第8話 迷走する殺人事件
永添とジニが警察署から戻ると、富子が玄関先までパタパタと走ってきた。
「暑かったでしょ。大変だったわね、ジニちゃん。あらあら、かわいそうに、本当に疲れた顔をして。さあ、これを飲みなさい。冷たいもので元気回復よ」
彼女は冷蔵庫から取り出したばかりのジンジャエールを手に持っている。水滴がついたコップはすずしげに泡立ち、いかにも美味しそうだ。
ジニは玄関先で、ごくごくとうまそうに飲み干した。
永添が、はじめて出会った頃のジニは、こういうとき無言で遠慮したものだ。
『僕のために、永添さんたちが飲まない物まで用意しなくても大丈夫です』
『このバカが。おまえはワシの息子のようだと言っただろうが。ワシら夫婦には子どもがおらん。だから、こうやって老後の保険をかけとんじゃ。遠慮はいらんぞ』
こうした普通の気遣いが、孤独なジニにとって家庭の象徴であり、決して手に入らないものだった。ジニがどれほど普通を渇望してきたのか、永添はそれがわかるだけに胸が痛む。
今では遠慮なくジンジャエールを飲み干すジニを見ると、ほっとする。
「おいおい、ジニだけか。ワシは? 婆さん」
「ビールでも飲みますか。冷蔵庫に冷えてますよ」
「出してもくれないよ。見たか、ジニや」
「まあまあ、子どもみたいに。外では偉そうにしてるけど、この人はほんとは子どもなのよ、まったく」
ジニの目もとが潤んでいるように見えた。
「なんだ、ジニ、泣いているのか」
「いえ、ただ。なんか温かくて」
「さあ、のんびりしている場合じゃない。ちゃっちゃとメシを食おう。やることは多いんじゃ」と、永添は顔をしわくちゃにして笑った。
「はい」
夕食後、ふたりはジニの部屋に入った。
「また犠牲者が出てしまったな」
「ジッサマ、また疑われてしまった」
永添は軽くため息をつくと、「よほど仏さまやら、神さまに嫌われてるな。前世は極悪人か」と、笑ってから肩を叩いて冗談にした。
「おまえの容姿を見れば、人はみな神さまに愛されていると思うだろうが、ワシは逆だと思うよ。ワシのようにジャガイモのような見た目なら、それほど注目されることもない。学校の階段で話していたのが、おまえだから生徒たちも注目した」
「そんなものですか?」
「ああ、そういうものだ。ベテランの警官が聞き込みした内容を鵜呑みにはせんのは、そのせいだよ」
「でも、なぜ、屋上から飛び降りたのか。クロブチが一ノ瀬頼友の叔母だとか言ってたけど、信じられない話だ。もうひとつ気になったことは、クロブチの前任者です。怪我をして入院しているから、クロブチが担任になったと知っていた。この情報、すべてクロブチから流れていると思いませんか?」
辻ヶ丘高校については、転入する前に永添とともに周到に調査した。転入の二日前に、急に新任の教師が赴任したので、調べてみると前任者が暴行され入院したという事実に突き当たった。
永添が警察に問い合わせたところ、まだ犯人は捕まっていないという。
監視カメラもない暗い路上で、いきなり襲われ、両足の骨を折られたらしい。
複雑骨折で入院した前任者は、『相手はまったく知らない。急に襲われた。フードを目深にかぶったボクサーのような細身の奴で、警棒のようなもので殴られた』と言っている。
こうした通り魔的な犯行は、なかなか犯人を発見しづらい。
「屋上から落ちた子と会ったのはどこだ?」
「階段の踊り場です。そこで別れたあと、屋上に行ったんだと思う」
「学校の防犯カメラが廊下に設置してあるだろうから、時間的経緯はわかるはずだ。警察がおまえを呼んだのは、経歴を知って動揺しているうちに聞き出そうとしたからだろうが。このクソ生意気なガキには向こうも困ったろうな」
「ジッサマ」
「褒めているんだよ。苦労してきたから、どんな時も落ち着いていられる。なかなかできるこっちゃない」
永添の現役時代に一ノ瀬を捕まえておけば、結果としてジニを守ってやることができたと、今でも彼は後悔している。
そもそも一ノ瀬病院が捜査第二課の事案にあがったのは五年前だ。
警察隠語でいうサンズイ案件だった。サンズイとは汚職関連の捜査だ。
五年前──
『永添さん、これはいけますよ!』
若い部下である藤代拓也が顔を輝かせて報告にきた。やんちゃな男で永添は特に可愛がっていた。
発端はなにかと黒い噂のある隔離病棟だ。
一部の政治家とはずぶずぶの関係をもつ一ノ瀬家と、その隔離病棟の存在に目をつけた。
しかし、捜査なかばで困ったことが起きた。例の目にかけていた部下が、徐々に憔悴していったのだ。
『どうした』と、聞いても言葉を濁す。
酒の席で聞いた別の部下からの報告には呆れた。
『女ですよ、永添さん。やつ、ぞっこんの女ができて、捜査に集中できなくなったんですよ』
『そんなバカな』
そう笑ったが、あきらかに部下は頬がこけ痩せた。彼が辞職するのに、それほど時を要しなかった。
彼が退職してから、すぐに捜査内容の証拠品が消えたことが発覚した。藤代を探したが、親にも告げず旅に出たと聞く。
以来、藤代拓也の消息はわからない。
藤代家からは彼の捜索願いまで出ている。
目をつけた獲物は決して逃さない『仕事師』の異名を持つ永添が、目をつけて逃した唯一の事案だった。
「今でも悔まれるんじゃ。ワシの動きがもっと早く、的確であれば、おまえを隔離病棟へなど入れることはなかった」
「ジッサマのせいじゃないよ。人間って、どう道を選んでも、結果として同じことになるような気がしている。母の結果は、おそらく変わらなかったと思う」
「おいおい、ジニや。その年であんまり大人になるな。ワシのほうが悲しくなるわ」
ジニは静かにほほ笑む。
その悟り切った笑顔を見るたびに、永添は胸が痛んだ。
この子はずっと耐えてきた。両親に囲まれ愛されて育つこともできなかった。その寂しさをただ心に閉じ込めて耐え続けてきたのだ。
永添は無用の同情をしたり、慰めたりはしない。
ジニの相談役として彼の進もうとする道を遮ることはなかった。常識などという安っぽい道理など、ジニにとって何の役にも立たないと理解していた。
「さて、あんたのお母さんは、ちぃと脇が甘くてな。誰かに何かを話さずにおれん人だろうと思ったが、予想通りだった。同僚のホステスやママに、いろいろとぶちまけておったよ」
彼の母親を悪しざまに言うのは胸が痛む。まったく不憫な子だと永添は思った。
「晩年は、かなり生活に困窮していてな。困窮レベルじゃないな、どん底だった。借金もあちこちにあり、闇金からの取り立ても酷かったらしい。挙句にしたのが、一ノ瀬を脅迫することだ。それも隠し子のお前をダシに使ったようだ……」
「あの人は、ほとんど帰ってこなかったから、何もわからない」
「そうだったね。当時は県議会選挙の年でな。一ノ瀬克ノ介にとって初出馬の大事な選挙だった。人間というのは面白いものでね、多くの金を稼ぎ、それに満足すると、次に求めるのが名誉なんじゃよ。一ノ瀬は県議会議員という栄光を欲したんだろう。それを利用しようとしたのが、君の母親だ。隠し子のことをバラすとね」
「どっちがバカなんだか」と、ジニは吐き捨てるように言った。
「おまえには災難以外のなにものでもないな。少年法ってのは穴があるんじゃよ。これが大人の犯罪なら、検察やら警察が動くんだが。少年の場合は家庭裁判所の調査官がその役をするだけだ。彼らが能力的に劣っているわけじゃない。罪の賞罰よりも更生に重きをおく。そもそものスタンスが違う」
ジニの唇が本人の意思とは関係なく震えている。半年の隔離生活は言葉にできないほど過酷な経験だったにちがいない。
「思いっきり泣いたらいいんだ。我慢するこっちゃない」
ジニは強く握った
(つづく)
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