうだ。
「いただきます」
しっかりと手を合わせ、うどんを一口。出汁のきいた優しい味が、口の中いっぱいに広がる。具材はネギだけだが、そのシンプルさがいい。とてもじゃないけど、即席で作ったものとは思えない。ほうれん草だってそうだ。醤油とゴマだけを使っているはずなのに、俺が作るものと比べて段違いに美味い。多分下処理とか、工程とかに秘密はあるのだろうけど、重い頭ではそれを考える余裕もない。いくら心ではしゃいでいても、体は正直だ。
「美味しいよ。ホントありがとうね」
「ううん、気にしないで」
そう言って、イカちゃんはニッコリと笑った。
「昼間はごめんね? 体調悪いこと、気付けなくて……」
「仕方ないよ。俺も急にきたからさ。イカちゃんは何も悪くないって」
ゆっくりと噛みしめながら、イカちゃんの手料理を味わう。こんな機会、俺の人生で最後かもしれないんだ。いくら不調だからといって、粗末に食べるわけにはいかない。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
そうして少しずつ食べ進めること三十分。全てを綺麗に平らげると、イカちゃんはお皿を台所へと持っていってくれた。
「置いといて。体調が戻ってから洗うから……」
「いいよ、これくらい。大した苦労でもないし」
テキパキと皿を洗う姿に、またしても感心してしまう。なんか、ベタな感想だけど良いお嫁さんってイカちゃんみたいな子のことを言うんだろうなぁ……。
「よし」
皿洗いを終えたイカちゃんが、わざとらしく声を出す。自分のカバンを手に取り、帰宅する用意を整えているようだった。
「それじゃ、ゆっくり休んでてね」
「わかってる。ホント今日はありがとな」
挨拶を済ませると、イカちゃんは帰っていった。心配はしてくれていたが、それを押し殺すような笑顔が瞼の裏に残る。本当、彼女には迷惑をかけてばかりだ。今度改めてお礼をしないとな……。
腹いっぱい食べて、一息ついたからだろう。強い眠気が襲ってくる。抗う理由もないし、明日には体調を万全にしておきたい。ここは素直に床へ就くのが正解だろう。出汁の匂いがほのかに残る中、俺は深い眠りへと落ちていくのだった。
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