第二十二話 夫婦なので同室です

 シェリーンは思わず隣に立つリュデロギスを見た。彼はとぼけたようにこちらを見返す。


「どうした?」

「し、寝室はギルガ宮のように別々のはずでは……?」

ギルガ宮では・・・・・・な」


 そういえば、婚前契約書にはこう書かれていた。『ギルガ宮の夫婦の寝室は分ける』と。

 つまり、あの条項はギルガ宮限定の契約だったのだ。


(で、でも、ベッドは別々だし……!)


 そう思い込もうとしたが、激しく動揺してしまったシェリーンは心ここにあらずといった調子で夜までを過ごした。せっかくリュデロギスが勉強を教えてくれているのに、全く頭に入ってこない。


 ギルガ宮の湯殿に引けを取らない浴場でさっぱりしたあとで、スイートルームの居間にあるダイニングセットでリュデロギスと夕食を摂る。

 ずっと頭の中を占めているのは、今夜無事に過ごせるか、ということだ。


 食事が終わり、歯を磨き終えたシェリーンは、随行している衣装女官のグラジナとボジェナが用意した寝巻きに着替えさせてもらった。ドキドキしながら寝室に入る。

 いつもなら寝室女官のニーカとマイヤが待機しているのだが、今夜シェリーンを待っていたのはリュデロギスだった。もしかして、人払いずみなのだろうか。


「シェリーン、ベッドに座れ」


 リュデロギスの声には抗いがたい力がある。優しく命じられ、シェリーンはおずおずと従った。

 リュデロギスはシェリーンの隣に座る。列車に乗っていた時よりも距離が近すぎて、めまいがしそうだ。


「予とあなたは、今日夫婦になった。そうだな?」

「はい……」

「で、シェリーン、いつになったらその気になってくれるのだ?」


 そう。考えてみなくても、今夜は新婚初夜なのである。多くの夫婦が「本当の意味で」結ばれる夜だ。

 シェリーンが答えられずにいると、リュデロギスが大きな手で左のほおを包み込んだ。長い指がほおをなぜる。それだけでシェリーンの背筋はじん、としびれた。

 リュデロギスが獲物を追い詰めた猛禽もうきんのような目で、シェリーンの瞳をのぞき込んでくる。


「準備ができているのなら、キスをしてもよいのだったな」


 返答する前に、シェリーンはリュデロギスに唇を奪われていた。初めは結婚式の時のような触れるだけのキス。しかし、リュデロギスは何度もシェリーンに口づけ、次第にその動きが食むようなものに変わってきた。

 胸が甘くうずき、彼のこと以外、何も考えられなくなる。


「ん……」


 シェリーンが声を漏らすと、リュデロギスは様子をうかがうように唇を離した。熱を持ったように燃えるバイオレットスピネル色の瞳が、じっとこちらを見つめている。

 バクバクと音を立てる心臓の音から気をそらすために、シェリーンはうわずった声で抗議する。


「こっ、婚前契約書によると、夜の生活はお互いの合意が必要では!?」


 リュデロギスには全く応えた様子がない。むしろ、楽しそうにシェリーンを見下ろしている。


「そうだな。ゆえに、あなたの許可がいる。予は、これでも我慢しているのだぞ?」


 リュデロギスの手が背に回され、優しく抱き寄せられる。少し力を強められ、シェリーンの顔は彼の胸に押し当てられた。

 やっぱりそうだ。リュデロギスに抱き寄せられ、くっついていると、胸が高鳴る反面、酷く安心する。


(このまま、わたしが首を縦に振れば、陛下と本当の夫婦に……)


 そこまで考えて、シェリーンはハッとした。

 その結果、もし、つまらない女だと思われてしまったら……?

 幸運の子としては必要とされても、リュデロギスがもう優しい眼差しを向けてくれなくなったら……?

 気づくと、シェリーンはこう言っていた。


「陛下にはよくしていただいておりますし、お応えしたいのも山々ですが、まだ心の準備が……」


 リュデロギスは腕に込めた力を抜き、シェリーンに顔を近づけた。彼のぞっとするほど美しいかんばせが、すぐ目の前にある。リュデロギスは銀色の眉を下げ、その顔立ちに似合わぬ、しゅんとした表情をしていた。


「……予のことが嫌いか?」


 普段はこちらがとろけてしまいそうになるくらい優しくて、時に魔帝そのものの威厳を見せて。


(なのに、多分、わたしにだけ、こんな表情を見せてくれる……)


 シェリーンは初めてリュデロギスのことを可愛いと思った。

 彼の優しいところが好き。

 いつも自信にあふれていて、揺るがないところが好き。

 自分を見るたびに、目を細めて笑ってくれるところが好き。

 他にも好きなところがたくさんあって、数えきれない。


 ようやく気づいた。自分は出会った日から彼にかれ続け、今ではどうしようもなく好きだということに。

「好きです」と伝えたかった。だが、シェリーンは真実とは微妙に異なることを口にした。


「好きか嫌いかで言えば……好き、です」

「そうか! 嫌いではないのだな?」


 リュデロギスは安堵あんどしたように笑うと、シェリーンの額にキスを落とした。そのまま立ち上がり、隣のベッドに向かう。

 この気持ちはなんなのだろう。ホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちだ。


(……ごめんなさい、陛下)


 自分は意気地なしだと思う。彼のことが好きだからこそ、信じられない。「好き」と言ってしまったら、今ある幸せが全て壊れてしまうような気がして怖いのだ。

 ずっと虐げられてきたから、心から幸せになった自分を想像できない。

 ベッドに入ったリュデロギスが身体を横向きにし、少し照れたように笑いかけてくる。


「おやすみ、シェリーン」

「おやすみなさいませ、陛下」


 とても幸せなのに、シェリーンは泣き出したいような気持ちをこらえながらそう応え、自分もベッドの中に潜った。

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