第5話 迷走する殺人事件
「ヤワじゃねぇなあ、ヤワじゃねぇ」という言葉が口癖の永添十紀夫は片手で頭をぐるぐるとかき回した。
痩せた小柄な男で、外歩きが多かったせいか日焼けした顔はシワも多く、年齢より老けて見える。常に白いポロシャツによれよれズボンをはき、キャップを被った姿はホームレスと大差ないような姿だ。
しかし、一旦、深くその人柄に接すれば、愛さずにはおれない魅力的な人物だ。
知識が豊富で知的好奇心が衰えず、懐も深い。よほど卑屈な人間でない限り、たいていの者が尊敬の念を抱く。
永添は現役時代、刑事部捜査第二課に所属して、主に知能犯を追う部署で采配をふるっていた。
捜査第二課は別名エリート課とも呼ばれ、計画的な知能犯を追う部署であり、他とは捜査方法も異なった。
地道な作業で、ひとつずつ証拠集めをする。この課が検挙に動く時は末端ではなく、ホンボシをあげられる裏付けがあるときだ。
永添は現役時代、病院経営から巨万の富を築いだ
捜査半ばで引退した心残りの事案である。
退職時に捜査線上で知ったジニの事件は、ある意味、運命だったのかもしれない。
単なる婦女暴行事件であったら、永添の興味は引かなかっただろう。十五歳の少年が一ノ瀬病院の隔離病棟へ措置入院したこと、そこに捜査官としての勘がうずいた。
隔離病棟の不透明さ。それを隠蔽する一部の警官や法曹関係者たち。
隔離病棟の存在自体に一ノ瀬家のあやうさがあった。
一ノ瀬家は女系家族であり、彼は婿養子だった。
一ノ瀬克ノ介、旧姓は加藤克ノ介といい、優秀な成績で医学部を卒業したのち、地域で診療所を営む一ノ瀬医院の娘婿となった。その後、診療所を強引な手腕で大きく発展させたのは彼の手腕だ。
婚家先の一ノ瀬は昔からの大地主で、広大な土地を所有する資産家であったことも幸いした。
診療所を足がかりに地域の総合病院へと発展させた。
一ノ瀬病院を継いだのは長女の婿、
警察の任意聴取から救い出されたジニは、永添がハンドルを握る十年落ちのオンボロ車に乗った。
湘南の海を左手に、民宿へ戻る国道を走る。サイドの窓から砂浜に建つ『海の家』の屋根が見えた。
海開きが終わった夏休み前、湘南の海にはサーファーや海水浴客たちが楽しんでいる。
「学校で屋上から飛び降りた子がいて」
「ああ。とんでもないことが起きたな。自殺か事件かってことだろうが。それで、おまえさんだけが警察に呼ばれた理由はなんじゃ」
「最後に彼女と話したのが、僕だったんです……」
「また、何だって、そうなる。前から思うが、事件の引きが強すぎるぞ」
「好きでそうなっているわけじゃない」
「それで、その子に呼ばれた理由はなんじゃ。まさか、振ったのか」
「ジッサマ、彼女は別の男を好きで。いくらなんでも」
「ありそうじゃわ」
ジニが不服そうに口をすぼめると、永添は目を細めて笑った。ジニは永添のまえでは年相応の幼さがあらわれる。
「それで、なんで呼ばれたんじゃ」
「佐々木優子先生と彼女は仲がよかった。僕が転校する二日前に臨時講師になったばかりのクロブチってあだ名の」
「ああ、例の先生だな」
「彼女、一ノ瀬と親戚だそうです。一ノ瀬頼友の母の妹で、父親が違うとか、そういう話をした」
「ほお、なんでまた、そんな事を言ったんだか。だが、そうなら、クロブチ先生は、おまえさんと同じことになるが。大金持ちの家がドロドロってのはありがちなものだ。金が人を呼ぶんだろう。ヤワじゃない話だ」
「でたね、ジッサマのヤワじゃない」
永添は、興が乗ると『ヤワじゃない』が口癖になる。
「クロブチの前任者ですが、通り魔に殴られて入院しているそうです。それで、急遽、先生が赴任してきた」
「ほお、その飛び降りた少女は、なかなかに噂通のようだ。もしかすると触れてはならん禁忌にはいったか」
「彼女は、どうなりましたか?」
「意識不明の重体だが、まだ息はあるようだ。幸いなことだ」
ジニが辻ヶ丘高校へ転入したのは、一ノ瀬頼友に近づくためだ。前の学校を退学したという噂があるが、実際は違う。
ジニが望んだのだ。
ただ、祖母を説得するために、退学と言った方が楽だったから、あえて噂を否定していない。
ジニの転校手続きがはじまった頃、クロブチの前任者が通り魔事件にあった。
そうして、赴任していたのが佐々木優子だ。
「坂部さんは自殺じゃない」
「なぜ、そう確信できる」
「彼女、僕が一ノ瀬を好きかって問いただしてきたんです」
永添はハンドルを握りながら相槌をうった。
「また、あの一ノ瀬か」
「そうです、あの一ノ瀬です。彼女は彼が好きだと、そんなことを言った少しあとに、屋上から飛び降りるなんて考えられません」
「警察に話したのか」
「いえ」
「なぜ、黙っていた」
「説明するのも面倒で」
「まったく、それが、おまえの悪いところじゃ。警察を信用していない」
道路沿いの街灯がオレンジ色に点りはじめている。
波の音が冷房の効いた車内に聞こえてきた。
ジニはサイドガラスを開け両手を窓枠についた。向かい風を避けるため、顔を進行方向と逆にする。
遠くなっていく江ノ島のシーキャンドル(展望灯台)を眺めながら、じっくりと考えをまとめる。
サイドガラスを閉めた。
「学校の屋上へあがるドアは二箇所で、ふだんは鍵がかかっています」
「じゃあ、教師かビルの管理者しか入れないのか?」
「そうとも、言えないんです。あの学校の生徒は真面目なやつが多いですが、当然のようにはぐれた者もいる。立ち入り禁止の屋上でタバコを吸っているから手に入れる方法がある」
「彼女が屋上にのぼるのに、鍵を開けた者がいるってわけだ」
「自分で鍵を持っていました。屋上でたむろしている奴らとの接点はないので、おそらく別のルート」
「それはなんだ」
「先生ルートです」
「……この先は家に戻ってから話そう」
そう言うと、永添はウインカーを出して国道を右折した。
民宿に戻った夕食後、ふたりはジニの部屋で白板の相関図を見た。
この相関図の中にいる人間で、辻ヶ丘高校屋上の鍵が手に入る教師といえば、クロブチしかいない。
クロブチは謎が多い。
ジニには頼友の母が自分の母だと言い、由香里には妹だと言った。
あの屋敷で共に暮らしていない。苗字も一ノ瀬ではなく佐々木だ。頼友の父、
由香里の言う通りなら、ジニと同じ克ノ介の子かもしれない。
それはジニの母以外にも女がいたという意味になる。ならばジニを隔離病棟に隠して、なぜクロブチは隠さなかったのか。
「そこが、引っ掛かります。なぜ、クロブチは隔離病棟にいなかった」
「ぜんぶ嘘だな」と、永添が言った。
「クロブチは、おそらく母親の妹ではないですよね」
「どうしてそう思う?」
「いろいろ、説明がつかないことが多いからです。だから、彼女に罠を仕掛けてみようと思います」
「どんなだ」
「まずは、メールでも送ろうかと。必ず彼女が真相を語るようにしむけます」
「そうか。打ち合わせをせねばな。家に戻ったら、すぐに計画を練ろう」
(つづく)
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