第7話 ヒマリとジニと元警察官僚と




 深く物事を考えないようにしてるが、ときどき落とし穴があって、ふいに深く考えなきゃいけないと思うときがある。


 耳にイヤホンをつけ音楽を聞いて勉強しようとしたとき、ドアがノックされた。


「どうぞ」


 永添ながぞえは部屋に入ると、壁の一面を占領する白板を見つめた。これまでもそうだが、常に素人捜査に付き合い、現場経験からのアドバイスをしてくれる。

 白板に事件の関係者を相関図として書いている。

 この方法も彼のアドバイスだ。

 母の遺体の検視時も彼がいなければ、さらに時間を要したにちがいない。


「なにもかも、この女性からはじまったな」


 永添は『河野淳子』という相関図内にある名前を、右手でコンコンと叩いた。横浜の繁華街でジニが襲ったという被害者の名前だ。


 以前、ジニは永添とともに彼女の住んでいたアパートを訪ねたが、すでに引越した後だった。


『河野淳子』という名前と前住所をツテに、永添ながぞえは警察のコネを使って引越し先を割り出した。


 訪れてみると、そこは介護のついたシニア用マンションで、八十歳を超えた軽い認知症を患う老女が住んでいた。

 河野淳子が以前に住んでいた場所は、家庭裁判所の調査官が書いた、被害者『河野淳子』の住所に間違いなかった。


「誰かが河野淳子を装って、おまえを陥れた。その婦女暴行の被害者が消えたな。それはネックだが、逆読みすれば、これで嵌められたことが確定したってことだ」

「僕が記憶する女性は、赤いワンピースを着ていたこと、大人の女性だったこと。わりと背が高くて細めで、太ももから足首にかけてすらりとした綺麗な足だったことは覚えています。あの場所は薄暗くて、それに何が起きたのかわからず、びっくりしていたのでウロ覚えですが」

「ああ、それは仕方ない。自分を責めんでいいぞ。目撃証言でも同じようなことは多い。人によって真逆に印象になったりしてな。それにしても、ずさんな捜査をしたものだ。まあ、家庭裁判所の調査員は捜査というより、そもそも保護を目的にしとるから。いきなり隔離病棟に措置入院させるなど、本来ならありえないことだ」

「一ノ瀬の選挙が原因だったのだと思う。母が脅迫したのは間違いない。だから、僕を世間から隠したかったと思います」


『河野淳子』と名前を告げ、偽住所を教えた被害者。しかし、実際の老女は身よりもなく、事件についても、ジニについても全く知らなかった。この老女の住民票を利用するのは簡単だったことだろう。


 部屋の白板には、被害者『河野淳子』という名前を書いてあるが、仮名(?)となっている。


 事件の鍵を握る母も当時の足取りは全くつかめなかった。新宿歌舞伎町の場末のクラブにいたという噂もあった。

 自殺した場所は、横浜の繁華街にあるラブホテル。

 痩せこけた体から、相当に貧窮していたことは確かだ。

 警察から祖母が受け取った遺品は身の回りのものと、ブランドのコピー品である安物バッグがひとつ。


 他殺だとすれば、おそらく、犯人は証拠となるものをすべて処分したにちがいない。スマホも持っていなかった。


「ヤワじゃないが……、雲をつかむような話でも、地道に、ひとつひとつ埋めていけば、いつか結論に至るものじゃ」

「あの人の性格はよくわかっています。衝動的で目先きの利益しか見えなくて。およそ我慢などできない人でしたから。しつこく食い下がったんでしょう」

「それでもな、ジニや。幼い頃は、かわいい子だったよ。君の婆さんのところで会ったことがある。末っ子で生まれた娘だから、あんたの婆さんが甘やかしすぎたのかもな。しっかりと面倒をみれんかったと、婆さんが後悔しておった」

「あの人の衝動的な性格は生まれつきでしょう。祖母のせいじゃない」

「ジニや、自分の母親をあの人などと呼ぶな。母親を許せないのは理解できる。いやワシはお前じゃない、理解はできん。それでも、自分の怒りを許すために、彼女を許すことは必要なんだよ」


 ジニは祖母の家で育った。

 中学生になって、母が引き取りにきたときは喜んだものだ。それは、すぐに落胆に変わった。


 祖母宅から引き取られたジニは母に連れられて、豪華なホテルに向かった。

 ロビーで待つように言われ、ずっと、すわっていた。母も隣りで、誰かを待っている様子だったが、いつまでも待ち人は現れなかった。

 ホテルに出入りする人びとを見ながら、ただ、待つ時間が過ぎた。


「クソッ! あのジジイ」と、母は悔しそうに悪態をついた。

「いくよ、ジニ。まったく役に立たん子だよ」


 今ならわかる。

 ジジイとは一ノ瀬克ノ介いちのせかつのすけだ。類推するに、彼が県議会選挙の出馬を考えていた頃だろう。母の存在、さらに自分の存在はスキャンダルな問題になったにちがいない。


 子どもを認知させて、金を取ろうとした母の目論見は失敗した。

 それから、ボロアパートに帰ると再び母は消えた。

 ジニは母を待って冷蔵庫にあるもので飢えをしのいだ。祖母が手配して転校手続きはしてあったので、近くの中学校にひとりで通い、ひとりで生活した。


 部屋は乱雑を極めたが、掃除すると、あちこちに一千円、二千円と金が落ちている。

 それで飢えを凌いだのだ。

 コンビニアルバイトを見つけたのは、そんな頃だ。


 派手な格好をした母が、ときに帰ってきて、「まだ、いたの」という顔をする。


「金がない」

「ああ、待ちな。また稼いでくるから」と、荒んだ顔で言ったものだ。


 母に愛情を覚えることはなかった。ただ、哀れな人だと思う。しかし、あの死に方は哀れを超えている。なぜ、そんなに堕ちてしまったのだろう。ジニはその謎が知りたいと思った。


 その後、一ノ瀬が選挙に出馬すると知り選挙事務所で暴れたかもしれない。結果として、ジニは隔離病棟に入ることになったのだろう。

 しかし、誰が仕掛けた。


 母の顔は、もう思い出せない。

 思い出そうとすると、ヒマリの顔が浮かんだ。

 優しく繊細で、世界に怯えるヒマリは、もうひとりの自分だ。


 あの病院がなにか治療を施して、彼女の記憶を改竄かいざんしたにちがいない。


 それが何かわからないが、ジニはそれで良かったと思っている。たとえ、彼との記憶を失っても、彼女が幸せに生きられるなら、それでいい……。



(つづく)

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