第5話 不眠症に悩む少女と隔離病棟の少年




 五階建ての屋上から、頭を下に人が落ちていく。途中で手足をバタバタさせ、恐怖に歪んだ顔まで見える気がした。


「ヒッ!」


 衝撃的な出来事にヒマリは事態を把握できない。確かに、蔦の絡まったビルの屋上から、そこから何かが……、いや、人、人が、……落ちた。


 青い病衣を翻し、落ちていくさまをはっきり見た。

 最初は、なぜかSNSに投稿するための、イタズラ動画作成だと思った。命綱をつけて飛んだ、たちの悪い冗談動画で。


「見るな、ヒマリ」と、ジニが言った。

「ひ、人が落ちた。ヒィッ、ヒイヒイ」


 ジニは背後を見ない。それでも何が起きたか理解しているようだった。鉄格子をきつく握り絞めたヒマリの指を優しく外そうとしている。


「ヒマリ、落ちついて聞くんだ。この隔離病棟には、人間をやめた獣のような者がいる。他人を殺すのも、自分を殺すのも躊躇ないような奴らだ。もともと犯罪者を隔離する場所だ。彼らのほとんどは眠らされているが、目覚めれば自ら命を断とうする者も多い。隔離病棟の先にさらに特殊な部屋があって、そこで臨床実験を行っているという噂もある。非行でつかまった少女たちの更生のための施術というが、胡散臭い。僕の声が聞こえるかい?」

「う、うん、うん」

「さあ、ゆっくり鉄格子から指を外して」


 鉄格子を握りしめる手の血管が浮き出て、白くなっていた。彼に促されて手を外すと痺れて痛む。よほどキツく握ったのだろう。


「さあ、ここから逃げるんだ。見つかると、まずい」

「ジニ」

「さあ、早く」

「あなたは、あなたは大丈夫なの」

「僕の心配をしなくてもいい。こんなことは何でもない」


 ヒマリは、はじめて彼の置かれた状況を理解した。この隔離病棟は普通の人がいる場所じゃない。


「さあ、行け!」


 灰色のビルから、三人ほどの人がてんでに出てきた。


「そこに、誰かいるのか!」と、こちらに向かって一人が叫んだ。


 筋肉質の大柄な男だ。患者ではない。スタッフの制服を着て胸に名札がある。


「ヒマリ、すぐに逃げろ」

「ジ、ジニは」


 警棒のようなものを持って男が雑草をかき分けて走ってくる。無線で誰かを呼んでもいるようだ。


「早く行くんだ。顔を見られたら、騒動に巻き込まれる」

「でも、でも、ジニ」


 ジニはやわらかい笑顔を作った。

 背後から恐ろしく体格のいい男が迫っているのに、まったく無頓着な様子だ。


「行け! 振り返るな」


 その声にビクッとして、ヒマリは走った。ジニは、スタッフの目からヒマリを隠すように鉄格子に立っている。


「なにをやっている! なぜ、抜け出した」

「歩きたくて」

「誰と一緒だったんだ!」

「誰も、ひとりでした」


 看護人は警棒を振りかざしながら、彼の膝裏を叩いて、その場に足を折らせた。


「面倒かけやがって」


 ヒマリは走った。恐ろしさに震えながら、その場から逃げた。


 表の病院に戻ると、そこはいつもの平穏な世界で……。

 屋上から人が落ちたのに、こちらの世界にはなんの兆候もない。


 息を切らして、ヒマリは入り口の自動ドアの前に立った。


 ドアが開く。心ここにあらずで中に入った。視界が狭まり、ぼーっとする。


 玄関口の右側には待合スペースがあり、通院の人びとが診察の順番を待ちすわっているし、左側は、いつも通り入院患者のためのエレベータがある。

 いつもの風景、いつもの日常が、そこにあるにもかかわらず、どこか非現実的に感じた。


 倒れそうになりながら、ヒマリはエレベータに乗った。自室の階で降り、スタッフステーションの前を通りすぎる。


「ヒマリちゃん。大丈夫、顔が真っ青よ。なにかあったの?」


 顔馴染みの看護師が声をかけてきた。


「な、なんでも……、あの」

「待って、ヒマリちゃん。震えているの?」


 看護師は通路に出てくると、ヒマリの肩を優しく抱いた。その瞬間、屋上から飛び降りた男が映像として蘇った。


 ヒマリとジニの世界、それは天と地ほど違う。

 あそこは地獄だ。


「どうしたの? ヒマリちゃん、お部屋に戻って、先生の診察を受けましょうね。なにか怖いことにあったのね」

「怖いこと? な、なにも」


 人がビルから飛び降りた。ドサっという音が耳奥で繰り返される。ヒマリは、その場で意識を失った。



 ──



 担当医の天羽あもう先生がいるが、言葉が喉につかえて声がでない。


「どうかね。気分は?」

「……」

「なにか、よほどショックを受けたようだ。今日は薬を処方しておきましょう。何があったのかな? わからないの? そうか……。実は前から考えてはいたんだが、新しい治療方法を試す機会かもしれない。ご両親にもお話しするが。ともかく、今は眠りなさい。それが一番だ」


 ヒマリは誰の声も聞こえなかった。医師の処方した睡眠薬を従順に口に含み、気絶するように眠った。


 夜中に、叫び声をあげて目覚めると母がいた。


「ヒマリ、ヒマリ、大丈夫よ。ママがついてるから」

「ママ」

「さあ眠りなさい。先生とお話したのよ。あたらしい療法を試せば、きっと良くなるって。心配しないで、ママはここにいるから」


 再び、ヒマリはベッドに横になった。

 つきそい用の簡易ベッドで母がイビキをかきはじめても、ヒマリは眠れなかった。また、あの辛い不眠症がぶり返した。


 夜は長い……。

 カーテンを開くと月が見えた。




(つづく)

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