Overwriting 〜僕は隔離病棟で愛を知る〜

雨 杜和(あめ とわ)

第1章

第1話 誰もが孤独を誤解している



 幼い頃、彼は自分の父親はてっきり宇宙人だと思っていた。手足が五本あるとか、鼻がないとか。顔が大きく三等身だとか。だから自分の前に現れることができない。今から思えば、なんと幼く愚かだったのだろう──


 この坂道を下りきるまでは、でも、そんなことを考えていよう……。


 復讐心で頭をいっぱいにするより、よほど楽しい。




 六月末、沓鵞くつわし路二じにことジニは、湘南の海沿いサイクリングロードをオンボロ自転車で疾っていた。


 暗闇に引きずりこまれ叫び出したくなると、孤独な少年は無言で自転車のサドルにまたがる。


 慣れ親しんだ茅ヶ崎を過ぎ鎌倉へ到着するまでの国道、休日ともなれば常に車で渋滞する。ノロノロ運転する車列を横目に、スイスイとペダルをこぎ追い抜いていくのは爽快でしかない。

 

 ただ、今日のように海風が強く吹き荒れると、多少は厄介なのだが。


 砂浜に隣接するサイクリングロードに入ると、風に吹き飛ばされた砂が、まともに顔に飛んでくる。

 そうなると悲劇だ。

 それは避けられない運命のように、楽しかったサイクリングを最悪の選択にしてしまう。


 ちょうど、ジニが砂粒が入った目をしょぼしょぼさせ、涙で洗い流しながら、ペダルをこいでいるように。


 静岡にある祖母宅から休みなく走って、ここまで二時間ほどかかった。


 梅雨時の晴れ間。昨日、雨が降ったせいか、空気が洗われ風は強いが心地よい。


 曇り空でもジリジリと首筋が焼ける。色白の素肌は日焼けで黒くなることはなく、厄介なことに火傷のように赤く変色するだけだ。


 この痛みこそが生きている実感かもしれない。



 

 今朝方、山間部にある祖母の家から引越し荷物を軽トラックで送っている。送り先は湘南の民宿で、元警察官僚の永添十紀夫ながぞえときおが退職後にはじめた宿だ。


 たいした荷物はない。引越し先まで自転車で向かうことにしたのは、電車代を節約できると考えたからだ。


「婆ちゃんは一緒に行けないけどな。ジニや、今度こそ、ちゃんとやってな。新しい高校で友だちをつくってな」


 ジニは無表情のまま静かにうなずいた。無理な願いと思ったが何も言わない。


 人とうまく付き合うのは苦手だった。自分の力が及ばないことが多いし、面倒だとも思う。左右の口角を無理に上げ目を細め、練習した笑顔を作ることで返事にかえる。

 

 それから、どこか上の空の顔つきで軽く頭を下げ、自転車で坂をくだる。


 曲がり角で一度だけ振りかえった。

 シワの多い顔をくしゃくしゃにして、笑っているのか泣いているのか微妙な表情を浮かべながら祖母はまだ手を振っている。親族で唯一、ジニの味方だ。


 キキキッとブレーキをかけ、停車して片足を地面につけた。

 手を振った。

 それが精一杯の愛情表現とでもいうように声をあげた。


「じゃあな、婆ちゃん」

「ああ、元気でな。無理せんと、体を大事にせいやぁ!」


 もう一度、手をふると、坂道をブレーキをかけずに駆け降りていく。

 強風に髪が逆立つ。

 目を細め、注意も払わず、乱暴に、まるで死に急ぐように滑走していく。


 山沿いの坂道を熱海市内まで猛スピードでくだると、そのまま海岸線に出て休みなくペダルを踏んだ……。


 この国道は、熱海から箱根を過ぎ大磯あたりから、渋滞になりがちだ。

 自転車なら渋滞に巻き込まれることがない。引越し荷物を積んだ軽トラックより早く、住み込みで働く民宿に到着できるかもしれない。


 高校へ通う以外の時間、働くことを条件に住むことが決まっている。


「面倒はおこしません」

「ああ、わかっとるよ。心配せんでええ。それに、あんたみたいなイケメンがいてくれると、女の子たちに人気の宿になりそうだ」と、永添ながぞえのジッサマはシワの多い顔をくしゃくしゃにして笑った。


 民宿の亭主、永添十紀夫ながぞえときおは六十歳で警察官を退職したのち、民宿を経営しながら非行少年の社会復帰を助けるボランティア保護司である。




 汗をはらうために、空を見上げ乱暴に首をふった。

 雲が多く、空を灰色に染めている。


 新しい高校へ編入する。

 彼のことを、まったく知らない同級生たちと出会う。普通なら不安を感じるだろうが、ジニはそういう感情を持たない。


 彼は中学生で起こした婦女暴行事件がきっかけで家庭裁判所送りになっていた。精神鑑定を受けた後、精神病院の閉鎖病棟に措置入院になった過去がある。


 その後、祖母の家へ厄介になったのは、実母が行方知れずになったからだ。

 

 しかし、そこも安住の地ではなかった。

 一年遅れで入学した地元の高校を退学するよう、親族から強要された。未婚のままジニを産んだ母の悪評のせいもある。


 静岡の山沿い、辺鄙な田舎町では周囲はみな親戚のように濃い関係だ。村の、ほぼ全員が祖父母の代から知り合い。血のつながりよりも濃い人間関係のなかで……、


「あそこの息子は母親もあれだから。血は争えんて。恐ろしい事件を起こした。また、やるかもしれん」などという噂話が毎日のように繰り返される。


 山間部の平和な村で──。

 未婚の母、息子は家庭裁判所送りでは色メガネで見られても仕方ない。


 十八年の人生で、ジニは耐えることに慣れた。慣れた自分が悲しいと思うような、ざらついた感情は捨てたが、祖母はいたたまれなかっただろう。


「なあ、ジニくん。あんたが悪いわけじゃない。ないけどなぁ、あんな事件を起こしちゃあな。いや、わかっとる。あんたも辛かろう」


 近所に住む叔父は信じてもいない言葉を口にする。ジニは何も言わない。



(つづく)

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