第6話 迷走する殺人事件 




「ジニ……、ジニはどこにいるの?」


 ヒマリは困惑して彼の名前を呼んだ。

 メール内容をアオイから見せられても、書いた記憶がないのだ。もどかしいというよりも不可解だった。

 こんなことが実際にあるのだろうか。

 校門を振り返ると、クラブ活動を中断した生徒たちが続々と帰途につき、『すみやかに下校してください』という校内放送が繰り返されている。

 ジニの姿が見えない。


「ジニがいないわよ。ね、ミコト」と、アオイが聞いた。

「うん、誰も彼を見てないわ」

「変よね。ヒマリ、何か聞いてないの? 中学の頃、病院で何があったの? まちがいなくジニは、そんときに会った子だと思うけど」

「……わからない。ママが……」

「ヒマリ、病院で何をされたの。なんだか、怖いわよ。ほら、このメールは間違いなくあんたが送ってきたのよ」


 アオイが目前に掲げるスマホには、ヒマリが書いた文がキラキラしている。


『すっごいイケメン少年発見、まるで天使』


 この内容は、たしかに自分が書いたものだろう。しかし……。


 ──どういうことだろう?

 ──どういうことなんだろうか?


『ヒマリちゃん、ママが助けてあげるからね。かわいそうな可愛い子』と、当時の病院で母が言った。

 その後の記憶がない。

 いったい母はあの病院で、どんな治療を選んだのか。


 ジニに出会っていたら、ぜったいに忘れるはずがない。誰もが振り返るような、印象的な男子なのだ。三年前だって、おそろしく目立っていたにちがいない。

 完全に欠落した記憶、頭痛がして吐きそうだ。

 それから、どうやって自宅に帰ったのかわからなかった。


「た、ただいま」


 自宅に戻った瞬間に玄関のたたき台で倒れてしまった。室内に入って来ないヒマリを不審に思い、母が出てきた。


「きゃああ、ヒーちゃん、ヒマリちゃん。どうしたの! 顔色が悪いわ。頭が痛いの。お薬を飲む? ああ、どうしましょう、どうしましょう」


 母がオロオロしている。これ以上、心配させると逆に母が倒れてしまうから、ヒマリは無理して起き上がった。

 母は子どもの頃からいつもそうだった。

 ヒマリが風邪を引けば、心配のあまり熱を出して寝込み、母のほうがさらに重い病にかかった。

 ヒマリを守ることに集中して、「危ないから、それは危ないから」と、簡単な冒険もさせない。


 母の言葉はいつも同じだ。優しさという化粧を塗った拘束で、真綿で締めるようにヒマリを離さない。


『ママの大切なヒマリが外で怖い思いをしたらと思うと、心配で心配で。ヒマリ、大事なかわいいママの娘。危ないことをしちゃあだめよ。あなたに何かあったら、ママは死んでしまうわ』と、小さい頃から同じ言葉を繰り返し聞かされてきた。


 幼い頃でも、それは少し異常だと感じた。

 例えば、わが子が転んでも他の親は母ほどは心配しない。しかし、母は転んだりすれば半狂乱になって走り寄ってくる。


 だから、この日も玄関で青ざめている母に、「大丈夫よ、ママ。軽い熱中症よ」とほほ笑んだ。


「そうなの、お外が暑かったのね」


 キッチンの椅子に腰を下ろすと、母が生暖かい水をコップに入れてくれた。夏でも氷の入った冷水はお腹を壊すからと常に生水だ。


「ママ、中学生の頃、一ノ瀬病院に入院していたでしょ」

「まあ、ヒマリちゃん。あの頃は本当に大変だったわよね。苦しそうな様子を見ているだけでも、ママは辛かったわ」

「わたしの記憶がないの。何かしたのね」

「ヒーちゃん、どうしたの? そんな怖い顔をして、ママがヒマリちゃんに悪いことなんて、するわけがないでしょ」


 その言葉でヒマリは確信した。

 あの病院で何かがあった。それが何か、もう少しで思い出せそうだった。


「ママ、ママ、わたし、思い出したの……」


 母の手がかすかに震えている。

 母はいつもそうだ。都合が悪くなると病気になって脅迫してくる。


「ど、どうしたの、ヒマリ。もうずっと大丈夫だったでしょ?」


 どこまでも冷えきった感情が湧きあがってくる。

 ヒマリは気づいていた。怖かったのは自分ではなく、母だったのだと。母の恐怖がヒマリを臆病にして閉じ込めているのだと。


「ママ、どうして、あんなことをしたの? 病院の治療で、わたしの記憶を奪ったでしょ」

「ヒマリちゃん、何をバカなことを言っているの」


 母の目が泳いでいる。また、倒れるかもしれない。顔に汗がふきだしている。そんなときは必ず血圧が二百近くまで上がって、最終的に倒れる。


「ママ……。わたしはずっと怖かったのよ。なぜかわかる?」

「ヒーちゃん。何を言っているの」

「ママがいつも必要以上にわたしを守るから、わたしは何もできなくなった。でも、わたしは守られるんじゃなくて、ひとりで歩きたいの。わたしはママのお人形じゃない。臆病でびくびくしながら生きてきたのは、ママのせいよ」


 ヒマリは興奮して言いつのった。これまで、心の奥底に溜めてきた灰汁を吐き出すように、激した感情が止まらなくなった。


「ヒ、ヒマリちゃんが犯罪者と話しているのを見てしまったのよ。だからなの、ダメよ。大人になればわかるわ。ね、ヒーちゃん、ああ、ママ、気分が悪くなってきた」

「ママ、倒れないで! 今、倒れたら、この家に二度と戻ってこないから! わたしは操り人形じゃないの。自分の意思で生きたいの。わからない? ママのしたことを思い出したのよ。ぜったいに忘れたくなかったのに、忘れさせてしまったことを思い出した」


 ──ジニ、ジニ、ジニ。そうだ、わたしたちはあの中庭で、わたしたちだけの時を過ごした。


 ヒマリは自分の部屋に入ると、泣きながらアオイに連絡した。

 翌日、学校は休校になり、止める母を振り切ってアオイたちのもとへ走った。はじめて母にした反抗は後ろめたいが、同時に生きている誇りを感じた。


「よくやった、ヒマリ」と、アオイが褒めた。

「これで、いいの? これでいいのよね」

「そうよ。もう母親から自立しなきゃ」

「でも、みんな。うちのママ、なかなか手強いのよ」

「あんたには、わたしらがついてるよ」


 ミコトが大袈裟に受けあった。その根拠は希薄だが、それでも、ヒマリはやっと自分の足で歩く手応えを感じた。




(つづく)

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