第三十話 リュデロギスの怒り
シェリーンの心配をよそに、宮殿では何事も起こらなかった。
翌日は近隣の街や村落に出かけ、今までと同じように民衆の前に姿を見せる。
ザンターグは
魔道列車に乗っている時に初めて海を見たシェリーンは心を動かされ、この地に連れてきてくれたリュデロギスに感謝した。
巡幸の合間に、リュデロギスはシェリーンを繁華街に連れていってくれた。もちろん、正体がばれないようにかつらや眼鏡で変装して。黒いかつらをつけ、サングラスをかけたリュデロギスはいつもと雰囲気が違い、とても絵になった。
ザンターグの街には露店を含めた飲食店が集まっている区域があり、店内での飲食だけでなく、自由に食べ歩きができる。
街は多くの人でにぎわっている。こうして街中を歩くのも、食べ歩きをするのも人生初のシェリーンは、ワクワクしながらリュデロギスとのデートを楽しんだ。
ふわふわの生地に熱々の魔物の肉がぎっしり詰まった
シェリーンは思わずはしゃいでしまった。
「ザンターグの食べ物は、どれも美味しいですね!」
「そうだろう。楽しんでくれているようで何よりだ。あなたをここに連れてきてよかった」
リュデロギスは喜ぶシェリーンを見て、優しい笑みを浮かべた。
ザンターグに来てからは素敵なことばかりだ。宮殿の図書室にギルガ宮と同じく、幸運の子に関する本が一冊もないことを不思議に思いはしたが、異常事態は何も起こらないうちに、ザンターグに滞在するようになって四日が過ぎ去ろうとしていた。
(わたしの思い過ごしだったのかしら……)
疑ってしまったラジンに対して申し訳ない気持ちになりながら、その日の夜もリュデロギスとの夕食のあと、シェリーンは湯殿で湯浴みをすませた。
衣装女官のグラジナとボジェナに着替えさせてもらったあとで、リュデロギスから婚約の証に贈られたルビーのペンダントと、夫婦の証であるアメシストの腕輪をつける。身につけているとリュデロギスが喜ぶので、眠る時以外はできるだけつけるようにしている。
グラジナとボジェナが下がったあとは、武装女官のナンヌとカチャに付き添われ、自分たち夫婦が泊まっている貴賓室に向けて歩き出す。多くの御殿と部屋がある宮殿なのに、リュデロギスはシェリーンと同室になりたがったのだ。今夜も「おやすみのキス」をねだられることは必至だろう。
ほおを染めながら歩いていると、普段は寡黙なナンヌとカチャがシェリーンを守るように前に出た。
「魔后陛下、我々からお離れになりませぬよう」
シェリーンが返答する前に、数人の男たちが姿を現した。リーダー格の男が指を鳴らすと、他の男たちが武器を構えながらナンヌとカチャに襲いかかる。
二本の短剣を抜き、応戦していたナンヌが腹に攻撃を喰らい、咳き込みながらうずくまる。長剣を振るっていたカチャも首に手刀を受け、倒れ伏す。
「ナンヌ、カチャ!」
シェリーンは悲鳴のように二人の名を呼ぶ。男たちの一人がシェリーンの背後に回り込む。すぐさま身体を拘束され、抵抗むなしく何かの魔法をかけられる。
シェリーンの意識は闇に落ちた。
***
目を覚ますと、顔に当たる布の感触とともに黒い視界が広がっていた。目隠しをされているらしい。口元にも違和感があるので、猿ぐつわもはめられているようだ。おそらくは椅子にかけさせられていることが分かる。
(そうだわ。わたしは寝室に戻る途中で襲われて……。ナンヌとカチャは無事かしら……。それに、ここはどこ……?)
身体も縛られているらしく、身動きが取れない。
あの襲撃からどのくらい時間がたったのだろう。リュデロギスが心配しているのではないだろうか。
まさか、宮殿内でこんな目に遭うとは思っていなかった。この宮殿に出入りする者の中に、シェリーンが魔后となったことをよく思わない者がいるということだろうか。
(あ……)
数日前、シェリーンを鋭い目で見ていたラジン総督の顔が脳裏によぎる。
その時、扉を開ける音と複数の靴音がした。
「目隠しを外して差し上げろ」
聞き覚えのある声だった。
目隠しが外される。室内は薄暗く、魔道具のランプが置いてあるだけだ。その中に浮かび上がるようにラジンがたたずんでいた。
「『なぜ、こんなことを』とおっしゃりたい目ですな」
猿ぐつわをかまされたままなので、シェリーンは答えられない。
「魔帝陛下は覇王であるべきなのです」
ラジンの言葉が何を意味するのか分からず、シェリーンは瞬いた。
「お分かりにならないか。魔帝陛下は覇王であるべきなのに、あなたをお后に迎えたせいで覇気を失われたのです。新聞に載っていた、あなたと写る陛下のお写真はどれもお幸せそうで――このままでは陛下が
(そんなことで……! リュデさまが幸せになってはいけないというの……!?)
同じ重用されている臣下でも、ラジンはレディオンとは全く違う。レディオンは心からリュデロギスの幸せを願っている。それにひきかえ、ラジンは自身の理想をリュデロギスに押しつけているのだ。
口答えしたいのに、猿ぐつわのせいで喉から出た声は明瞭な言葉になってくれない。
「魔帝陛下はやがて、全ての大陸を手中に収めるお方。魔后はただ、お世継ぎを生んでくれさえすれば、それでよいのです」
(リュデさまはそんなことを望んでいらっしゃらないわ!)
「幸運の子を殺すのはご法度ゆえに、あなたには魔帝陛下の手の届かない
(婚姻して間もない今なら……?)
どういうことだろう。不審に思いはしたが、それよりも今は重要なことがある。
(リュデさまと離れたくない……!)
なんとかここを脱出しなくては。ラジンの他には部屋の中に男が二人。魔法は声が出せなければ使えない。身体は戒められている。
絶望的な状況だが、諦めてはいけない。
そう思った瞬間。扉が音高く開いた。
現れたのは、この世のものとは思えぬほどの美貌の男性――リュデロギスだった。
部屋の奥にいるシェリーンと彼の目が合う。リュデロギスは一瞬、
リュデロギスはシェリーンから視線を外すと、ラジンを射すくめる。
「言い訳は聞かぬ。予の后をさらうなど、到底赦されることではない」
「し、しかし、陛下……! この女性とおいでになっては、陛下の覇気が曇りまする……!」
「言い訳は聞かぬ、と言ったはずだ」
リュデロギスの身体から魔力がほとばしり、ラジンと彼の配下の男たちは壁に叩きつけられた。
リュデロギスは憤怒の形相をして、衝撃で気を失いかけているであろうラジンに向け、歩を進めていく。
ラジンの前に立ったリュデロギスはその首をつかむと、片手でだけでギリギリと絞め上げた。
(リュデさま、いけない……!!)
シェリーンは椅子に縛りつけられた身体を動かし、あらん限りの声を上げた。
リュデロギスが我に返ったように振り向き、シェリーンに駆け寄る。
「シェリーン、怪我はないか? 他に何もされてはいないか?」
リュデロギスが猿ぐつわと縄を外してくれた。シェリーンは強がってほほえむ。
「わたしは大丈夫です。それよりも、リュデさま、彼に裁判を受けさせてあげてください。リュデさまはこの国を治める魔帝。そのお方が法によらない裁きを下されてよいはずがありません」
リュデロギスはしばらく言葉に詰まっていたが、やがて表情を緩めた。
「シェリーン、まったくあなたは……」
それから、リュデロギスは部屋の外で待機していたらしい臣下たちを呼び寄せ、ラジンたちを連行するように命じた。リュデロギスは再びシェリーンに近づくと、その背と膝裏に手を回し、軽々と抱き上げる。
「リュ、リュデさま……?」
「疲れただろう。このまま部屋に戻る」
シェリーンは「歩けます」と言おうとしたけれど、リュデロギスと密着していることが心地よく、おずおずと彼の首に腕を回した。
リュデロギスがバイオレットスピネル色の目を優しく細める。先ほどまで、あれほど激怒していた人と同一人物だとは思えないくらいだ。
ホッとしたからか、さらわれるまでの記憶がよみがえる。
「あの、ナンヌとカチャは……?」
「少し怪我を負い、縛られていたが、大事ない。なんとか自力で戒めを解いたナンヌが、予にあなたがさらわれたことを教えてくれたのだ。『魔后陛下をお守りできず申し訳ございません』とわびていたぞ。仕方ない。今回は敵が手練だった上に数が多すぎた」
「まあ……二人に安心してもらうためにも、これから会いにいってはいけませんか?」
「今夜はだめだ。もう予から離れるな」
低い声で甘くささやかれ、シェリーンの心臓がドキンと跳ねた。
(どういう……意味かしら……?)
シェリーンは御殿のひとつにある地下室に閉じ込められていたらしい。シェリーンを抱き上げたまま、リュデロギスは月明かりに照らされた宮殿の敷地内を歩き、宿泊している貴賓室のある御殿に入った。
道すがら、リュデロギスが話してくれた。多数の兵士を動員して宮殿を家捜しすれば、首謀者がシェリーンを連れて逃げる可能性が高いと判断し、衛兵たちには、怪しい者がいた場合のみ報告するよう命じたのだという。
幸い、シェリーンの居場所はすぐに特定できたので、リュデロギスは少数の臣下とともに捜し当ててくれたのだった。
二階に上がったリュデロギスは、シェリーンの無事な姿に胸をなで下ろした様子の衛兵に扉を開けてもらい、貴賓室に戻る。並んだ二台のベッドの片方に、シェリーンはようやく下ろされた。
「シェリーン、無事で本当によかった……!」
シェリーンは隣に座ったリュデロギスに強く抱きしめられた。
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