第三十五話 初めての夫婦ゲンカ

 シェリーンは午後の診療に同席したものの、半ば上の空だった。院長や看護師たちに心配されてしまったほどだ。


(リュデさまの真意を確かめないと……)


 診療所での初日は、シェリーンにとって苦いものとなった。

 宮殿に帰ったシェリーンは玄関ホールでリュデロギスに出迎えられた。うしろにはレディオンも控えている。

 リュデロギスは幼子を心配する親のような顔をしていた。


「シェリーン、診療所はどうだった? 嫌な目には遭わなかったか?」


 そうやって過保護にシェリーンを心配してくれる様は、いつもの彼だ。それだけに、あんな重要なことを自分に隠していたという事実がどうしても受け入れがたく、シェリーンは初めて夫に怒りに似たものを感じた。

 普段とは違うシェリーンの様子に気づいたのだろうか。リュデロギスの表情が怪訝けげんなものに変わる。


「どうした、シェリーン。やはり何か――」

「ある方から、アルカンの現状について聞きました。そして、幸運の子の力には反作用があることも」


 リュデロギスは目を見張った。

 その反応に、シェリーンは彼が故意に真実を隠していたのだということを確信した。胸に悲しみが広がっていく。


「……どうして、そんなに大切なことを――わたしにとって大切なことを黙っていらっしゃったのですか。情報統制までなさって」


 リュデロギスが何かを答えようと口を開きかけた時、レディオンが前に進み出た。


「お二人とも、場所を変えましょう」


 確かに、この玄関ホールでは廷臣たちの目についてしまう。

 シェリーンもリュデロギスもうなずき、場所は魔帝夫妻の居間に移された。ナンヌとカチャは控えの間で待ち、レディオンだけがシェリーンとリュデロギスの要望で部屋に入る。

 一同がソファにかけると、リュデロギスが話を再開した。


「……なぜ黙っていたのかという質問だったな。あなたがアルカンに戻ると言い出しかねないし、自身の力を恐ろしく思うかもしれないので、あえて黙っていた」


 リュデロギスの表情は硬い。シェリーンは夫が情報を隠していたことに罪悪感を抱いているのだと分かり、わずかに安堵あんどした。


「それでも……わたしは知りたかった。自分に関わる重要なことですから。アルカンのことも、ここまで事態が深刻になる前に知っておきたかった……」

「だが、あなたが幸運の子の能力についてアルカン国王に話したとして、先方がそれを信じたかどうか」

「そういう問題ではないのです」


 シェリーンはリュデロギスの目を見つめた。


「わたしは父や継母、異母妹のことを家族だとは思っておりません。それは、あちらも同じでしょう。ですが、アルカンの国民が気の毒です。わたしに何か危害を加えたわけでもないのに、酷い目に遭って、命までも脅かされて――」

「あなたを虐げていた王室を敬い、肥え太らせていたアルカン国民も同罪だ」


 そう断じたリュデロギスのバイオレットスピネル色の瞳は怒りに満ち、炎が踊っているかのようだった。

 彼は直接的にしろ間接的にしろ、シェリーンを追い詰めた者たちを赦さない。おそらく彼は、アルカンなど滅んでしまえばいいと心から思っている。ただ、シェリーンのためだけに。


 恐ろしい人だと思う。

 それでも、不思議と彼を慕う気持ちはすり減らなかった。

 シェリーンは尋ねた。


「……どうすれば、アルカンの崩壊を止められますか?」

「一度没落が始まると、あなたがアルカンに帰らない限り、その一族は必ず不運に見舞われる。一族が完全に没落し、国の中枢から去れば破壊作用も消え、国も平和になるだろう」

「完全に没落……それは、命を奪われるような事態に発展しないと、どうにもならないということですか?」


 そんなことを自分は望んでいない。

 リュデロギスは容赦なく答えた。


「場合による。一族郎党が死に絶えて没落が終わった例もあれば、命までは奪われなかった例もある」


 シェリーンはすがるような目をしていたのかもしれない。リュデロギスが鋭く言い放つ。


「いずれにせよ、あなたは絶対に帰さない」


 リュデロギスが言わんとすることは理解できる。シェリーンが帰れば、継母たちからまた危害を加えられる可能性がある。それに、ディンゼが傾く可能性も。

 この国に来てからまだ二か月。それでも、シェリーンはディンゼとここに住む人々を好きになり始めていた。そして、今目の前にいる人は、シェリーンが絶対に不幸になって欲しくない人だ。

 だからこそ、シェリーンはどうしたらいいのか分からなかった。

 それとは別に、シェリーンにはどうしてもリュデロギスに聞いておきたいことがある。


「……あなたがわたしをアルカンに帰したくないのは……わたしが幸運の子だからですか……? だから今まで大切にしてくださったのですか……? わたしを手放すと破滅が待っているから……?」


 それは、ワーズワースに幸運の力の反作用について聞いてから、ずっと頭の中で鎌首をもたげていた疑問だった。

 もし、「そうだ」と言われてしまったら、それこそ自分の存在意義は失われてしまうだろう。シェリーンの中で芽吹き始めていた自信は、リュデロギスが与え、育んでくれたものだったから。

 それでも、聞かずにはいられなかった。

 リュデロギスは目を見開き、絞り出すように答えた。


「違う……!」


 今まで黙って様子を見守っていたレディオンが、静かに言った。


「お二人とも、頭をお冷やしになってください。これ以上のお話し合いはお互いを傷つけるだけです」


 シェリーンはハッとした。


(わたし……わたしは、リュデさまを傷つけてしまったのだわ……)


 謝るべきなのか、どう謝ったらよいのか、シェリーンが混乱していると、レディオンが真紅の瞳をこちらに向けた。


「魔帝陛下はアルカンに食糧援助をなさるおつもりです。本当にアルカンを滅ぼしたいのなら、そんな回りくどいことはなさいません。それも含めて、なぜ魔帝陛下があなたを大切になさっているかは、魔后まこう陛下が一番よく分かっておいでになるのでは?」


 その言葉は、シェリーンの胸を激しく揺さぶった。

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