第4話 ヒマリとジニと元警察官僚と




 ガーデンライトが照らす華やかなパーティは、薄暗い闇を背景に鮮やかな色彩が散りばめられる。まるで印象派画家ドガの絵ように見えた。

 隔離病棟に入院していたころ、ジニにはたっぷりと時間があった。むしろ時間しかなかったかもしれない。

 スマホもテレビもない場所で、ジニは法関連の本を読んだり美術書を見たりして時を潰した。華やかさに暗い影が存在するドガの絵は、この一ノ瀬家のパーティに似ている。

 悲劇の欠片もない世界に闇を感じる。


 パーティの集団から少し離れた場所を歩きながら、ジニは哀れな母を思い出した……。

 普通の子どもが母親に抱くような愛情があったわけではない。

 どうしようもない人間だと思っていた。

 もし自分で親を選べるなら、ぜったいに避けたい。顔が美しいだけの心の弱い女。弱いだけでなく、自堕落で見栄っ張りで、非現実的な夢ばかり追っていた。


 ガーデンパーティでは車椅子にすわる男が中心におり、その背後に品良く笑顔を浮かべた四十代過ぎの女が控えていた。あの女性は一ノ瀬憙津子いちのせよつこ、頼友の母親だ。もしかしたら、ああした姿に憧れ、それをつかもうと母は手を伸ばしたのかもしれない。

 

 哀れな母の訃報を聞いたのは、三年ほど前で、まだ隔離病棟にいたころだ。

 あの日は、今日のように月の見える美しい夜ではなく、雨が降っていた。


 当時、顔馴染みの看護師が伝えた言葉に、彼はなんの感慨も感情も覚えなかった。


『ジニくん、辛い知らせなんだけど。ちょっと来てもらえるかしら』と、彼女は言った。


 ジニは、ぼんやりした視線で看護師を見つめ、自由室の椅子から立ち上がった。彼女について面談室に入る。


 そこには家庭裁判所で最初に会った調査官が待っていた。


 彼は母親の自殺について告げると、これで面倒なことは終わったとばかり、そそくさと帰った。早く重荷を外したかったのだろう。

 調査官が帰っていくと、入れ替わりに看護師が戻ってきた。


『大丈夫だった? それで、あなたのことですが、状態も改善したことで、少し早いですが退院手続きをすることになったのよ』

『……』

『これは、強制ではなくて、相談ですけどね……。警察病院に、ご遺体が安置されています。言いにくいことですけど、どうもお母さまはご親戚と犬猿の仲のようで、親族の方達は関係ないとの一点張りだそうで。身元確認の依頼を拒絶されたらしいのよ。ジニくんはどうします?』


 訥々とつとつと話す態度は三文芝居の登場人物が、あらかじめあった筋書きを告げているようだった。

 ジニは無表情のまま静かに顔をあげた。

 外国人を見るような、いったい何語かというような、いぶかしげな表情を浮かべた。


『退院が先ですか? 母の身元確認が先ですか?』

『ああ、そうよね。気になるわね。警察もいそいでいるらしく。だから、身元確認をしてもらって、同時にこちらでは仮退所の手続きをするという形で、どうでしょう。実は一緒に警察に行ってもらう保護司の方が見えているです』


 その時、見計らったかのように、ドアがノックされた。


『どうぞ』


 ドアを開けて老人が入ってきた。彼はジニを見ると、頬を緩めて『保護司の永添ながぞえだ』と名乗った。

 これが、後に世話になる保護司永添十紀夫ながぞえときおとの最初の出会いだった。


『君の婆さんとはね、同郷の知り合いでもあってね。君が退院した後、法的に保護司が必要になる。ワシがなろうと思っておるんじゃ。拒絶は受け付けんよ』と、彼は言ったものだ。


 ジニにはなんの感想もなかった。


『さて、ワシのことを少し自慢しておくよ』


 そう笑った永添十紀夫ながぞえときおは、自分が警察を定年退職後、小さな民宿を経営するかたわら、保護司のボランティアをしていると語った。


 当時のジニは知らなかったが、彼はエリート警官として将来を嘱望された男だったが、自らの信念から現場主義を貫いた変わり者だった。

 現役時代には、神奈川県警の捜査二課に所属して、一ノ瀬克ノ介いちのせかつのすけの闇を追って解明できないまま引退した過去がある。


 その永添に付き添われ、警察病院を訪れたのは翌日だ。


 警察病院の遺体安置室は、なんの飾り気もない殺風景な場所で、線香の匂いがきついことだけが印象に残った。

 白いシーツに覆われた遺体の前で、手を合わせた担当官は、『では、ご確認ください』と言った。


 顔部分のシーツが捲られた。


 母だった。

 もしかしたら人違いかもしれないと思ったが、間違いなく母で、一年ぶりにみる顔は、以前より、さらに痩せていた。

 かつて美貌を誇った顔は見る影もない。

 空気を吸おうとして、必死で大きく口をあけたのだろう。鼻と耳から出血したような赤黒い血のあとが残っている。

 顔は暗紫色に変色して、まぶたの周辺に浮腫ができていた。

 突き出した舌が硬直して、並行した縄の跡が首もとに残っている。


『ジニくん、ご遺体をちょっと調べたいことがあるんじゃが、部屋を出てくれんかね』


 付き添ってきた永添十紀夫ながぞえときおは、そう言った。


『僕も残ります』

『そうか。では、いいかな。何を見ても忘れるんじゃよ』

『大丈夫です』


 それから、彼は担当官に向かった。


『全身を見せてくれんかね』

『いや、その必要がありますかね』と、担当官が渋い声をあげた。

『君、所属と名前は? とっととシーツをめくりたまえ』


 バサっと音がして、シーツがめくられ全身が露わになった。

 その体は骸骨のように痩せており、あばら骨が浮き出ている。腹部に殴られたような大きなアザがあった。


 ジニの表情は変わらない。グッと奥歯をかみしめ痛みを隠す姿を、これまでも気づいた者はいない。


『あの、アザは?』

『自殺時に暴れて、何かにぶつかったという所見です。さあ、もういいですか。確かに、君の母親で沓鵞くつわし栄子さんで間違いないですね』

『間違いありません』


 永添十紀夫ながぞえときおが母の全身をスマホで撮影していることに気づいた担当官が、あわててシーツをかけた。


『すみませんが、そういうことは止めてもらえませんか』

『遺族が最後の顔を覚えていたいと、そう望んでおる。そうだろう、君』と、永添はジニに同意するようにと目で合図してきた。


『頼みました』

『困りますよ。事前に許可を得てください』

『何が困るんじゃ。いずれ、遺体は引き取るんだから、同じことだろう』


 苦虫を噛み潰したような担当官に送られ安置所から出た。

 その後のさまざまな手続きに永添ながぞえは詳しかった。ほとんど彼に任せて、警察病院を後にした。

 昨日の雨がまだ残っているのか。

 ときどき、弱い雨粒が空から落ちてくる。


『ジニくん。これからじゃよ』

『どういう意味ですか』

『今日は泣いてもいいんだ』

永添ながぞえさん、あの人と会うのは一年ぶりで、その前だって滅多に会ったことがない』

『自分の母親を、あの人などと呼んじゃあ、あかんよ。気持ちはわかるが、それでは君の心が汚れてしまう』


 返事はなかった。表情も変えない顔に、老いた元警察官は、ため息をもらした。


『わたしは長いこと警察に勤めておってな。検視は何度もした。だから言うが、自殺というには疑わしい点がある。浮腫、顔色、耳や鼻に残った血液痕、首の索痕。これら全てが偽装した自殺痕に出るものでね。残念だと思うが、それを伝えるべき相手が君しかいないんじゃ。一ノ瀬病院を退所したら話をしよう。教えておきたいことがある』


 それから、永添ながぞえは彼の肩を優しく愛しむように叩いた。

 ジニは他人に触れられることを嫌う。それでも、あえて、彼は肩を叩かれるままにした。その理由は自分でもわからなかった。



(つづく)

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