第2話 不眠症に悩む少女と隔離病棟の少年



 一ノ瀬病院は内科や外科も扱うが、精神科や心療内科、脳神経内科が評判の病院であり、うつ病などの精神系の病気からアルツハイマーや認知症などの患者も多い。

 しかし、『隔離病棟』の表記は病院の表看板にはなかった。


 売店へ向かう通路にあるフロアガイドに、『隔離病棟』は、かろうじて読める小文字で掲載されてはいる。

 しかたなく掲載したという見せかけが、その特殊性をよくあらわしていた。


 ヒマリは幼いころから聞き分けがよく、親に忠実ないい子だった。特に母親の意見に逆らえない。また、母も逆らうような言い方をしない。


 ヒマリが「お願いがあるの。いい?」と断りを入れる必要がないほど、彼女の望みは満たされる。


「ママのかわいいヒマリ。姫さまのお願いなら、なんでも聞くわよ。何が欲しいの?」

「ママ、欲しいんじゃないの。この病棟の外を散歩しようと思う」

「周りだけ?」

「ううん、ママ。なんかね、奇妙な病棟があって。隔離病棟って聞いたことがないような」

「そうね、ママもついてくわ。ひとりじゃ心配だから。行くときはママと一緒にね」


 母はダメとは言わない。ただ反対する時は、張り付いたような仮面の笑顔になる。


 専業主婦になる前、母は会社勤めをしていたが、そこでの人付き合いが苦手だったらしい。

 結婚して専業主婦になり、可愛い娘を得たことが最高の幸せだと常々言っている。あまりに強調するので、ときに脅迫に聞こえる。


「うん……、遠くにひとりじゃいかない」

「いい子ね」


 共感性が高く、感受性の強いヒマリは母の言葉裏を汲み取る。

 だから、ひとりで本館から出たとき、近くの庭を散歩するだけだと自分に言い訳した。


 フロアガイドによれば、『隔離病棟』は本館の裏側にあり、地下通路で繋がっているようだ。その通路は関係者しか使えない。


 本館から外に出て、裏側にある脇道を発見したヒマリは、この道が『隔離病棟』につながっていると確信した。

 普段は使っている様子がない。

 雑草が生え放題で、以前に整備された道を侵食している。

 先に進むと、さらに『関係者以外立ち入り禁止』の立て看板があり、縄がはってある。


 しばらく、その場に立っていた。


 その後、なにげない風を装って先へ進んだのは、何かに怯える弱い自分と訣別したいと思ったからかもしれない。あるいは、理由などなく単純に怖いもの見たさだったかもしれない。


 いずれにしろ、普段のヒマリなら決してしないことをした。


『関係者以外立ち入り禁止』の先へと縄をくぐり、藪のような道を進む。

 しばらくして、鉄製の高い格子で仕切られた場所に到達した。


 外部からの侵入を禁止しているのか、あるいは逃亡を防ぐためなのか。頑丈な鉄格子が左右に広がっている。

 その奥に陰気な灰色のビルが見えた。


「あれが……、隔離病棟」


 蔦がからまっているところを見ると、かなり古い建物なのだろう。

 鉄格子に沿って少し歩いたが、入り口が見つからない。

 

 やはり戻ったほうがいいと考えているとき、コソっと音がして、パキッと小枝が折れる音がした。

 心臓の鼓動が早まった。パニックを起こさないように手の甲に爪を立てて悲鳴を抑えた。


(臆病者のヒマリ、なぜ来たかったの。なぜ、ママの言いつけに逆らったりしたの。ううん、わたしはアオイよ、アオイだったら怖がらない)


 パキッとまた音がした。


 音の方角へと顔を向ける。鉄格子の向こう側、木の間に人影が見えた。


 病院のスタッフじゃない。薄青色の病衣姿だから患者だろう。十月を過ぎ、病衣だけでは少し肌寒い季節だ。


 その患者は、けやきの大木に背中をあずけ、膝を立てた姿で地面に腰をおろし、退屈そうに小枝を折っている。

 折った枝を捨てると、両手をだらんと左右に落として、しばらくして、また小枝を拾う。

 数回、それを繰り返してから、動かなくなった。


 まちがいなく隔離病棟の入院患者だと思うが、あれが、凶悪犯なのだろうか?

 そうだとしたら、このように静謐せいひつな態度が可能だろうか……。


 ヒマリにとって、犯罪者とはドラマやアニメで見るような凶悪な容貌の恐ろしい相手である。


 しかし、目の前にいる男は、アオイが好きな言葉『静謐』を体現して凶悪犯とは真逆の存在に見える。


『「静謐せいひつの理想型は、座る猫の中にこそ存在する」byジュール・レイナード、静謐ってのは、そういう特別な言葉なのよ』


 アオイはそう言っていた。『どういう意味?』と聞くと。


『それほど、穏やかで無邪気な平安を意味するってことよ。罪などない無垢なものの存在。それが静謐の定義よ』


(アオイ、その静謐が目の前ですわっている)


 静かでも。

 穏やかでも。

 まして、平穏という言葉でも表せない。


 猫がすわっているような静謐な存在。

 その長く細い骨ばった美しい指が膝のあたりで、かすかに揺れた。


 ここはいるべき場所ではなく、致命的なミスを犯しそうだから逃げよう。

 一歩足を踏み出すと、ガサッと枯葉が大きな音を立ててしまった。


 ヒマリは、「ヒッ」と声をあげ、男を見てしまったし、男のほうも振り返った……。


 まっすぐ突き刺すような視線を受け、火傷したように目を逸らす。

 男が何か言ったわけでもない。


 いや、男じゃない、少年だ。それもとびきり美しい少年。その顔は繊細な線で描かれた絵画のようだ。


 何者なんだろう……。

 凶悪犯を収監する隔離病棟なのに、そんな罪人とは思えない。


 冷や汗が滲む。その場に倒れそうになるのを、なんとか持ちこたえた。


 少年は大きな目を皮肉に歪ませ、こちらを睨んだ。いや、そう感じただけかもしれない。


 視線を外さなきゃいけないと思う。

 しかし、魅入られてしまった。

 美しいのに、人形のように表情がない。ヒマリを認識しているはずだが、一方で認識しているようにも思えない。


 怖い……。

 怖い、怖い、怖い。


 強引に顔を背けて、ぎゅっと目を閉じた。木立ちに手をあて息を整える。ゆっくりと目を開き、前を見定め、それから走った。


 本館に戻ったときは、ほっとして足が萎えた。




(つづく)

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