第5話 誰もが孤独を誤解している
臨時教員として赴任した
実際のところ、彼女が緊張することなどないのだが。
他人を惑わせる。
男も女も魅了する。
顔に張りついた魅惑的な表情に、感情などない。
自慢したり、見栄を張ったり。
人は、他人に認められたいといった承認欲求から無意識に自身をさらけ出すが、彼女は計算ずくでそれをする。
容易いことだと思う。他人を翻弄するのはゲームと同義語だ。
『そういう客観的なところ女優に向いているわね』と、母は言う。
もし、彼女に愛とか苦渋とか与える人がいるとすれば、それは、母しかいないだろう。
豊満な体の線をあらわにした紺スーツ。
大きな黒縁のサングラス。
真紅の濡れた口紅。
教師というよりモデルのような垢抜けた服装で、人目を引くのも最初からの狙いだった。本性を隠すのに、装いが派手なほど周囲はごまかされる。
「その黒縁のサングラスは取れないのですね」
生真面目な学年主任が注意したのは、ご愛嬌にすぎない。
「ええ、すみません。光に目が弱くて。サングラスがないと視神経が痛むのです。医師の診断書を提出しましょうか」
「この年頃の生徒たちは、いろいろな意味で敏感な年頃でしてな。サングラスが必要なことを、最初にご説明されたほうがよろしいかと」
「ご教示ありがとうございます、……センセイ」
右唇だけを引きあげ、大人っぽく魅力的な笑顔を浮かべると、ハスキーな声で学年主任を煙にまく。
これも、喉の声帯を軽く閉じることで、ため息をつくようなセクシーヴォイスを作りあげた裏技だ。
赴任初日に、二年B組を受け持つことを聞いた。
「みな、いい子たちばかりですから、問題はないと思います」
ほとんどの生徒が大学進学を目指すためか、おおむね真面目に勉強する子が多く問題児の少ない学校だ。
内申をよくしたいという思惑もあるのだろう。
赴任した翌日には、学年主任に呼ばれ、転校生について聞かされた。
学期はじめでもない夏休み前の編入、イレギュラーな対応で。その上に転校生は訳ありのプロフィールだった。
「佐々木先生、早々に厄介な、いや、言葉がまずかったかな。赴任早々に、特異な生徒をクラスで引き受けてもらうことになって申し訳ないですが、先生は経験豊富でらっしゃるから……」と、学年主任は薄くなった頭をかきながら言葉を濁した。
少年のプロフィールを、「では、よろしく」と手渡された。
クリアファイルに入った書類がドンっと重く感じる。
学年主任が口をすべらした厄介な生徒とは
まだ十四歳のときだ。
母親はシングルマザー、育児放棄をして久しい。父親がいない理由は書いていない。
傷害暴行事件後は家庭裁判所に送られ、精神科医の鑑定が必要という結果が出た。その後、『脳にいちじるしい障害あり』と判定された。
そのため、少年院ではなく精神病院の隔離病棟に措置入院となる。半年間、入院したのち彼は退院した。
中学校は卒業認定で、一年遅れで高校に入学した後、退学して当校へ編入してきたのだ。
まともに学校教育を受けていないはずだが、県立辻ヶ丘高校の編入試験に合格した。普通に合格するよりも編入試験は難関で、それをほぼ満点の成績で突破した。優秀ではあるのだろう。
開いた窓の外から、湿気をふくんだ風が入ってくる。風に乗って生徒たちが登校してくる声が聞こえた。
どんよりとした雲が空をおおっているが、雨は降っていない。
厄介な生徒を迎えるのに、どちらがいいのだろうか。
美しく晴れた日と、鈍重な曇りの日と。
いっそ、稲光でもしてくれればいいのに。クロブチは、そう妄想する自分に苦笑いした。
いまにも雷の鳴りそうな外を眺め、マニキュアを綺麗に塗った人差し指で、空に稲妻を描いてみた。
朝の門限である八時半には合図のチャイムが鳴る。
これ以降に当校すれば遅刻扱いだ。
ホームルームがはじまる数分前、学年主任が少年を連れて職員室に入ってきた。
他の教師たちの視線を感じる。彼らも今回の生徒がどういう事情で転校してきたか、ある程度は知っているようだ。
少年は私服で、白いワイシャツと黒ズボンをはき、まっすぐ向かってくる。
軽く猫背で歩く少年は、学年主任より頭ひとつ背が高く、細く引き締まった体つきをしている。
「佐々木先生、この子が
彼を紹介しながら、学年主任は驚きを隠せない表情を浮かべていた。その理由はわかる。
プロフィールにあった小さな写真でも整った顔をしていると思ったが、実物はそれ以上だった。
すっきりした小顔で、それぞれのパーツが整った中性的で美しい顔。たとえば、ヴィジュアル系のアイドルグループに入っても、ひときわ目を惹く存在になるにちがいない。
飛び抜けて白くきめ細かく美しい肌。メイクで隠す必要もない素肌は、女性なら誰でも憧れるだろう。
繁華街を歩けば、多くのスカウトマンに声をかけられたにちがいない。
この子が婦女暴行をした少年、それも、まだ中学生の頃に。クロブチは、じっと彼の顔を見つめたが、動じもしない。
うつむきがちの表情は暗く、けっして目を合わそうとしない。しかし、おどおどしている訳ではなく自然体であった。視線を外しているのは、人と接するのが面倒だという意思表示にちがいない。
「わたしが担任になる、佐々木です」
クロブチは、はじめて意図せずに口ごもる自分に驚いた。
「じゃあ、佐々木先生。お任せしました」
そそくさと学年主任は彼を押し付けて去っていく。少年は下を向いたままぼんやりしていた。
「どうしたの?」
「アリが」と、彼が言った。
視線を追うと、一匹の黒いアリがリノリウムの床を這っている。斥候アリが餌を探して、こんなところまで来たのだろうか。
「たまに間違って入ってくるのよ。じゃあ、教室に行きましょう」
クロブチはハイヒールの先でアリをすり潰すように殺すと、顔をあげた。
「わかりました」と、彼が礼儀正しく言った。
(つづく)
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