第六話 婚前契約書と素晴らしい贈り物
あれは、母の葬儀が終わってすぐのことだ。見知らぬ若い女性とその娘が王宮に現れ、思うままに振る舞い始めたのは。
女性の名はキザイアといい、父王スティーヴンの愛人である伯爵令嬢だった。娘の名はイザドラ。二歳年下の、シェリーンの異母妹だという。彼女たちは初対面からシェリーンに嫌悪の眼差しを向けてきた。
「まるで魔族ね。こんな気味の悪い子は不吉だわ。わたしたちの目に触れないようにしてちょうだい」
ほどなく、キザイアは王妃となり、イザドラは王女となった。同時に、シェリーン付きの女官は一人に減らされ、家庭教師も解雇され、食事すら質素になっていった。二部屋あった私室もイザドラに奪われ、シェリーンの部屋は寝室だけとなった。
お気に入りのきれいなドレスも、母の形見の宝石も、全部イザドラが欲しがって持っていってしまう。
スティーヴンに話しても何もしてくれなかった。彼にしてみれば、長女のものが次女の手に移っただけで、自分は損をしていないのだからよい、というくらいの認識だったのかもしれない。
その上、第一王位継承権さえ取り上げられた。
母の死後から一年後の十一歳の時、シェリーンは離宮に幽閉されることとなった。目障りだ、という理由だけで。
シェリーンはスティーヴンに謁見を申し出、必死に訴えた。
「お父さま、なぜですか? わたしが何をしたとおっしゃるのです……! 決定は覆せないのですか!?」
その時のシェリーンは、まだスティーヴンに期待を持っていた。たとえ父親らしいことをしてくれない人でも、まさか実の娘を幽閉するようなことは許すまい、と思っていたのだ。
だが、スティーヴンは言った。
「王妃の言うことを聞け。今のそなたの母親はキザイアであるぞ」
それだけ告げると、スティーヴンは謁見の間から去ろうとした。
「違う!」と叫びたかった。「わたしのお母さまはただ一人です!」と叫びたかった。
スティーヴンの姿が遠ざかっていく。そのうしろ姿が今日会ったばかりの青年の姿と重なった。
シェリーンが手を伸ばすと、振り向いた彼――リュデロギスは優しくほほえんだ。
***
コンコンコン。
扉をノックする音で、シェリーンは目を覚ました。
最悪な気分だ。酷い夢を見ていたような気がする。
だけど、最後の一瞬だけ、とても温かな気持ちになれた。
(どんな光景を見たのかしら……?)
シェリーンはソファの背もたれから身を起こし、返事をした。
入ってきたのはリュデロギスだった。シェリーンは慌てて立ち上がる。
シェリーンが寝起きだということに気づいたのだろうか。リュデロギスは口元をほころばせる。
「ここにいたのだな。ゆっくり休めたか?」
「は、はい……! 捜させてしまったようで申し訳ありません」
「気にするな。部屋を贈ったのは予だ。机がある部屋に移動しよう。見せたいものがある」
見れば、リュデロギスは筒状に丸めた紙を持っている。
シェリーンはリュデロギスとともに奥の間に移動した。小さな四角いテーブルを挟み、それぞれ椅子に座る。
リュデロギスはひもで縛られていた紙をシェリーンの前に広げた。アルカン語と見知らぬ文字が併記され、何かの約束事が書かれているようだ。
「これは……?」
「婚前契約書だ。聞いたことはないか?」
「いいえ。結婚に関する契約書、ですか?」
リュデロギスはうなずく。
「そうだ。結婚生活に関する取り決めを明文化したもので、婚前に交わす。魔族の王侯の間では当たり前のように作成されている。主に結婚後のトラブルを回避するためにな」
「そうなのですね。東大陸ではアルカンよりも、男女の立場が平等なのでしょうか」
「魔族の女性が強いのは事実だな。精神的にも、物理的にもな」
(物理的……)
「見ての通り、アルカン語でも書かれている。一読して問題ないようであれば、一番下に書かれた予の名前の横にサインしてくれ」
そう言って、リュデロギスは服の内側から銀製の細長いものを取り出した。
シェリーンが目をぱちくりさせていると、彼は細長い物体の蓋を取ってみせる。どうやらペンのようだ。ペンといえば羽根ペンしか知らないシェリーンは驚いた。
「万年筆という。書く時は手を汚さないようにな」
リュデロギスの説明は優しい兄のようだ。くすぐったい気持ちと早く万年筆を使ってみたい、ワクワクした気持ちとが混ざり合う。シェリーンは婚前契約書を読み始めた。
『衣食住は夫リュデロギスが妻シェリーンに保証する』
シェリーンは馬車に荷物を置いてきてしまったので、しばらくはリュデロギスの世話になるしかないだろう。荷物といっても、ほとんどがイザドラのお古だったから未練もない。
『性交渉はお互いの合意に基づき行われる』
……これは、食堂での会話を元にした項目だろう。正直、そっけない文章に直されていても、かなり恥ずかしい。
(ん……? わたしの同意があれば、やぶさかではないということ……? 陛下はわたしをその気にさせたいようだし……え!?)
シェリーンはそれ以上、考えないことにした。
『ギルガ宮の夫婦の寝室は分ける』
『子どもは無理に望まない』
シェリーンはホッとした。
(よかった……。陛下はちゃんとわたしの意向を尊重してくださっている……)
最後のほうまで婚前契約書を読み進めたシェリーンは、わずかに小首を傾げた。
『妻シェリーンが遠方に赴く場合や国外に出る場合は、必ず夫リュデロギスも同行する』
これは、どういうことだろう。シェリーンがアルカンに帰ることなどありえないから、そんな事態になどならないと思うけれど。そもそも、シェリーンがリュデロギスの公務や行幸についていく場面のほうが多いような気がする。
だが、特にこちらの不利益になるようなことでもないので、シェリーンはサインすることにした。リュデロギスから万年筆を受け取り、かなり崩した西大陸の文字で書かれている彼の名前の横に、サラサラと自分の名を書く。初めて使う万年筆は書き心地がよかった。
「ほう、シェリーンは達筆だな。これであなたと予は正真正銘の婚約者同士だ」
婚前契約書を作成し、サインすることが婚約における魔族の重要な習わしらしい。シェリーンは心が浮き立つのを感じた。
リュデロギスが服の内側から小箱を取り出す。彼が箱を開くと、中にはプラチナのチェーンに二粒の小さなダイヤモンドと大粒のルビーがつり下がった、見事なペンダントが入っていた。
シェリーンはルビーの輝きに魅せられた。今は手元にない、母の形見の宝石を思い出す。
「これは……」
「亡き両親の形見であるルビーを使ったペンダントだ。元々は父が母に贈った、魔族の婚姻の証たる腕輪についていた。魔族の男は求婚の際、首飾りを想い人に送る風習がある。求婚のほうが先になってしまったが、これをあなたに是非身につけていて欲しい」
「ご両親の形見……そんなに大切なものを……」
「あなただからつけていて欲しいのだ。母は生前、『大切な人ができたら、このルビーを贈って欲しい』と言っていた」
そう話すリュデロギスの顔は、どこかはかなげで、壊れやすい少年のようだった。
シェリーンはハッとし、おずおずと口を開いた。
「わたしでよければ、喜んで受け取らせていただきます」
リュデロギスは微笑した。いつもの大人の笑みだ。
リュデロギスがペンダントを差し出してきたら、シェリーンは両手で受け取るつもりでいたのだが、彼はなぜか立ち上がり、シェリーンのうしろに回り込んだ。
「せっかくだ。このペンダントは予が婚約者殿にかけよう」
リュデロギスにうなじを見られるのは恥ずかしい。けれど、言っても聞いてくれそうにないので、シェリーンはされるがままになることにした。リュデロギスの邪魔にならないように長い髪をどけようとする。
「シェリーンの髪はきれいだな」
次の瞬間、リュデロギスがシェリーンの髪を一房すくい上げ、前に垂らした。もう一房の髪も同じように前に垂らされる。
男性の手で髪に触れられたのは初めてだった。
(そもそも、わたしの髪って、昨日の夜、久しぶりに洗ったばかりなのに……!)
そんな髪を「きれい」だと言われた上に触れられて、シェリーンは恥ずかしさのあまり
その間に、リュデロギスはシェリーンの首にペンダントをかけ終えており、「できたぞ」と教えてくれた。
「鏡に映してみてくれ」
シェリーンは立ち上がり、大きな壁掛け鏡の前まで歩いていく。
鏡に、ルビーのペンダントをつけた自分の姿が映っている。前に垂らした黄金色の髪の間で、ルビーは女王のように輝いていた。
(わたしは、このルビーにふさわしい女性になれるのかしら……)
リュデロギスが隣に立った。彼の表情は満足げだ。
「よく似合っている」
シェリーンは自分よりずっと背の高い彼を見上げた。
「ありがとうございます、陛下。一生大切にします」
今になって、婚約者から求婚の証を贈られた嬉しさが込み上げてくる。
リュデロギスがこちらに手を伸ばしかけ、途中で下ろした。まるで、何か強い感情を抑えているような顔で。
(今日初めて会ったはずなのに、どうして陛下はわたしを見る時、泣きたくなるくらい優しい表情や、特別なものを愛でるような表情をなさるのかしら……)
幸運の子とは、彼にとってそれほどまでの存在なのだろうか。
シェリーンの疑問をよそに、リュデロギスは笑顔になる。
「そろそろ、あなたに仕える者たちを紹介しようか」
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