第3話 ヒマリとジニと元警察官僚と
湘南海岸沿いの国道を走り、途中で坂を登った先に一ノ瀬が住む立派な門構えの邸宅がある。
長男である克友の誕生日を祝うこの日は、普段は閉じている正門の門扉が大きく開かれていた。
はっぴ姿の使用人が立つ正門で、ジニはキキキッと錆びついた音をさせて自転車を停車させる。
「降りれるか?」
そうヒマリに聞いたほぼ同時くらいに、頼友が門から飛び出してきた。
彼はジニの腰に手をまわしたままのヒマリを、抱きかかえるようにして自転車から下ろす。
折れそうなほど細い体つきのヒマリは、がっしりした頼友と並ぶと子どものように見えた。
幼馴染が心配でならないという様子だが、ヒマリを好きなのは明らかで、ジニに反感を持っているにちがいない。
面倒なやつだとジニは思った。
「頼くん、ひとりで大丈夫だから」
「ヒマリ、無茶するなよ、体が弱いんだから。おい、君、強引じゃないか。こんなことは二度とするなよ」
ジニは何も言わない。無表情のまま聞き流している。
「来いよ、ヒマリ」
「待って、頼くん、ちょっと待って……。あの、自転車に乗せてくれて、ありがとう」
「ああ」
強引にヒマリの腕を引っぱり、頼友は門内へ入っていく。可能なら、ジニの目前で門扉を閉じたかったろう。
ジニは軽くため息をつき、自転車を塀ぎわに停車しようとすると、「自転車は、あちらの小道を入ったところにお願いします」と、使用人が指示した。
去っていくふたりの姿を横目にジニは自転車を引いた。そのうしろ姿を、ちらりとヒマリが振り返ったことに、彼は気づいていない。
ジニは頼友に抵抗せずについていったヒマリの態度に傷ついた。
こうした些細なすれ違いは、人付き合いで起きがちだ。むしろ、起きないほうが不自然なのだが──
明るい邸内から、楽しそうな笑い声が聞こえる。
その喧騒が近くにあるからこそ、疎外感を感じる……、ジニは今も昔も、常にひとりだと強く感じた。
駐輪スペースは、漆喰の
自転車を指定された場所に置いて邸内に入る。
『←誕生祭はこちら』という案内板に従い表玄関から左の庭園に続く小道に入る。
人のざわめきが大きくなってくる。
屋敷の角を曲がると、薔薇の蔓が絡まったアーチがあり、広い芝生の庭が宵闇のライトアップに映えていた。
立食パーティなのだろう、多くの人びとが庭で談笑している。
華やかに正装した男女の様子に、こういう場がはじめてのジニは気後れを感じた。
周囲を見渡して、ヒマリたちを探したが見つからない。
大人の世界に、高校生は場違いかもしれない。と、その時、黒いドレスをまとったモデルのような女性が視線にはいった。
クロブチだった。
体の線に沿った長袖のドレスは背中が大きく開き、スカートのサイドのスリットから形よく引き締まった足がのぞく。ストッキングをつけてない太ももは筋肉質で、まるでアスリートのように鍛えられている。
ジニに気づいたクロブチが、話していた相手に断りを入れ、ワイン片手に近づいてきた。
「先生」
「おや、ジニくん、来たの」
「先生がここにいる理由はなんですか?」
「ふーん、ジニ。あんたにしては口数が多いのね。その上、主語述語がしっかりしている」
少し酒に酔っているような抑揚のある声で、ほのかにアルコールの臭いがする。
クロブチはにやりと笑った。いつもの唇を少し曲げるだけの笑顔で、実際に笑っているわけではない。
黒いロングドレスのクロブチは、高校教師とは思えないオーラを放っている。
モデル業界の関係者なんて聞いても、なるほどと納得できそうだ。
「一ノ瀬くんの担任として来てるのよ」
「……」
「あら、説明としてはありきたり過ぎて退屈よね。つまんないから、じゃあ、こういうのはどう? 一ノ瀬頼友の母親は、わたしの母でもあるのよ。父親が違うけど……。昔、母が若い男と不倫してできた隠し子が、かくゆう、わ・た・し」
小洒落た嘘っぽい言い方だった。
クロブチは酔いに任せて、ジニをからかっているのだろうか。急に吹き出すと、顔をのけ反らして笑った。
ジニは肩をすくめた。
「先生」
「驚愕って文字が顔にでて欲しいわね、
「からかわないで下さい」
「おやおや、非行少年。つまんないのね、のってくれないと。さあ、ほら、対角線上にいる人物が見えるでしょう。話題の中心になっている、あれが頼友の祖父。その背後で愛想を振り撒いてるのが……、頼友の母親よ。血脈でいえば、一ノ瀬家の実質の後継者」
芝生の中央にスポットライトを浴びるように男がいた。
中肉中背の男は車椅子に乗っており、その背後に控える女性が、少しクロブチと似ている気がしたのは、彼女の言ったジョークのせいだ。
実際は、まったく似ていない。
まず雰囲気がちがう。
クロブチは、どこか
一方、頼友の母は品が良い良家の奥さま然とした人だった。シフォンの柔らかいワンピースが似合っている。
「今、似てないと思ったでしょう、坊や」
「似ている」
「バカね、似てないわよ。信じたの? 簡単な子ね。でもね、あの人が素敵な女性であるってことは事実よ。優しくて絶対に傷つけてはいけない人よ。彼女はね、そういうたぐいの人なの」
妙に力んで言うクロブチの横顔に、オレンジ色のライトが当たっている。
夜のパーティで談笑する人びと。
シャンペングラスをトレーで運び、参加者の間を回る、黒スーツの使用人たち。
足もとを照らす照明が陰影をつくり人びとを彩る。
「あの人が守られるべき人なんですか?」
「そうよ、坊や。それは世界の常識」
クロブチがサングラスに軽く手を添えて、くいっと上げた。
はじめて彼女の酔った目を見て、ジニは背筋が凍るような感覚に陥った。内耳でキーンという音がなる。
「先生は夜でもサングラスを外さないんですね?」
「どうしたの、青ざめた顔をして、そんなことに興味があるの?」
「いえ」
耳障りな音が消える。
ジニは頭をふると、息を大きく吐き出した。閉じ込められた隔離病棟の部屋を思い出してしまったのだ。
「
「皆といっしょに室内にいるわよ」
クロブチが顎でさした先は母屋のリビングルームで、ガラス窓から内部が見える。カーテンは開き、明るい照明で内部の様子が見てとれた。
そこに顔馴染みの面々がいた。
(つづく)
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