第3話 不眠症に悩む少女と隔離病棟の少年
翌日の午後、ヒマリは厚手のカーディガンをはおり個室から出た。
スタッフステーションを横切るときには、「売店に行ってきます」と、最高の笑みを浮かべて嘘を言う。そんな卑屈な態度をしてまでと、少し傷つきもした。
昨日と同じように、本館の裏側に向かい、立ち入り禁止の札を過ぎ、例の鉄格子のある隔離病棟へ枯葉を踏みしめて歩く。
あの少年はいるだろうか?
ほっとする理由はわからなかったが、ともかく、ほっとした。
彼は大木にもたれ眠っているかのように体を前に傾斜している。
穏やかな姿形で、いたって普通に見えるが、ここは隔離病棟だ。いきなり豹変して凶暴になったりするのかもしれない。
弛緩した姿は、どこまでも静謐で、時が止まっているかのよう。
鉄格子をつかんだまま、ヒマリは視線を外すことができなくなる。
「ジニく〜ん」という、女性の声がした。
少年はその声を認めて立ち上がり、病衣についた土や枯葉をはらった。その一連の動作は淀みなくつづき、ヒマリは心が痛くなる。
「ジニくん、いる?」
声に向かって彼は歩いていく。立ち上がる姿も、歩き方も、すべてが優雅で完璧だった。
ジニ。
ジニというのだ。ジニ、ジニ……。
それが彼の名前。
ふいに涙がこぼれた。心臓がドキドキして、鼓動が耳に脈打つ。耳たぶが熱い。母がこの姿を見たら心配するだろう。もしかしたら、入院を引き伸ばすかもしれない。
その翌日もヒマリは彼に会いに同じ時刻、同じ場所へと向かった。
三日目には午前中にも病室を抜け出した。母に嘘を言って隔離病棟まで向かったが、その時間はいなかった。
「どうしたの、随分と長く売店に行っていたのね」と、疑うこともせずに母が聞いた。
「うん、寝てばかりじゃ体が鈍るから、階段を歩いたの」
「そう、いいことね」
母が帰り、午後に向かうと彼はいた。たぶん、この時間が彼の自由時間なのだろう。
五日目、いつもの時間に彼はいなかった。がっかりして戻ろうとしたとき、呼びかける声がした。
「話しかけてもいいか」
鉄格子の向こう側、一番近くの木の背後から彼があらわれた。
ヒマリはぎょっとした。
「え、ええ」
鉄格子越しだから安全だとしても恐ろしい。
ゆっくりと後ずさる。
「君に危害を加えない」
彼はそう言った。低く深い声で、聞き間違いだったかもしれない。
彫りが深く、整った美しい顔。近くで見ると、その神々しさが更に増している。ヒマリは息をするのを忘れた。
「あ、あの、息ができない」
「病気なのか」
「だって、病院にいるから」
それから、自分でも驚いたことにヒマリは逃げてしまった。足もとの枯葉を踏み締め、ガサガサと盛大に音をたてて逃げた。
(ああ、なんてバカなことをしてしまったんだろう。もう、ぜったいに会えない)
病室に戻ってから後悔が押し寄せ、泣けてきた。夕食を運んできた看護師が驚いた。
「まあ、どうしたの? ヒマリちゃん、どこか痛いの」
「痛くなくて……、ただ泣きたいだけで。これはあんまりだと思う」
看護師は心優しく穏やかな人だった。食事のトレイを置くと、彼女はベッドに腰を下ろして、ヒマリの背中を静かに叩いた。
「さあ、そんなに泣くと、あとで頭が痛くなるわ。よかったら、理由を教えてちょうだい」
「わたし、大人になりたいって思う。看護師さんのような大人に。どんな時でも泣かずに、人に嫌な思いをさせずに、そんなふうに」
「誰かに酷いことをしたの?」
「うん」
「……あのね、ヒマリちゃん。そういうことは誰でもあるのよ。大人でもよ。ただ、大人になるとね、少しだけ泣かない理由をつけるのがうまくなって、それで、前に進めるの」
「理由?」
「わたしにだって十四歳はあったのよ。驚くかもしれないけど、いきなりオバさんになったわけじゃないから、だから、気持ちがわかるのよ」
大人は同じことを言って、わかったような事を言う。けっして、子どものことなんて理解していないのに。
『それには、理由があるのよ』と、アオイが言っていた。
『ドイツの心理学者によるとね。人には『忘却曲線』ってのがあるって。学習後の二十分後には、記憶したことの四十二パーセントを忘れるらしいわよ。ヤバクない? 一ヶ月後には七十九パーセントを忘れるんだって。だから、大人が子ども時代を覚えていると言っても、それは嘘っぱちよ。せいぜい、記憶したかったことを覚えているにすぎないのよ』
アオイの言うとおりなら、優しい看護師の記憶は甘い夢みたいなものだろう。
「嫌な思いをさせた相手は患者さんかしら?」
「あの」
「学校のお友だちなの?」
隔離病棟の患者と話していると知られてはいけない。そう思うと、気まずくなった。
「うん、そう。ラインでバカなことを書いてしまったの。もう会えない」
「大丈夫よ、ヒマリちゃん。あなたが思っているほど、相手の子は怒ってはいないわ」
「どうして、そう思うの」
「これは大人の知恵よ。他人はね、自分が思うほど、相手のことを気にしてはいないの。自分のことで精一杯よ」
言葉は違うが、アオイと同じことを言っていて、それで少し笑えた。
「大丈夫ね」
「はい」と、嘘をつく。
なんだか疲れたと、ヒマリは思った。
この会話も、隔離病棟の少年のことも、泣いている自分も……。
(つづく)
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