第5話 転校生とヒマリの秘密





 ヒマリの手首をつかみ、ジニは階段を上っていく。

 その手は冷たい。

 夏なのにひんやりとしている。この手に触れた覚えがある気がして、恥ずかしくても振り払えなかった。


「あ、あの、あの……」


 ヒマリは不意打ちが苦手だ。他人のとっさの行動には、たいていオロオロしてしまう。これがアオイなら、物事はもっと単純になるだろう。

 相手はぶたれるか、ボーイフレンドになるかだ。


(アオイ、助けて……)


 ヒマリの様子に気づいたのか、ジニが振り返る。


「強引すぎたか、謝る。ごめん」

「あ、あの」

「腹が立つんだよ。完全に俺たちのことを忘れているのか。それとも、それはフリなのか?」


 僕ではなく俺と言った。

 俺たちと……。

 頭が混乱する。ジニの言葉は理不尽で、会ったこともないはずなのに、どういう勘違いなんだろうか。その上、手を振り払えない自分にも驚く。

 そのまま階段を登り屋上へ向かう。

 重い鉄製のドアを開けて外に出ると、自動的にガチャンとドアが閉じた。


「屋上へのドア、鍵がかかっているはずだけど」

「ああ、普通はね」

「なぜ、開いているの?」

「ガキっぽいやつらが開けていた。たぶん、タバコでも吸っていたんだろう」


 ああ、あの不良グループだろうとすぐにヒマリは察した。しかし、開いたままなのは驚いた。


「でもなぜ、開いたままなの」

「頼んでおいた」


 頼んだだけで、聞くような奴らじゃない。


「説明が必要か? ちょっと脅しただけだ。そんなこと、それほど大事な事ではないだろう」


 この顔で凄まれたら、きっとビビる。ヒマリの知る同世代の人たちとは、どこか異質だ。

 彼の背景には、おそらく誰も踏み入れたことがない闇が存在するはずだ。

 自分を守るため共感能力が高いヒマリは、ジニに底知れない何かを感じてしまう。


 風が強い日だった。

 暗い雲の下で髪が舞い、スカートがバタバタと音をたてている。


 屋上で、ふたりきりになった。誰の視線もない場所で、やっとジニは手を離した。それは逆だろうとヒマリは思う。今なら手を繋いでも誰も見ていないのに。


 この男は、なにかが決定的に欠けている気がした。普通の高校生なら常識として考える感覚が少しズレている。


「わたし、どこかで会っているんですか? でも、その、あなたのような人を忘れるはずがないけど」

「一ノ瀬総合病院の隔離病棟を覚えていないのか?」

「隔離病棟? あの病院マップに、そういう場所があったことは知っているけど。行ったことがないから」

「しらばっくれてるのか」

「え? あの」

「あの病院に入院していた理由は不眠症だろう。そう言っていた」


 心臓がきゅっと縮んだ。なにか取り返しのつかない間違いをした気分になる。

 初対面なのに、まるで前から知っているような話し方。なお悪いことに、ヒマリさえも初対面という気がしないことだ。

 でも、会っているはずがない。


「なぜ、そんなことを知っているの? わたしと会ったことがある……の?」

「三年前だ。そんな昔じゃない。いろんなことを話しただろう。短い時間だったが、僕にとっては宝だった」


(嘘をついているわけじゃなさそうだ。それとも、騙されてる? でも、騙す必要があるのだろうか。それも、わたしなんかに)


 ここで知っていると嘘をついたらどうなるだろうか。知っているという演技をして彼の興味を惹きたい気がする。

 普段は警戒心が強く簡単にはガードを下さないヒマリが、彼に近づきたいと思った。

 初対面なのに……。

 返事に迷う。

 ほんの一瞬の迷いだったが、それは決定的な瞬間で、後になって、あの時、ああしていればと思う、そういう特殊な瞬間になった。


「悪かった。きっと俺の思い違いなんだろう」


 ジニはそう言うと、急に冷たい表情へと変化した。


 くるりと背を向け彼が去っていく。白いシャツの背中を目で追う。その背に縋りつきたくなる自分にヒマリは驚いた。

 ポトンと涙が落ちた。

 ポトン、ポトンと涙がほほを伝い落ちていく。まただ。彼が自己紹介したときと同じ。涙が溢れるのは、なぜだろう。


(お願い、行かないで。そんなふうに、わたしを拒否しないで)


 知らない人なのに、なぜ胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような気分になるんだろうか。

 ヒマリは後を追って屋上のドアを開けた。

 開いたドアの前にジニが立っていた。


「あ、あの」

「ああ」

「覚えていないの。あなたのことを」

「それは聞いた」

「でも、胸が痛い」

「あの病院で、なにをされた」

「え?」


 ジニの目が問うように近づいてくる。

 階段を上がってくるヒールの音がした。誰か来ると思うと、ヒマリは怖くなって、屋上のドアを閉めた。

 しばらくして、ドアが開いた。


「水城さん、どうしたの」


 いつものサングラスをしたクロブチが立っている。


「先生」

「どうして泣いているの? まさか、さっき階段で転校生とすれ違ったけど。彼にいじめられたの? 先生に言いなさい」

「いえ、あの。違います」


 階段を見たが、ジニの姿はなかった。


「ちょっと、なんだか夏の暑さに疲れただけです、すみません、先生」

「ここは立ち入り禁止よ。どうやって中に入ったの?」

「あ、あの。ドアの鍵が開いてて」

「もう出なさい。上がっちゃだめよ」

「はい、すみません」


 ヒマリはクロブチの横をすり抜けると、階段をかけ降りた。

 教室を覗いたが、もう誰もいなかった。午後は体育の授業で、みな体操服に着替えて体育館に向かったのだろう。


 誰もいない教室は打ち捨てられたようで、どこか寂しくて、再び、涙があふれてきた。



(つづく)

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