第5話 ヒマリとジニと元警察官僚と



 母が亡くなったのに涙を見せない。その上、『あの人』としか呼ばない。こんな態度を永添のような人間は嫌うだろう。

 人ごとのようにジニは思った。

 警察病院から外に出ると、永添が、『自殺とは思えんな』と言って、ジニを見た。


 自殺とは思えんな。

 自殺とは思えんな……。


 その言葉が文字になって目の前に浮かんでいるような気がする。


 ポツポツと雨が降りはじめ、雨煙に周囲がかすんだ。

 期待してはいけないと思いながら、それでも期待してしまう。


(どうせ、裏切られる。この元警官だってそうだろう。味方ヅラする奴らばかりだ)


『こう言っては君にすまないが、お母さんは裏ぶれた酒場で働き、立ちんぼで客も取っていたそうじゃ。借金も多い。痩せこけた体から食うにも困っていたんだろう。自殺してもおかしくない状況ではあった』

『……』

『ご遺体を検分すると索痕がかすかだが斜め上に走っていた。鼻や耳から出血した跡が残っている。舌骨折もない。顔色、浮腫。これらは他殺である可能性を示してはいるがな』

『でも、調査官は自殺と明言していた』

『それを信じるかね』

『怖がりのあの人が縊死なんて苦しい方法を選ぶとは思えない』

『そうか。では、これから一緒に調べよう』


 思いがけない言葉に、ジニは目を丸くして彼を見つめた。


『わからなかったのかね。これでも、元警官じゃよ。いっしょに調べよう』


 それから、永添は、『ま、せいぜい自慢をしておくかな。自分を甘やかすのは得意でな』といって、過去の経歴を嬉しそうに伝えた。


『ワシはな、警察官僚として本庁でキャリアをスタートしたエリートだよ。落ちこぼれとも言えるがな』


 彼は四十年の現職時代、現場主義を貫いた。出向先の神奈川県警から本庁への転勤命令に逆らい、けっして戻らなかったというユニークな経歴を滔々と述べた。


『さて、君は今回のことをどう考えるかね』

『少年法や刑法から、僕の処遇が非常に異例だったと知りました』

『いいぞ、少年。それで』

『母がやらかしたに違いない。それが何かわかりませんが。ただ、僕の出生にからんでいるのは間違いないと思っています』


 永添は何も答えなかった。ただ、眉間に深くシワを寄せた。


『あの夜、僕はよく理解できてなかった。後頭部を殴られたと思い込んでいたけど、正確には最初に頭を殴られ、ふらふらしたところを力任せに壁に打ち付けられた。それで気を失った。あとで取り調べ室で壁に血がついていると言われ、はじめて、それに気づいた。バカでした』

『自分を責める必要はない。とっさのことを完璧に記憶することはできないものじゃ。自分で思った事実と、実際の出来事が違うケースはよくあるんだよ。人の記憶は不確かなもんだ。ここでの重要事項は、相手が喧嘩慣れした者だということだ。君は中学生ではあったが、背は高い。当時でも百七十センチはあっただろう。その君を、こう』


 そう言って彼はジニの頭部を持ち、壁にぶつける仕草をした。


『こうして、失神するほど壁に叩きつけるには、それに慣れた者でないとな』


 話しながら永添は彼のボロ車に案内した。鍵を開けて、『さあ、乗って』と言う。来る時も、外出許可証を持って一ノ瀬病院に迎えに来てくれた。


『なぜ、僕を助けてくれるんですか? なんの意図があるんですか?』

『今、それを聞くかね。馬鹿げた質問をせんでええわ。こんないい人が世の中にはいて、助けようとしてくれると、ま、そう思いたまえ。あんたの年齢なら、もっとピュアでいいんじゃよ。この男にもなにか事情があるなんて、捻くれた見方をせんでええぞ』

『あるんですか?』

『バカか。あるに決まっておるわ』


 永添は痩せた小柄な男で、古いセダンの運転席におさまると、体が車内に沈んだように見えた。


『僕は女性を襲ってはいない。でも、誰も信じてくれなかった』

『ワシはもう警官ではない。だから、まず君を信じることからはじめようかな。ええか、これは大変なこっちゃぞ。警官ってのは疑うことが仕事だ』


 永添は、鼻をすすりながら続けた。


『そんな驚かんでもええんじゃ。ずっと辛い思いを抱えてきたんだろう。だがね、世の中、捨てたもんじゃない。例えば、ワシが会いに来とるのも、その一つだ。あんたは孤立無縁じゃない』

『なぜ』

『なぜってか? 寂しい言い方をするなぁ。まあ、あながち君の疑いも間違ってはおらん。ワシにはワシの現役時代からの思惑がある。唯一、ワシの取り逃がした案件だ。一ノ瀬克ノ介、首を洗って待っとれと思うとる。だから、持ちつ持たれつって訳だ。こっちの方が信頼できるじゃろう。ちがうか?』

『そのほうが、わかりやすいです』

『じゃあ、まずは、あんたは病院から出るのが先決だ。なにがあろうと、過去は変えられん。過去に縛られるな。今を生きるんだ。それはできるな』


 ジニは隔離病棟を出所したのち、ひとまず祖母の家で過ごした。

 最初に入った高校を自主退学したのは、追い出されたように見えたが、実際は辻ヶ丘高校に編入したかったからだ。


 無事、難関高校である辻ヶ丘の編入試験に合格して、永添が経営する民宿に働きながら寄宿することになった。


『第一歩が始まったな』

『ああ、ジッサマ』

『これから反撃じゃ』

『僕が陥れられた三年前は、ちょうど県議会選挙の年だった。一ノ瀬克ノ介いちのせかつのすけにとってスキャンダルは避けたい時期だった。ともかく奴が確かに父かどうか確認する必要がある。DNA検査のための生体を必ず取得してきます』

『ああ、うまくやれ』


 ジニは、ずっと一ノ瀬家に潜り込むチャンスを狙っていた。

 頼友のパーティの話は、まさにその千載一遇の機会で、ジニがヒマリを自転車に強引に乗せたのは、そのためもあった。ヒマリがいれば、頼友は断れないからだ。


 眼前のパーティは華やかに続いている。目標の一ノ瀬はその中心で車椅子に乗っていた。

 ジニは頬を叩いた。

 招待客は百人ほどか。

 こっそりと動画で撮影しながら出席者の顔ぶれを記録した。


 午後七時を過ぎた頃、見知らぬ女性がケーキを持ち、ひとりの青年のもとに向かう。

 一ノ瀬頼友と似ているが、顔つきが穏やかだ。

 彼が兄の一ノ瀬克友だろう。メガネをかけた白いワイシャツ姿の男は、いかにも知的でスマートな青年だった。

 庭に設置された照明や室内の電灯が消されると、庭が暗がりに沈んだ。三十本近くありそうなケーキのロウソクに火がつけられた。

 暗闇の乗じてジニはそっと車椅子に近づく。


「ハッピーバースデー、トゥ、ユー」 


 誕生日を祝い、誰もが合唱する。歌が終わると、誰かが「メイク ア ウイッシュ」と叫んだ。

 ジニは、そっと車椅子に近づく。


 ──まだ、まだだ。堪えろ。


 青年は願いを込めて、ロウソクの火を吹き消す。

 その瞬間、クラッカーの音が鳴り響き、拍手にわいた。


 ──今だ!


 ジニは、車椅子の老人に近づき、騒ぎのなか髪をむしった。


「う!」と、老人は驚いた。


 すぐに庭のライトアップが戻った。

 老人にしては、彼はすばやい動作で周囲を見たが、その時にはすでにジニは消えていた。


 このパーティに来た目的は終わった。

 本来なら近づくことも容易ではない彼と接触できる機会で、頼友に誘われてなくても理由をつけて忍び込むつもりだったが、偶然にもうまい理由ができた。


 数本の髪をティッシュペーパーに包み、ポケットに隠し、何食わぬ顔で彼はリビングルームに入った。


「なんだよ、おまえ」と、頼友は不満をあらわした。

「別に」


 ジニはヒマリの横に腰を下ろすと、「疲れてないか?」と聞いた。

 彼女の頬が赤く染まった。



(つづく)

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