第4話 不眠症に悩む少女と隔離病棟の少年




 なぜ、ジニは隔離病棟にいるのだろう。

 重犯罪って、なにをやったの?

 でも、今は、そこじゃない。母に知られたらと思うと恐ろしい。

 八歳の頃だった。母に無断で目の前にある公園に遊びに行ったことがある。


『ヒマリ!』


 十分ほどか、それほど長い時間ではなかったはずだ。公園の鉄棒にぶら下がっていたら、母が飛んできた。


『ママ』


 眉間にシワを寄せた母の顔は恐ろしく歪み──


 いきなり、頬に平手が飛んだ。


 ヒマリは叩かれたことよりも、優しい母が叩くという事実が衝撃だった。

 バシッという音が響き、痛みより驚きのために泣いた。


『ど、どれだけ心配したと思うの! ひとりは危ないって言ってるでしょ!』


 母の顔は鬼のようで、ヒマリは必死に許しを求め二度としないと誓った。




 ヒマリの秘密は隠すべきことで、けっして母に知られてはならないものだ。今でも八歳のときの、恐怖、悲しみ、痛みを思い出すと震えが走る。


 母に秘密をもつことは……。それが甘美なものであるだけに、罪深く。考えるだけで心臓が不規則に高鳴り、不安に押しつぶされそうになった。


 翌日、それでもヒマリは再び彼に会いに行った。

 欅の下にいたジニは、彼女を認めると手をふり、それから、「近づいてもいいかい?」と、穏やかな声で聞いた。


 三十分ほどの禁断の時間を彼とともに過ごす。たわいもない会話にときめく夢のような時間。

 どうでもいい会話なのに、幸せに満たされた。

 天気のこととか、趣味のこととか。

 ジニとの時間は、なにもかもが夢のようだ。空中に浮かんでいるような気分で、ふわふわした。


「いつも何を読んでいるんだい?」


 ジニが小首を傾げて聞く、その様子。なんでもない言葉がとても重要に思えた。


「病室にある本を片っ端から、読んでる……、アオイって友達が、難しい本を置いておくの。ぜったい読みたくないような、そんな本」

「じゃあ、好きな作品は?」

「詩のような物語」


 鉄格子を隔てて話す少年との幸せ。ヒマリは自分の感情が理解できなかったし理解しようとも思わなかった。

 彼はヒマリを脅かさなかった。

 ひっそりと穏やかに彼女の取り止めのない話を、静かに聞いてくれる。騒々しい同級生たちとはまったく異なる。


「前の私立中学に行けなくなったから。今度は公立の中学に転入するみたい」

「僕も中学には行ってない」

「なぜ」

「いろいろあった」

「そう……。じゃあ、高校は?」

「中学の通信教育を受けてから、それで卒業認定をもらって、高校受験をするつもりだ。たぶん、一学年下になると思うが」

「いくつなの?」

「十四歳だ、誕生日がくれば十五歳になる」

「わたしは十三歳、もうすぐ十四歳。誕生日は十一月二十五日だから」

「僕の誕生日も十一月二十五日だ」

「じゃあ、あなたが生まれた一年後に、わたしが生まれたってこと? それ、ほんとなの。信じられない。嘘じゃないよね」

「どうして嘘だと思う?」

「もし、そうなら。星座占いを信じられなくなる。性格が似てるとは思えないもの。いつも落ち着いて、静かで。わたしみたいに泣いたりしない」


 ジニが楽しそうに笑った。


 彼はそれが癖なのか。話す前に一拍おく。そして、顔を傾けしばらく考えたのち、言葉を選ぶ。思慮深く穏やかで、そんな彼が隔離されている理由がまったくわからなかった。


「どうして、そういうふうなの。いつも静かなのね。どうして?」


 彼は、ふっと笑みを浮かべる。


「なぜかな。そういう事が許されなかったからかな」

「どうして?」

「僕の家は貧しいんだ。中学の給食代を払ったり、体操服を買ったり、そんな金がいつも必要だった。だから、どんなことにも耐えて働くことに慣れたんだよ」


 口にする、その言葉ひとつひとつに重みがあった。


「わたしより一歳上なんだ」

「おじさんみたいに言うなよ」


 そう言って笑みを浮かべるジニは魅力的だった。


「ここにいること。お父さんやお母さんは……、知っているかい?」

「うん、知っている」と、嘘をついた。

「そうか。よかった。いいご両親かい?」

「優しいわ。なんでも聞いてくれるし。いつも心配されている。あなたの両親は?」


 ヒマリが他人のプライバシーを聞くことは珍しい。中学校の仲のよいアオイにも聞いたことがない。

 とくにアオイの両親は離婚していたので、余計に聞けない事情もあった。


「父親は知らない」


 ジニは淡々と答える。


「母は、たぶん横浜にいるだろう」

「会ってないの」

「会えないんだ。ここでは面会を禁止されている」

「知らなかった」

「知らないほうがいい。ともかく、同じ誕生日でも。親はまったく違うってことだよ。母は自分の心配で手いっぱいで、僕にまで気がまわらない」

「なんか、悲しい言葉だけど」

「悲しくはない。そういうものだと思えば怒りもわかないんだよ」


 それは真実の言葉だろうか。

 森の妖精のように美しく、美しすぎて囚われた王子のようなジニ。


「わたし、あなたのことが好きみたい。あ、ちがう、あの、そういう意味じゃなくて、別の」

「別のって、どういう意味かい」

「あ、あの」

「僕は君が好きだよ」


 卒倒しそうなほど驚いた。

 君が好き。

 君が好き。


「ごめん、息ができない」

「そんなで、よくここまで生きてこれたな」


 何か反論しようとしたとき、視線の端に隔離病棟の屋上に立つ人影が見えた。

 まさか、母?

 一瞬そう思った自分に苦笑した。

 

 屋上の人は母より、もっと大柄で病衣を身につけている。たぶん患者だろう。


「ジニ」

「どうした?」

「屋上に人がいる」


 屋上のフェンスには有刺鉄線がはってある。その男は軽々とそれを乗り越え、まるで道路に一歩踏み出すように、空中に足を踏み出した。


 地上に……、重たいものが落ちるドサッという音がした──。




(つづく)

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