第十二話 読書がしたいです
時は遡る。イザドラがリュデロギスへの偏見を覆される八時間ほど前、初めてギルガ宮での朝を迎えたシェリーンは、ぱっちりと目を覚ましていた。
天蓋を見つめながら、今自分がいる場所について思い出す。ボーっとしていると、チリンとベルの音が響いた。「失礼いたします。おはようございます、魔后陛下」という声がして、天蓋カーテンが開けられる。寝室女官のニーカとマイヤだ。
「おはようございます、ニーカ、マイヤ。今日もよろしくね」
彼女たちが持ってきた水盆で洗顔をすませると、衣装女官のグラジナとボジェナが既に衣装を手に控えていた。シェリーンは挨拶をしたあとで、彼女たちに着替えさせてもらう。
昨日、湯浴みのあとに着た服のようにシンプルなデザインで、きゅっとウェストが絞られているものの、やはり身体を締めつけない作りで動きやすそうだ。姿見を見ると、淡紅色のその服はシェリーンの肌や髪、瞳の色によく映えている。ピンクベージュの靴も可愛らしい。
「服ひとつでこうも印象が変わるのね。グラジナとボジェナはすごいわ!」
「めっそうもございません。魔后陛下が元々お美しいからでございます」
謙遜しながらも、二人は嬉しそうだ。
ニーカとマイヤに髪を整えてもらう。きれいなひとつ結びの編み込みに仕上がった。
再びベルの音が響き、女官長のフィオレンザが入室してきた。
「魔后陛下、昨夜はよくお眠りになれましたか?」
「ええ、みながよくしてくれるおかげです」
「それはようございました。早速ですが、今日のご予定をお伝えいたします。このあとは食堂で魔帝陛下とご朝食をお摂りくださいませ。お食事とお湯浴みの時以外は自由時間ですが、本日はご昼食のあとに廷臣の方々とのご引見が控えておりますので、その直前にお召し替えとお化粧直しをお願いいたします。人族の王侯が花嫁を迎えた時に行う、レセプションの代わりと思ってくださいませ」
廷臣たちと引見、と聞き、シェリーンは今から緊張してしまった。
(まだ魔族の言葉が分からないのに大丈夫かしら……? 全員がアルカン語を理解できるわけではないわよね……)
フィオレンザがこちらを安心させるようにほほえむ。
「大丈夫でございますよ。魔帝陛下もご同席なさいますから。通訳も付きますし」
「それを聞いて安心しました」
シェリーンは武装女官のナンヌとカチャに付き添われ、食堂へ向かった。まだ慣れないながらレリーフに手を伸ばして自動扉を開け、ナンヌとカチャに別れを告げる。
部屋に入ると、中ではリュデロギスが待っていた。シェリーンと目が合った瞬間、優しく笑う。たったそれだけのことで、シェリーンはドキッとしてしまった。
「おはよう、シェリーン。よく眠れたか?」
「はい、おかげさまで。おはようございます、陛下」
給仕が引いてくれた椅子に、礼を言ったあとで腰かける。
リュデロギスが言った。
「飲み物は何がよい? コーヒーを含めて茶ならなんでも出せるし、ミルクも数種類は用意している。ジュースでもよいぞ」
ジュースなんて、ここ何年も飲んでいない。
「そうですね。では、フルーツジュースをお願いいたします」
「予のお勧めはオレンジジュースだ。オレンジは東大陸で採れる果実でな。適度な酸味が朝にぴったりだ」
「まあ……楽しみです」
今日の朝食はパンにチーズとオリーブ、数種類のジャム、キューカンバー、見たことのないトマトという野菜、それにトマトやオニオンの入った半熟のスクランブルエッグだった。
アルカンでは食べたことのなかったピーマンという野菜も入っているが、どれも食感がよい。甘さを帯びたトマトの酸味とピーマンの苦味、オニオンの甘味が卵と調和していてとても美味しい。メネメンという東大陸の料理らしい。
リュデロギスお勧めのオレンジジュースは酸味があるのに甘くて飲み心地がいい。
「東大陸には色々な食材があるのですね……毎日何が食べられるか楽しみです」
「そう言ってくれると、予も嬉しいな。シェリーン、今日は廷臣たちとの引見が予定されていることは聞いていると思うが、それ以外の時間は自由だ。何かしたいことはないか?」
シェリーンは考え込んだ。いや、自分がしたいことはひとつしかない。
シェリーンは
「……読書がしたいです」
「そんなことでよいのか? それなら図書室に行くとよい。アルカンの言語で書かれた本もそれなりにある。食事を終えたら、予が案内しよう」
昨日もリュデロギスは、フィオレンザに押し切られるまでは自らシェリーンを案内してくれた。しかも、政務を早めに終わらせてまで。
(嬉しい……)
できるだけシェリーンと一緒にいようとしてくれるリュデロギスの心遣いを思うと、胸の内が温かくなる。
だが、シェリーンはその気持ちをうまく言い表せなかった。
「ありがとうございます、陛下」
至極簡単な言葉。それでも、リュデロギスは嬉しそうに笑ってくれた。
食事が終わると、リュデロギスは約束通りシェリーンを連れて図書室に向かった。うしろにはナンヌとカチャが付き従う。
シェリーンたちは
廊下を進むと、大きな扉の前でリュデロギスが止まった。
リュデロギスが自動扉を開け、「ついてこい」と言うようにこちらを振り返る。シェリーンはナンヌとカチャにしばしの別れを告げると、彼に続き、部屋の中に入った。
そこは、まさに楽園だった。シェリーンの大広間よりも広い部屋に、たくさんの書架。そこに、おびただしい数の本が並んでいる。出入り口付近のカウンターには女性司書の姿もある。
素晴らしい蔵書数だ。アルカン王宮の図書室だって、これほどまでの本はなかった。
シェリーンが感極まりながら周囲を見回していると、リュデロギスが司書のもとに向かい、魔族の言葉で何事かを話しかけた。
「少し待っていてくれ。アルカン語の本を持ってくる」
リュデロギスにそう言われ、シェリーンはうなずいた。待っている間に書架の本に手を伸ばし、中を開いてみる。
(婚前契約書に書いてあった文字と同じ……全く分からないけれど、これが魔族の文字なのね)
新しいインクと紙の匂いとはまた違う古い本特有の匂いがして、シェリーンはうっとりとした。
数冊の本を手に取って、ページをめくりながら待つことしばらく。
「待たせたな、シェリーン」
見ると、リュデロギスと司書が何冊もの本を抱えて立っている。彼らは手近にある机の上に本を置いた。
「これらは全て、アルカン語で書かれた本だ。最近の本も多いぞ。あなたを迎えるために、予が取り寄せて研究したからな」
「まあ、そうだったのですね。ありがとうございます……!」
ついつい声がうわずってしまう。
「文化や言語の本が多いのですね。それに歴史に社会情勢に経済の本、使われている魔法ランキングの本まで……とても興味深いわ!」
本の背表紙を見ながら興奮してしまい、シェリーンはハッと我に返る。感情を抑えきれずにはしゃいでしまった。魔后にはふさわしくない態度だったかもしれない。
だが、リュデロギスはほほえましいものを見る目でくすりと笑った。
「シェリーンは本当に本が好きなのだな」
「はい……」
彼の反応はそれはそれで恥ずかしく、シェリーンは思わず赤面した。
リュデロギスが机の前の椅子にかけたので、シェリーンもその向かいに座る。
「今は他に利用者がいないようだから、少し話してもよいか?」
リュデロギスにそう問われ、目の前の本が気になりながらもシェリーンは首肯する。
「あなたの好みを聞くのを忘れていたな。シェリーンはどんな本が好きなのだ?」
「……そのご質問にお答えするためには、少し話が長くなってしまうかもしれません。それでも、よろしいですか?」
シェリーンが問い返すと、リュデロギスは「むろんだ」と答えてくれた。
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