第3章

第1話 転校生とヒマリの秘密





 空に重く暗い雲がたちこめている。

 雨になりそうだと、ヒマリは漠然と思った。


 教室に視線を戻すと……、クロブチが湖に投げた石の波紋を観察するような態度で、腕を組んでクラスの様子を眺めている。

 沓鵞くつわし路二じにの登場で、女子は息を吸うのを忘れ、男子さえも言葉を失った。


 ひとりヒマリだけは別の意味で驚き、ごくりと唾をのみこんだ。


 知らない男のはずなのに、どこか懐かしい。

 ジニのような目立つ男を忘れるはずはない。の誰かに似ているのだろうか?


 スラリと背が高く均整の取れた体型で、クラスで一番背の高い一ノ瀬くらいの身長がありそうだ。


 頬が少し痩け眉が濃いところは男っぽいが、それを繊細なフェイスラインが裏切っている。ひとことで言えば、とてつもなくイケメンだ。


 こめかみがズキズキ痛んだ。出会ったことがないのに、知っているようで、考えはじめると頭が痛くなる。


沓鵞路二くつわしじにです」


 その声は前より深い低音で完全に声変わりしていた。


(え? 前よりって、なに?)


 ジニ……。


 ──ジニ? 魔法のランプのジーニーですか?


 一ノ瀬病院で天羽医師に聞かれた名前が浮かんだ。


 なにか、ぜったいに忘れてはいけないことがあったような。もどかしい気持ちで、みぞおち辺りがもぞもぞする。


 無意識のうちに一粒の涙がこぼれて、ポトンと下に落ちた。

 クラスの誰もが転校生に視線をうばわれ、ヒマリの涙に気がつかない。涙が制服のスカートに黒いシミを作る。


 背後から、ナギが背中を突いているが返事ができなかった。


「ねぇ、ねぇ、ヒマリ。何気に、ディスるとこなくね?」

「う、うん」


 唇を噛み感情を抑え、こっそりとティッシュで目を拭った。その姿をジニの目がまっすぐに捉えている。


「先生、席は好きな場所でいいですか」

「え、ええ。そうね。空いてる席に」


 一人だけ俯いていたので、ジニが隣りに来るまで気づかなかった。隣席にすわる野崎純平の声がした。


「な、なんだよ」

「ここ、変わってもらってもいいかな」


 教室に風が流れていく。

 風は、彼がかもしだす異様な雰囲気から吹いていた。


 ジニは野崎純平を強引に移動させて、まるで当然のように、ヒマリの隣りに腰を下ろした。


「こんにちは」と、彼が言った。


 ひさしぶりだねというように目が笑っている。穏やかで魅力的で、心臓が壊れそうだ。

 この男、ほんとヤバイ。

 こんな現実味のない男が、なぜ、自分に声をかけるんだろうか。

 神経症的な発作が起きそうなほど両手が震えたので、思わず拳をきつく握った。


 教室のざわめきは続いた。


「じゃあ、朝読書を十分間、はじめます」


 朝読後、クロブチと入れ替わった古典教師の授業がはじまった。『古典B』の授業は、どこか遠い惑星での出来事のようで、ヒマリには現実味がなかった。

 クラス全体も、ざわめきが収まらないず、どこか上の空だ。

 転校生に教科書を見せるべきかどうか迷った末に、黙ったまま机の境界線に教科書を押した。


「ど、どうぞ」

「ありがとう」


 ジニは教科書を見るために、体を斜めに傾けてくる。肩が近づき彼の体温を感じた。


「ここから、今、ここまで進んでいるの」


 動詞の活用法について説明している箇所を示すと、彼の美しく長い指が教科書の端をおさえた。


 なんて美しい手だろうか。


 ちらっと彼がヒマリを見て、何もいわずに視線を戻し、ノートに黒板の文字を書き写していく。


 一限目の授業は永遠に終わらず、ヒマリの動悸は激しくなり、血圧は限界値まであがった。


「知らぬ、知りぬ。この違いは、助動詞『ぬ』の活用の違いにあります」と、教師が説明している。


 県立高校の授業は文部科学省の要項によって進められる。

 しかし、難関大学に受験する生徒のほとんどは塾に通い、一年先の勉強を済ませている。でなければ、私立進学校の生徒たちに追いつかない。

 助動詞の活用など、ほとんどの生徒がすでに学習を終わっている箇所だ。


 だからこそ、古典の教師は毎回、同じような軽いジャブを飛ばす。


「なあ、おまえたち、そんな退屈そうな顔で聞くなよ。こういう基礎ってのがあってこそなんだ。それをすっ飛ばして難関問題もわからんだろう。たとえ、ここ知っていたとしても、先生に敬意を抱いて聞け!」

「は〜い、先生」


 誰かが答え、教室は転校生から授業へと興味が切りかわる。


 生徒たちはみな個人的な勉強。つまり、目立たぬように内職をしはじめる。


 それに文句をいうほど、古典教師に情熱はなかった。

 昨年も一昨年も同じように、この時期、教えてきた『枕草子』から文法解説をしている。


 ヒマリは授業にも内職にも集中できなくなった。そんなことは宇宙の先に浮かぶ他惑星での出来事で。


 いま大事なのはジニの白いワイシャツの皺と、その先にある繊細な長く大きな手だけ。その手に触れてみたいと思う強烈な欲望だけ。

 初対面の人に、なぜ?

 ヒマリには彼の存在そのものが衝撃だ。そして、他の生徒は、なぜ転校生がヒマリの隣りに強引にすわったのか、そちらの方が衝撃だった。




(つづく)

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