第2章

第1話 不眠症に悩む少女と隔離病棟の少年



 


 三年前、中学二年の朝。

 病院のベッドで目覚めたとき、水城陽毬みずきひまりは、これまでもう充分に生きてきたと自覚した。

 これ以上、生きていくのは無理だ……。

 死ぬほど周囲を恐れる自分が惨めで惨めで、好きになれない。


 普通に生きづらい性格なのは、自己肯定感が谷底にあるのかってほど低いから。不眠症からうつ病を発症して、精神病院に入院したなんて、最悪のシナリオでしかないと思う。


 親友のアオイは真逆で、中学生の頃には、すでになりたい自分の将来をしっかり決めていた。時に……、自信にあふれたアオイの存在はプレッシャーで。


「環境ホルモンが世界を滅ぼす前に、わたしは大人にならなきゃならない」という謎の使命感をもった彼女が面倒なこともある。


 アオイのように自信に溢れていたら、どれほど良かっただろう。


 ヒマリはひとりっ子で、親はなんでも言うことを聞いてくれる。専業主婦の優しい母に、父親は親の代から続く電気関連の会社を経営している。

 問題のなさすぎる平和な日々に、彼女はこの平和が、いつか壊れるのではないかと、漠然とした不安をもっていた。


「神さま、どうかいつまでも、この世界が続きますように。パパとママが、ずっと元気でありますように……」


 毎夜、寝る前の儀式として彼女は神に祈りを捧げる。それが心に深く根ざした不安であることに気づいていない。


 家族という陽だまりから外に出ることを極端に恐れ、世間が発する悪意に耐えられない。


 怒鳴る人。

 泣き喚く人。

 大声の人。


 自分に関わりがなくても、ヒマリの心臓は破裂しそうになる。


「ビビリなのよ。ヒマリは本当にビビリ」と、アオイは笑う。

「ガラスメンタルすぎて。そんなじゃ、世間を渡っていけないと思う。でも、そういうヒマリが好きよ。宝箱に入れて守ってあげたいくらいにね」

「アオイまで過保護なんだから」


 そうして、ヒマリは睡眠が恐ろしくなった。


 夜が怖い……。

 眠るために苦しみ、苦しむために眠りにつこうと懸命に努力する。その努力が、さらに苦しみの素になる。

 それは、終わりのない拷問のようで、ヒマリの心をゆっくりと蝕んだ。


 心配した親は一ノ瀬病院の医院長である頼友の父に相談した。


 頼友の父親とヒマリの父親は学部が違うが同じ大学に通い、野球部に所属した先輩後輩の間柄だった。彼女が一ノ瀬頼友いちのせよりともと幼馴染であった理由も、そこにある。





 入院後、謎の使命感に萌えたアオイは常に傍らで寄り添ってくれた。マインド的には環境ホルモン問題と一緒なんだろう。

 毎夜、アオイからラインが届く。


〈今夜も眠れないの?〉


 廊下から漏れる白熱灯の明かりで、完璧な暗闇にならない病室。眠れないまま、ベッドから起き上がりラインに文字とスタンプを打ち込む。


〈アオイ、アオイ、アオイ〉

〈りょ。眠れないのね〉

〈なぜ、起きているのか、自分でも不思議なんだけど〉

〈眠ってるのよ。ただ、その自覚がないだけ〉

〈自覚のある睡眠ってあるの〉

〈そこは、命題だわ〉


 病院では、ありとあらゆる検査が行われた。

 脳波も含め、さまざまな検査をした結果、不眠症は喉にあるアデノイドが肥大化していることが原因という、おおよそ考えられない診断が下った。


 精神的なものではないという結論に、ヒマリ以上に両親が驚いた。


『睡眠時無呼吸』という症状がアデノイドの肥大によって起きるという。横になって寝るとアデノイドが喉を塞ぎ呼吸を止めるらしい。これが不眠の発端になっているという。


「眠ると、喉を締め付けられ酸素を吸えない窒息状態でしたから、それは苦しかったでしょうな」と、医師は説明した。


 本来、小学校に上がるころには消失しているはずのアデノイドが中学生になっても残った珍しい症例だという。


 アデノイドの外科的手術は一時間ほどで終わった。


 手術後は、不安神経症と不眠症が改善されるか様子をみるために、さらに入院した。


 睡眠は劇的とはいかないが改善された。

 もともと神経が細く眠りが浅い体質だったが、少なくとも眠りにつければ一晩中、眠ることができるようになった。

 身体的には健康な入院生活は退屈なものになる。

 決まった時間に看護師が来て、熱を測り、血圧を計測して簡単な質問をして出ていく。

 個室だから、母がいなければ話す人もなく、時間を持て余すが、外に出るのも怖い。

 アオイが見舞いに置いていった本は、アオイらしく難しい作品ばかり。


 どうしてこんな難しい本ばかりと聞くと、「だって、漫画とかならスマホで読めるじゃない」と、彼女は笑った。


「この本の役目は簡単よ。むずかしすぎて、脳が拒否して眠くなること」

「笑える」

「ねぇ、ヒマリ。この病院に重罪人がいる隔離病棟があること、知ってる?」

「知らない」

「どういう人がいるんだろうか? ちょっと興味がわかない」

「アオイ……」


 隔離病棟があることはフロアガイドで見たことがある。


「看護師さんに聞いたことがあるけど、行かないでくださいと言われたわ」

「どうして?」

「恐ろしいところらしいの。殺人犯みたいな犯罪者が収監されているからって」

「へええ。調べてみれば、あとで教えて」


 好奇心の強いアオイは軽く言った。


 刑事事件を起こした犯罪者で責任能力がない者が、刑務所の代わりに収監される病棟だと言う。

 興味を持ったが、だからといって行こうと思わなかった。



(つづく)

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