第6話 不眠症に悩む少女と隔離病棟の少年
翌朝、ヒマリは母に起こされた。
眠りが浅く恐ろしい夢ばかりを見て、眠った気がしない。頭に霞がかかったようだ。
カーテン越しに明るい陽差しがもれ、目に刺さる。嫌がらせかと思ってしまう。
ベッド脇には、母と看護師、それから担当の
「おはよう、ヒマリちゃん。気分はどうかな」
「あの……」
言葉につまってベッドのシーツを見た。
「昨日は何かあったのかな。突然に気を失うような」
「い、いえ。なにも」
「ヒマリちゃんは『いえ』と返事しながら、お母さんの服をつかんで隠れようとしているね。いや、気にすることはない」
ヒマリは母のブラウスからそっと手を離した。
天羽医師は椅子をベッド近くに移動して、ざっくばらんな様子で腰をおろした。
「今日は、不安を克服する療法を試そうと思っているのだがね。まずは人の脳について話したい。さて、人は嫌な記憶ほど、よく覚えていると思わないかね? 過去に、いいことも沢山あったはずだが、悪い記憶のほうが鮮明だ。それが、なぜかわかるかな?」
「わかりません……」
「脳ってのは興味深い機能があってね、無意識の領域では時間を認識していない。この言い方で大丈夫かな。まだ中学生だが、君は賢いから理解できると思って話すよ」
「はい」
「脳は衝撃を受けた感情こそ優先して記憶してしまうものだ。おそらく、太古から危険な場所で生き延びてきた人類にとって、危機管理ほど重要なものはなかっただろう。危険や恐怖の体験ほど脳は深く記憶する。結果として、それが遠い過去のことであろうと、脳は時間の認識をしないので、人は悪夢として苦しめられることになる」
なんとなくだが、母と同じような方法で説得されているような気がした。
「そうした脳の機能、つまり君の感情を改善できるように、最新の催眠療法を施術しようと考えている。悪い記憶を消すことはできないが。悪い記憶を良い記憶に置き換えて、トラウマにならないようにはできる。ヒマリちゃんが抱える恐怖をリセットして、幸福な思いにすり替えるという処置なんだが。ここまではわかったかな」
「は、はい、先生」
「ヒマリちゃんのようにセンシティブな性質では、この世はあまりに生きづらい。精神安定剤を飲み過ぎるのも副作用が怖いよね。だから、薬を飲まずに普通に生活できる方法を試してみようね」
ヒマリは確認するように母をみた。母が笑みを浮かべてうなずいている。
「じゃあ、これからはじめようか」
「ママ」
「大丈夫よ、ヒマリ。先生にお任せしてね」
母は単純で権威者の意見を鵜呑みにするところがある。ヒマリ同様に世間知らずで、同じようなトラウマを抱えていた。
「では、一時間後に施術室で会おうね。怖くはないからね」
「はい……」
きっちり一時間後、迎えにきた看護師とともに、天羽の施術室に向かった。そこは常の無機質な診察室とは違い、一流ホテルのようなインテリアだった。
観葉植物が置かれ、中心に大きめの椅子がある。歯医者などにある可動式の椅子で、その手前にはソファが設置されていた。
「さあ、その椅子にすわってごらん」
ヒマリがすわると、椅子の上部がゆっくりと背後に下がっていく。
「怖いかい」
「あの、ちょっと」
「心配はいらない。痛みはまったくない。眠っているうちに終わる。まずは、催眠術によって、君の心を探る。その上で、ネックになっている記憶を書き換えるという新しい心療でね。『デジタル催眠療法』といっているのだが」
話の途中、例の人が建物から落ちていく姿が思い浮かび、「ヒッ!」と小さく叫んだ。
「今から、この電極を頭部につけるからね。君の脳をチェックしながら、電気的な脳活動を観察していくんだが、簡単に言えば脳波測定のようなものだ。催眠療法と同時に脳へデジタル的に働きかけていくんだよ。より効果が高い治療方法だ。ああ、お母さんは外でお待ちください」
「ママ」
「先生の言うことを聞いてね。ヒマリ、外で待っているから」
看護師がヒマリの額にクリームみたいな液体を塗るとき、ヒヤッとした。髪の間、頭頂部、それから、脳のさまざまな部位に電極を取り付けていく。
「まずは、この特別なお茶で飲んでごらん、リラックスできる。一本だけ注射を打つよ、チクっとするけど、それ一回だけだからね」
看護師が注射を打つと、すぐに、お茶を用意してくれた。カップには変わった味の飲み物が入っていた。
「あの、これは」
「ハーブティーだ。気ままにお茶会に来た、『不思議の国のアリス』みたいな気持ちでリラックスして」
「はい」
「ヒマリちゃんはウサギは好きかな。ほら、『不思議の国のアリス』では、ウサギが大きな懐中時計を持っているね。カッチカッチカッチと時を鳴らす。ほら、この時計だよ。じっと見て集中してごらん。気持ちを楽にね」
急速に眠くなっていく。
「脳内で情報伝達を担っている器官をシナプスと呼ぶんだ」とか、「それはコンピュータがデジタル信号によって情報を処理しているのと似ている」とか、「記憶がエングラムという脳細胞グループにある」とか。
そんな会話が子守り歌のように聞こえた。
いつの間にか、その声さえも消えていく。
「では、はじめようか」
天羽は顔に張り付いていた笑みを消し、研究者の顔になった。
電極に電気が流れると、ヒマリの体はボンと跳ね上がり、それから小刻みに震えはじめた。
「ちょっと反応が大きいですね、先生。大丈夫でしょうか」
「いや、この程度なら想定範囲内だ。さあ、ヒマリちゃん、僕の声が聞こえるかな。聞こえたら、一番、新しい記憶から思い出してみよう。そして、徐々に深く潜るよ」
「……だめ、ジニ、ジニ」
「ジニ? ヒマリちゃん。ジニって誰なの?」
「ううん、……、隔離、びょうとう、の、ジニ」
「困ったお嬢さんだな。隔離病棟に入ったようだ。その記憶は覚えていないほうがいい……」
パンッという音が聞こえ、はっとして目が覚めた。
「あれ、わたし、あの、わたし」
「どうだい。気分が楽になっていないかな」
「胸の奥の、なんかシコリみたいなものが消えた気がします」
「そうか、成功したね。明日も、同じ時間に、また試してみようね」
奇妙に爽快な気分だった。
なにか大切なことを忘れてしまったような気がしたが、これまで胸の奥に重く沈んだ重石が消えた。
「わたし、どうなったんだろう」
施術室の通路に母はいなかった。別れたばかりなのに、なぜいないんだろう。一緒についてきた看護師がヒマリの背中に触れた。
「ヒマリちゃん。個室に戻りましょう」
「ママは?」
「もう、お帰りになりましたよ」
母が先に帰ったなんて、珍しいこともあると思ったが、不安はなかった。個室に戻ると、すでに午後になっていたのだ。
朝九時に施術室に行ったので、ゆうに三時間は過ぎて驚いた。
その翌日も、デジタル催眠療法は続いた。
ヒマリは外出することに恐れを抱かなくなった。
なぜ、あれほど怖かったのか、自分でも信じられない。
最後の日。
天羽医師は、さまざまな心理チェックを行い、「もう、大丈夫だね」と言ってから不思議な質問をした。
「ところで、ジニって男の子を知っているかな?」
「ジニ? アラジンの魔法使いのジーニーですか?」
「いや、いいんだ。もう大丈夫だ。今度、お母さんと退院の日を決めようね」
心が軽い。
これまで些細なことで悩んでいたことがバカみたい思える。まだ、ちょっと人見知りはするけれど、だからといって大勢の人がいる場所も恐怖じゃない。
世界は普通で、けっして、手の込んだ幽霊屋敷じゃないと思った。
ジニ?
……
………
誰だろう……
なにかとても大切な記憶を忘れてしまったような気がした。
(つづく)
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