第十六話 トライメ先生の困りごと

「今日は魔族という概念についてご説明いたしましょう」


 トライメがぬいぐるみのような手で、魔族の各種族について書かれた本のページを指し示す。


(どうしよう。すごく可愛らしい……)

「魔后陛下?」


 うっとりとトライメの動作を眺めていたシェリーンは我に返った。今は文化の授業中だ。集中しなければ。


「は、はい! 魔族の概念についてですね!」

「さようでございます。魔后陛下は、魔帝陛下やレディオン閣下がわたしと同じ魔族に見えますか?」

「いえ……失礼ですが」


 シェリーンが頭を振ると、トライメはニコッと笑った。作り物のような外見なのに、ちゃんと表情があるのが不思議だ。


「でしょうね。魔帝陛下は様々な種族の優れた血を引いておいでです。レディオン閣下はヴァンパイア族、わたしはミニドール族ですね。つまり、魔族はたくさんの種族の集合体なのです。外見、能力、寿命が種族ごとに大きく異なるのも、それが理由です。ですが、同じ東大陸に住む民として、言語や包括的な――全てひっくるめた文化、宗教、歴史は共有している。人族でいうところの『民族』の概念に近いですね」


「そうなのですね……では、幸運の子はどのような位置づけなのでしょう?」

「幸運の子は突然変異といいますか、人族に近い外見に限り、魔族のどの種族にも生まれ得る特殊な存在ですね。ですが、魔族の血を引いている者からしか生まれないようです。魔后陛下もご自分が先祖返りだという説明を受けておいででしょう?」

「はい。わたしが幸運の子であるのに人族の子として生まれたのは、偶然の産物なのですね……」

「人族の、しかも王族としてお生まれになって、さぞご苦労も多かったでしょう」


 トライメがつぶらな黒い瞳に、こちらを労るような光を浮かべる。シェリーンは大いに癒やされたのだが、その直後、トライメはもじもじし始めた。可愛い。


「……魔后陛下は、アルカン王国のご出身でいらっしゃるのですよね?」

「はい。それが何か?」


 シェリーンが小首を傾げると、トライメは意を決したように告げる。


「実はですね、わたしは人族と西大陸の文化も研究しているのです。半分は趣味のようなものですが」

「まあ! そうなのですね」

「ですが、わたしは未だに西大陸を訪れたことがないのです。この姿では人族の中に紛れ込めませんし、変化の魔道具では長時間人族の姿になれません。わたしのことですから、熱中して人族の街を調べ回っているうちに魔道具の効果が切れて、大惨事……ということにもなりかねませんので、やむなく東大陸に住む人族の調査で満足せざるを得ない状況でして」


「それはご不便でしょう。ですが、少し意外でした。文明が進んでいる東大陸の方が西大陸に興味を持たれることもあるのですね」

「諸民族の文化を研究する民俗学というものがございます。西大陸の文化は素晴らしいですよ! 人族は魔族よりも寿命が短い分、情熱や激しく変遷する流行によって多彩な文化を作り上げてきました。その鮮烈さたるや、東大陸にはないものがあるのです。特に音楽や絵画は目を見張るものがございます。このギルガ宮ですら、飾られている絵画といえば、写実的な肖像画ばかり……繰り返された戦争の弊害ですね」


 トライメの熱弁に、シェリーンは目を丸くした。当たり前のように身近にあった人族の文化を、彼がこんなにも熱心に研究しているなんて。


(それに……わたしが文化面での不自由を感じずに過ごせているのは、きっと陛下のおかげね)


 アルカンのことを研究して、シェリーンの口に合うものを出してくれたり、アルカン語を話せる人たちを傍に置いてくれたり。

 自分がリュデロギスに返してあげられることはまだ少ないけれど、今、目の前にいるトライメの役に立つことはできるかもしれない。

 シェリーンは勇気を出してトライメに提案した。


「トライメ先生、よろしければ、わたしができる範囲でアルカンの文化についてお伝えしましょうか?」


 トライメは小さな顔をぱあっと輝かせた。


「本当でございますか!?」

「はい」


 トライメは彼専用の小さな椅子から床に下りると、服の内側から袋を取り出し、手を入れる。中から出てきたのはシェリーンもよく知る楽器――ヴァイオリンだった。


(まあ……大きなものでも収納しておけるのね。なんて便利な魔道具)


 トライメはヴァイオリンを大事そうに両手で抱えながら、シェリーンに問いかける。


「まだこれを弾ける人族に出会ったことがなくて。魔后陛下はお弾きになれますか?」

「はい。ブランクもありますし、あまりうまくは弾けないと思いますが」

「構いません! どうぞ!」


 シェリーンも立ち上がり、しゃがんでトライメからヴァイオリンを受け取る。再び椅子に座ると、シェリーンはヴァイオリンを構え、弓を弦に当てた。覚えている簡単な曲を弾き始める。

 演奏し終え、音の余韻が消えてしまうと、トライメが小さなもふもふした手で、一生懸命拍手してくれた。


「素晴らしい! この美しい音色! これがヴァイオリンで奏でる音楽なのですね! 次はこちらもお願いいたします。発明されてから十年もたっていない楽器なので、こちらも弾ける人に出会ったことがないのですよ」


 トライメが袋の中から出したのは、なんと一台のピアノだった。


(トライメ先生の腕力はどうなっているの……!?)


 心の中で突っ込みを入れつつ、シェリーンはピアノの前に椅子を運び、座った。

 シェリーンはヴァイオリンよりもピアノのほうが得意だ。母が最先端の楽器であるピアノを購入するまでは、ハープシコードを弾いていた。


 鍵盤を叩き、知っている曲を再現すると、トライメはステップを踏むように飛び跳ね、大興奮してくれた。

 気をよくしたシェリーンは次々と曲を演奏していく。

 曲を演奏するのも聴くのも約八年ぶりだ。音楽は読書ほど好きではないシェリーンも、次第に楽しくなってきた。

 三曲目に差しかかった時、突然トライメが気まずそうな声を上げた。


「あ……魔帝陛下」


 ピアノを弾くことに熱中していたシェリーンが振り向くと、扉の傍にリュデロギスの姿があった。


「廊下を歩いていたら、どこかから音楽が聴こえてくると思って来てみたが……シェリーンだったか。予のことは気にせずに続けてくれ」


 さすがのリュデロギスも、教師たちが真面目にシェリーンを指導してくれることに納得したらしく、ここ数日は授業の「監視」をすることをやめてくれたようだ。しかし、この部屋の近くまで足を伸ばしてきたということは、やはりシェリーンの様子が心配だったのかもしれない。

 リュデロギスの出現にトライメは何かを躊躇ちゅうちょしていたが、思い切ったように提案する。


「魔后陛下! ピアノの弾き語りは可能でしょうか?」

「弾き語り……ピアノを弾きながら、歌を歌うということですか?」

「さようでございます。あ、ご無理なようでしたら諦めますので、どうかお気遣いなきよう」


 シェリーンはリュデロギスのほうをちらりと見る。彼の前で歌うのは恥ずかしい。でも、トライメが喜んでくれるなら、やってみようと思えた。

 いきなり歌って声が出るか心配しつつも、簡単な曲を伴奏しながら歌唱する。

 歌い終えると、リュデロギスとトライメが拍手してくれた。


「シェリーンは楽器だけでなく、歌もうまいのだな。さすがだ」

「本当に! 今日一日だけでアルカンの文化への理解が深まりました! やはり、実際に見て聴くのと、書物で研究するのとでは大違いです。魔后陛下はよいご教育をお受けになりましたね」


 自分に教育を受けさせてくれた母のことを褒められたようで、シェリーンは嬉しい。アルカンで受けた教育が相当に高度なものだったことも理解でき、よりいっそう感謝の念が湧いた。

 何より、お世話になっているトライメの役に立つことができた。


「魔后陛下に出会えて、わたしは幸せ者です」


 トライメがしみじみとそう言うと、リュデロギスが突き刺すような鋭い視線を彼に送った。トライメはすかさず、「あ、そういう意味ではございませんので!」と否定する。

 リュデロギスは気を取り直したようにシェリーンを見やる。


「ピアノのように複雑な構造をした楽器はディンゼにはない。西大陸から何台か輸入して、弾き手を育ててみるのもよいかもしれぬな。予とシェリーンの子には、ピアノを習わせよう」


(まだ生まれるどころか、宿ってすらいません……!)


 婚前契約書には「子どもは無理に望まない」と書かれていたけれど、やはりリュデロギスは子どもが欲しいのだろうか。

 そのためには、「そういうこと」をする必要があるわけで。

 赤面するシェリーンを満足げに眺めたあとで、リュデロギスは言った。


「君主や王族が他国から妻を迎えると、上流階級の文化に大きな変化が起きるというが……我が国でも同じことが起きそうだな」


 とっさに反応を返せずにいるシェリーンの前で、トライメが大きくうなずいた。

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