最終章

第1話 サイコパスvsサイコパス




 世の中ってのは、どれほど緻密に計算しプランニングしたとしても、予想外のことがおきうる。

 むしろそちらの方が多い。

 人が、うっかり神になろうとして、おのれの無力さを実感するのは、そんな時だ。


 ……クロブチは口もとに笑みを浮かべながら、サングラスを外した。


 無用なサングラスを、くるくると器用に指先でまわす。それは、まるで生き物のように彼女の手のひらで遊んでいる。


「ふう……」


 無意識にため息を漏らした。色っぽく、ちょっと陽気な高校教師を演じるのも飽きた。

 クロブチは退屈を嫌悪して、一方でそんな自分を持て余す。


 刺激が足りない!

 刺激が足りない!


 この学校での『退屈』が灰汁あくのように心の上澄うわずみに浮かんでくる。

 しかし、昨日送られてきたジニからのメールには久しぶりにゾクゾクした。

 心が躍る。自分の最高傑作の仕掛けに誰も気づかないのには、ずっと我慢がならなかった。

『全部知っている』とは、ふざけた内容だ。

 生徒の帰った空っぽの教室から校庭を眺め、その先にさざめく海を眺め、それから、どこで間違えたのかを考えた。


 ──なにも間違えていない。わたしに限って間違うことなんてない。笑えるわね。神経質になっているのかもしれない。このわたしが? やはり笑えるわ。母はどう考えるだろうか。この結果に満足してくれるといいのだけど。愛しているわ、母さん、もうすぐ、最高のプレゼントを届けるから。あんな子が隠し子なんて、母は傷ついたにちがいない。隠し子はわたしだけなのよ。


 校庭ではサッカー部がまだ残っていた。そろそろ下校時間だから、クールダウンの軽いランニングをしている。


「イチ、ニー。そーれ、イチ、ニー。イチ、ニー」


 たいした成績でもないのに、何を必死にと思うと、そのかけ声が滑稽にしか思えない。

 この学校は運動部が盛んとはいえない。それでも、今年のサッカー部は有望だと、職員室では話題になっていたのを思いだした。

 クロブチからすれば、全く完璧にたるんでいるのだが。

 ぬるい練習、ぬるい努力、ぬるい戦略。

 彼らが有望なんて笑わせる。地方選さえ勝ち抜けないだろう。


「かわいいわ」


 クロブチはトレードマークとなったサングラスを、まだ片手でもてあそんでいた。

 夏だが長袖のブラウスを着ているのは、鍛えぬいた体を隠しているからだ。彼女はセクシー教師を売りにしているが、実際は鍛えられたアスリートで、その自分が気に入っていた。


 クロブチの生活はストイックな規律に守られている。

 毎朝のランニングからはじまる基礎運動とトレーニング。週三回はキックボクシングジムに通う。

 趣味は何かと聞かれるとき、キックボクシングと答えるためだ。

 そんな嘘が楽しい。


 なにも知らない子羊たちの間で、羊の仮面を被った狼の全能感に萌えてしまう。

 黒いサングラスを外さないセクシーな女教師、清純な教師でもよかったが、男子たちのリアクションはセクシー路線のほうが退屈しない。

 人は外見に左右される。

 たったひとり、沓鵞路二には全く無視されたが。あの子は自分と似ているのかもしれない。

 外を眺めているとき、そのジニが教室に入ってきた。


「先生」


 一番、素顔を見られてはいけない相手が、そして、一番、素顔を見せたい相手が入って来た……。サングラスをどう扱おうか。

 これこそがスリル、ぞくぞくするスリル、血が踊る。

 ゆっくりとクロブチが振り返る。その目をジニが凝視した。


 驚愕するような表情を浮かべたが、すぐに隠した。でも、遅い。その表情は大好物、舌なめずりするほど欲しい感情だ。


 右頬をあげて皮肉な笑顔を作ったのは、興奮が頂点に達したからだ。知られるかもしれない。いや、まだ隠せる。その天秤が、どちらに傾くのかが楽しい。


 ──そう、これはプレゼントよ、ジニ……。わたしを思い出しなさい。痛みこそすべてなのよ。生ぬるい幸せなんて欲しくないでしょ? 外のサッカー部員たちとあんたは決定的に違うはずよ。がっかりさせないで。

 

 人差し指でサングラスをくるくる回す。

 クロブチは幼い頃、カトリック教会に併設された施設で育った。毎朝、決まった時間になるとシスターが祈りの言葉を唱える。


『神さま、願わくば、われらの罪をお許しください。われらが、われらの罪を許すがごとく』


 その祈りを聞くたびに不思議に思ったものだ。いつ自分の罪を許したのだろうか。そもそも罪ってなんだろうか。

 クロブチの最も古い記憶は、彼女が育った施設の砂場だ。そこで、好きな男子を徹底的に痛めつけた。クロブチは施設内で『絶対に怒らせてはいけない』子として有名になった。


 施設に女性が迎えに来たのは小学生の頃だった。

 シスターに呼ばれていくと、優しげな品の良い女性が待っていた。ハンカチを目にあて、鼻を真っ赤にして彼女は泣いていた。


『ごめんね。あなたのお母さんよ。ずっとずっと、あなたを探していたのだけど、やっと見つけたわ』と、女性は泣いた。

『お母さんと呼んでくれる』

『お・か・あ・さ・ん』

『そうよ。いらっしゃい』


 母は十代の頃、家族の反対を押し切って男と駆け落ちしたと教えた。


『わたしたちは、とても愛し合っていたの』


 母の言葉は美しい。品の良く飾られた母の言葉は特上の装いだ。こんなふうになりたいと憧れてしまう。

 貧しい生活に男が逃げたあと妊娠が発覚して、生活の術もなく実家に戻るしかなかったと母は説明する。

 その奇妙な形に動く赤い唇が美しいとクロブチは思った。


『あなたを産んだあとに、病院からあなたは消えた。あとで知ったのは両親が施設に預けたってことよ。ずっと探していたわ。やっと見つけた、わたしの娘』


 乾いた砂に水が注ぐように、聞きたかった母の声で心が満たされていく。


『かわいい娘、愛しているわ』


 母はそう言いながらも一ノ瀬家に引き取れない理由を教えてくれた。

 祖父が反対するからと。

 佐々木優子という名前は本名ではない。施設に預けられたとき、簡易的に名付けられた『佐々木優子』という通り名が、無国籍だった彼女の本名となった。


『父がね、あなたの存在を知れば激怒するの。弱い母を許してね』


 母は自分を『姉さん』と呼びなさいと言った。それから、彼女は母に引き取られ美しい部屋に隔離された。

 そこは窓もなく、外部と接触できない場所だった。

 一ノ瀬家に出入りできるようになったのは母が婿を迎えてからだ。彼女の素性を母以外には知らない。


『お父さまの一ノ瀬克ノ介はね、県会議員になるような業の深い怖い人なの。でも、もっと怖いのは母よ。父は婿養子でどこか母に遠慮してるから。一ノ瀬の全権を握っているのは、わたくしの母だった。もう他界したけど。あなたのことは、わたくしが守るから、あなたは、わたくしを守ってね』


 の援助で大学に入り、教員免許をとり、一人暮らしのマンションの部屋も母が保証人になって契約してくれた。

 クロブチは仕事が長続きしない。

 すぐに退屈して刺激を求めてしまう性格をは許してくれる。


 ──愛してるわ、母さま。


 ある日、『ああ、どうしたらいいの? 優子ちゃん。困ったことになったの』と、母は嘆いた。

 母が困ったときは嬉しくなる。クロブチを頼ってくれるからだ。これまでも何度も母が困り、その度に救ってきた。

 今回は祖父の隠し子だという。

 母の異母弟であるジニは、クロブチにとっては年下の叔父? 伯父?

 ジニの彫刻のような美しい顔を見たとき、その先にある女の顔が透けて見えた。


『すぐにわかるわ。コンビニで働いてるから。あの子を目当てに若い子たちが集まってくるほど、目立つ子よ』と、母は言った。


 母が苦しんでいた。



(つづく)

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