第6章

第1話 迷走する殺人事件




 午前七時前、ヒマリは誰もいないと思った教室でジニを見つけた。窓際の席、頬杖をついて外を眺める姿は、まるで一幅の絵を鑑賞しているように見える。


 入り口で足が止まってしまう。


 登校するには、まだ早い時間、もし、これが示し合わせたものだとしたら嬉しいのに。そう思った自分に呆れもした。


 明るい陽差しが射しはじめている。

 ごくごく自然に彼の隣りにすわり、「おはよう」と言って、彼が「おはよう」と答える。

 それから教科書を取り出して、勉強するふりをして……。

 彼は、そのまま隣りで静かに外を見ている。

 そんな感じだったら、とてもいいと思う。

 朝陽に反射して彼の周囲に細かい埃がキラキラ舞っていた。

 ヒマリは入り口に立ち止まったまま、前にも後ろにも進めずにいる。


 気配を感じたのかジニが振り返った。


「あっ」と、思わず声がもれる。


 ふだんは人を寄せ付けない彼が、ヒマリを見つめるときだけは視線が和らぐ。その理由を彼女は知らない。


 ──まさか、わたしのせいじゃないと思うけど、きっと気のせいだろうけど。でも、なぜか寂しげに見える。抱きしめて慰めてあげたいと思ってしまう。どうしてだろう。


 と、彼女は思い。


 過去に犯罪者と知り合いだったなんて、クラスでは知られたくないだろうと、彼が考えたなど、このときヒマリは思いもよらなかった。


 教室の入り口で彼女は中へ足を踏み入れようか、それとも、このまま逃げ去るか迷った。


「入ってこないのか。……ヒマリ」


 名前を呼ぶまえ、問いかけるようにジニが彼女を見た。


「あ、あの、入ってもいいの」


 朝陽のせいか。それとも、空中でキラキラと輝く埃のせいか。奇妙な映像が浮かんだ。


 深い森の……、どこだろうか。森の小道の先に、鉄格子で囲われた建物がある。古い建物には蔦が絡まって。

 鉄格子の向こう側、けやきの大木の根っこにすわる薄青い病衣を着た少年。


 フラッシュバックするように情景が思い浮かぶ。


『ジニく〜〜ん』


 大人の女性の声が聞こえた。

 空耳?

 思い出そうとすると、キーンと耳鳴りがして頭痛がした。


「ジニ……」


 ジニが首を傾げる。

 さらりと黒い前髪が額に落ちる。その様子がセクシーで息が止まった。


 ──この男はヤバイ。ほんとヤバイ。


 そうだ、同じことを思った覚えがある。もやがかかったように、ぼんやりとして思い出せないけど、確信できる。


 懐かしく愛おしく、胸が苦しくなるような泡立つ感情を知っている──


「……ジニ」


 ジニが立ち上がって近づいてくる。

 また、デジャブだ。

 以前に同じ姿を見た。どこか森の中で、彼がゆっくり近づいてくる。


 いや、去っていく。そう、近づいて欲しいのに彼は去った。ヒマリは混乱した。


「どうした」

 

 真上から低い声が聞こえる。


「わたし、以前に出会ったことがあるような気がして」

「気のせいじゃない」


 彼の視線は優しく深い。まるで、愛されているような独特な視線に惑わされる。


「わたし、混乱してて、あの、ごめんなさい」


 ヒマリは驚くと同時に、なにか恥ずかしくもあった。


「謝る必要はない。何をされたのかわからないが、君は僕を忘れてしまった。それとも、忘れたふりをしているのかい?」

「どこかで出会ったはずなの?」

「一ノ瀬病院に入院していただろう。中学生の頃だが」

「うん」

「その時に、君は僕に会いにきた」

「一度?」

「いや違う、何度もだ。最初は気づかないようだった。それから、少し話すようになった」


 ヒマリは首を横に振った。こんな人に出会ったら、たとえ一度でもけっして忘れることはない。頭が混乱して、思わずその場にしゃがみ込んだ。


「い、痛い。頭がひどく痛む」

「大丈夫だ、ヒマリ。落ち着くんだ。ゆっくり息を吸って、そう、ゆっくり」

「ご、ご、ごめんなさい」


 ヒマリはその場から走って逃げた。


「ヒマリ、おはっ」


 廊下を走って階段の手すりで息をつぐと、背後から肩を叩かれた。振り向くとアオイが立っていた。


「早かったね。部室に寄ったの」

「う、ううん。こっちにカバンを置いてこうと思って」

「どうしたの? ぼんやりして。……ジニくん、早いね。おはよ」


 ジニが歩いてくる。


「アオイ、先に部室に行ってくれる。わたし、ちょっと話したい、じゃない。やりたいことがあって」

「え、ええ、いいよ。珍しいね、ヒマリがそんなことを言うなんて。じゃ」


 アオイが階段を降りていくのを確認した。

 ジニはまだ廊下にいる。

 覚悟を決めて、ジニに近づいた。


「私と……、会っているんですよね……?」

「会っている」

「覚えてなくて。ご、ごめんなさい」

「謝ることはないよ。三年前に一ノ瀬病院に入院していたことも覚えていないのか?」

「昔のことはぼんやりしていて、あんまり覚えてないんです。ちょっと嫌な記憶もあって、忘れたかった」

 

 ヒマリは不眠症で精神科を受診した過去を忘れたかった。しかし、その言葉を自分を忘れたかったと、ジニが誤解したとは思いもよらなかった。


 ジニは、ふいっと踵を返すと、その場から去っていく。ヒマリは驚いた。険しい表情で去る理由が見当もつかなかったからだ。



(つづく)

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