第2話 ヒマリとジニと元警察官僚と





 その日、校門で一ノ瀬頼友が待っていた。

 ホームルームで座席問題を取り上げると、ジニの転校初日には勇んでいたが、クロブチに無視され、その問題は、うやむやになった。


 それで、今更ながら根にもって校門で待ち伏せているのだろうか?


 五人が近づくと、一ノ瀬は軽く手を振って近づいてくる。いつもの鷹揚おおような態度、一歩まちがえればオレさま的態度は彼の特徴だ。


「よお!」


 一ノ瀬はヒマリの前に立ちはだかる。その近づき方が性急すぎて、特に男が苦手なナギが飛び退くほどだ。幼馴染として彼のことをよく知るヒマリでさえも、戸惑いを感じた。


「ヒマリ、忘れていたのか。今日だよ。母さんからも忘れるなと言われているぞ」

「お母様が、なにかあったのかしら?」

「兄の誕生パーティは今日だよ」

「あっ!」

「困ったやつだ。完全に忘れているのか」


 頼友の三歳年上である兄、一ノ瀬克友いちのせかつゆうは、都内の医学部に通う大学生。優秀でスポーツもできる兄は一ノ瀬家のホープだった。


 幼いころ、一ノ瀬家で遊んでいたヒマリは、頼友の兄に対する複雑な感情を知っている。


 県立高校では尊敬される頼友。成績は常にトップでスポーツ万能で、女子にモテる。実際、帰国子女のミコトは、あからさまに彼を狙ったことがある。

 しかし、彼には自宅に帰ると決して勝つことのできない兄がいた。


「……でも、行くとは言ってないけど」

「当然、行くだろう。運転手を待たせている。ご両親も来る予定だから、学校から連れて帰ると約束した」


 湘南の海を一望できる山沿いに一ノ瀬の大邸宅は建っている。

 この地域で資産家として有名である一方、戦後、強引な手法で成り上がった成功者として悪い噂も絶えない。

 校門前には黒塗りの送迎車が停車している。


「行こうか」と、一ノ瀬がヒマリの荷物を預かろうとする。


 ジニがその手を止めた。


「僕も行くから」

「え?」


 あまりに自然な調子に、いつも場を支配することに慣れた一ノ瀬が、次の言葉に窮した。


「わあ、確かに。一ノ瀬んち、わたしも行きたい。行ってもいいよね」


 まったく空気を読まないミコトの一言で、ジニの言葉は仲間全員が参加するという方向へとよじれた。

 アオイは目を丸くし、ナギは、「わたしも、わたしもね」と甘えた声を出す。


「みんなが行くなら」と、ヒマリが言った。

「あ、ああ、いいよ。みんな招待するさ」

「でも、お誕生日のプレゼントを用意していないけど」


 アオイが冷静に言った。


「そんなの、いらんよ。兄貴は、それでなくてもプレゼントの山に囲まれている。なくても誰も気づきやしない」

「じゃ、決定」


 一ノ瀬家の迎えの車はクラウンで五人乗り。運転手を数に入れると、さすがに七人は多すぎる。


「四人しか乗車できませんから、定員オーバーでございます」と、運転手が渋い顔をすると、「自転車で行くから」とジニが言った。


「ヒマリ、後ろに乗れ。俺たちは後から行こう」

「え? 待てよ」


 一ノ瀬の抗議をジニは意も介さず、止めていた自転車の後部座席に、軽いヒマリをちょこんと乗せた。


「あ、あの」


 ヒマリは自転車の座席部分をつかんだが、自転車に跨ったジニは、その手を自分の腰に回す。


「キャッ」

「ほら、しっかりつかまれ、落ちるぞ」

「場所を知っているの」と、アオイが叫んだ。

「ああ、大丈夫だ。ヒマリがいる」


 彼はスマホを振った。

 残された者たちの呆気にとられた顔を背後に、自転車は校門前の坂を降りていた。


「あ、あの。沓鷲くん」

「心配するな。こういうのはスピード勝負なんだよ」


 風が流れていく。

 ジニの熱をもった背中に、ヒマリの胸の鼓動が止まらない。


 彼の体温、彼の匂い……、不思議とそれが落ち着く。ここにいれば安全だと思う。この感覚に驚きもした。


「あ、あの」

「なんだい」

「前から知っているような気がして」

「知っていたんだ」

「あなたみたいな人を忘れることはないと思う」

「僕も、もどかしいよ」


 彼が話すたびに背中から振動を感じた。嬉しいと恥ずかしいが入り混じり、どぎまぎする。


 ──やはり、この人を知っている。でも、思い出せない。なぜだろう?


「いつ、わたしと出会ったの?」


 普段の彼女なら決してしない踏み込んだ質問をした。心臓が高鳴る。


「え?」

「あ、あの」

「ごめん、聞こえない。もう一回、言ってくれ」


 ヒマリの勇気が急速にしぼんでいく。


「なんでもない」と言うと、彼はキーっと自転車にブレーキをかけた。


「なあ、ヒマリ」


 彼が背後を振り返る。その完璧な横顔にヒマリは息をのんだ。


「いいか、自分を抑えないで欲しいんだ。少なくとも僕の前では正直でいて欲しい。昔みたいに。さっき何を言ったんだ?」

「あ、あの。いつ、わたしと出会ったの?」

「一ノ瀬病院に入院していただろう。アデノイドの手術だと聞いた」

「うん、中学生の頃に手術をした。なぜ、それを知っているの?」

「その時に出会ったからだ」

「入院していた」

「ああ、していた」

「も、もしかして、顔の整形手術とかで?」


 ジニは思わず吹き出した。彼が滅多に見せない。いや、出会ってからはじめてという表情で笑っている。

 この人でも、こんな無邪気な笑顔を見せることに驚いてしまう。


「まさか、僕が顔を整形して、それで君は覚えていないというのかい?」

「だって、あなたの顔を忘れるなんて、信じられない」


 ジニは左手をハンドルから外し、彼女の手を取って、自分の顔に持っていく。

 軽く汗をかいた皮膚は滑らかで、熱を帯びている。


「ほら、触って、確かめて。どこかに縫い糸があるかもしれない」


 頬に触れた手が緊張で震える。顔を真っ赤にしたヒマリは、自分の指が体から外れて別個の物体になった気がした。


 ──このまま、ずっと彼に触れていたい。


「どう?」と、彼が聞いた。

「糸は、ない」


 機械的に答えたが、返事になっていなかった。

 頬に触れた手が彼の体温を感じる。世界には彼しか存在しないのかもしれない。そんな特別な魔法をかけられたかのようだ。


「忘れたのは受け入れるけど……。だが、僕を好きでいてくれ。忘れてもいい。もう一度、恋をしよう」

「恋?」

「そうだよ」


 潮風が吹いていた。

 もう一度、恋をする……。この人と何度でも恋をしたいと思った。



(つづく)

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