第三話 心していただきます

「シェリーン、ようこそ、我がディンゼ魔帝国へ。前に見えるのがあなたも住むことになるギルガ宮だ」


 リュデロギスが黒い屋根の宮殿を誇らしげに見上げ、紹介してくれる。ついさっきまでは確かにアルカンにいたはずなのに。


(もしかして、さっきのは移動魔法かしら。だとすれば、一瞬で西大陸から東大陸に移動したのも説明がつくわ。人族で移動魔法を使えるのは勇者や高位魔術師だけだというけれど……)


 さすがは大魔王――いや、魔帝だ。

 シェリーンは自分の肩を抱いている青年が魔帝だと、ようやく心から信じることができた。


 そこまで思考して、シェリーンは赤面した。リュデロギスの手は大きく、布越しに温かさが伝わってくるようだ。男性にそんなことをされたのは、もちろん生まれて初めてだった。蚊の鳴くような声を絞り出す。


「あ、あの……」


 リュデロギスが顔を近づけてくる。


「なんだ?」

「お手が……」


 ますます顔を赤らめながら、シェリーンはそう言うのが精一杯だった。

 リュデロギスは「ああ」と応え、シェリーンの肩を抱いていた手を離した。その動作が名残惜しそうに見えたのは、シェリーンの自意識過剰だろうか。

 リュデロギスはシェリーンと目を合わせ、ほほえんだ。


「シェリーン、予についてこい」

「はい……」


 リュデロギスはギルガ宮の前庭を颯爽さっそうと歩いていく。シェリーンがうしろに続くと、そのさらにうしろから、アルカンの街道でリュデロギスと一緒にいた、金髪の青年が静かについてくる。彼も移動魔法を使えるのだろう。


(陛下の護衛の方……? ご挨拶をしなくていいのかしら)


 シェリーンは逡巡したが、リュデロギスが何も言ってこないので、そのまま歩き続ける。

 宮殿の扉の前に着くと、左右を守っていた衛兵たちがリュデロギスに向け、かかとをそろえ、肩と胸の間に拳を水平にして当てる。どうやら、このディンゼ魔帝国での敬礼らしい。

 衛兵たちはあとに続くシェリーンにも、そのうしろを歩く青年にも恭しい敬礼を送ってくる。


(陛下とうしろの殿方はともかく、わたしにまで……)


 逆にいたたまれない気持ちになりながら、シェリーンはギルガ宮の中に入った。玄関ホールは驚くほど天井が高く広い。案内がなければ、間違いなく迷ってしまうだろう。

 うしろの青年がリュデロギスに話しかけた。よく見ると彼の瞳は赤く、長いプラチナブロンドの髪がかかった耳は、わずかにとがっている。


「魔帝陛下、わたしは下がらせていただきます。心ゆくまで魔后まこう陛下とお過ごしになってください」


(魔后陛下って……わたしのこと?)


 青年がにっこり笑うと、リュデロギスは不機嫌そうに応じる。


「ああ、そうさせてもらう。お前はさっさと行け」

「御意」


 青年はシェリーンにも優雅に一礼すると、去っていった。

「さて」と気を取り直したように、リュデロギスが優しく笑いかけてくる。


「シェリーン、もう少し歩くが、疲れてはいないか?」

「は、はい。大丈夫でございます」


 アルカンにいた時から思っていたのだが、リュデロギスはシェリーンに対しては優しいのに、他の者にはかなり威圧的に接しているような気がする。先ほどの青年には幾分か打ち解けたように対応していたから、親しい間柄なのかもしれない。


(これって、裏表が激しいということかしら……? でも……)


 彼がシェリーンに向けてくれる優しさに、嘘はないように思う。

 リュデロギスはシェリーンの歩調に合わせて歩いてくれるし、時々振り返ってくれる。単に冷酷なだけの人には、とてもできない気遣いだろう。


 かなり歩いた頃、リュデロギスが扉の前で足を止めた。扉にはドアノブがない。その代わりのように浮き立っている、四角いレリーフにリュデロギスが触れる。

 すると、扉が横にスライドしながら開いた。廊下には誰もいないし、室内にも人がいる気配はない。独りでに扉が開いたのだ。


(魔導具……!)


 見たことのない魔導具にシェリーンが驚いていると、リュデロギスが手招きしてきた。

 中に入ると、そこは食堂だった。緋色ひいろ絨毯じゅうたんの上に長いテーブルが置かれている。待機していた男性が二名、中央で向かい合う二脚の椅子を座りやすいように引いてくれた。シェリーンは慌てて彼らに目礼する。

 リュデロギスはなぜかニコッとし、先ほど引かれた椅子のひとつに座る。


「シェリーン、予の向かいに座れ。今日からそこがあなたの席だ」

「はい」


 シェリーンは椅子にかけた。物珍しいので食堂を見回す。広くて豪奢ごうしゃな造りなのに、絵画やタペストリーは飾られていない。そこがかえってシンプルで、シェリーンは落ち着いた。


 にしても、シンプルとはいえ、テーブルクロスやカーテンは一級品だ。リュデロギスのうしろには、暖炉に似た形をした魔導具も設えられている。アルカンも裕福な国だけれど、シェリーンの知る限り、王宮の食堂では暖炉を使っていたはずだ。

 自動で開く扉といい、この国の圧倒的な文明水準の高さと豊かさがうかがえて、シェリーンは呆然としてしまう。


(こんなにすごい食堂で食事をする方に、アルカンの勇者が本当に勝てたの……?)


 そんなことを当のリュデロギスに聞くわけにもいかず、シェリーンはレースのテーブルクロスの編み目を見つめた。


「あと一時間ほどで昼時だ。腹は減っていないか? それほど空腹でないなら、茶と菓子を用意させよう」


 リュデロギスに声をかけられ、シェリーンは顔を上げた。

 今日は大魔王に嫁がされる緊張のあまり、朝食はミルクを飲んだだけだ。

 それよりも、こんな風に気遣ってくれたことが嬉しくて、シェリーンはためらいがちに口を開いた。


「実は、朝食をろくに摂っていなくて……何か食べさせていただけると助かります」

「分かった」


 リュデロギスは待機している男性の一人を呼び、何かを告げた。男性はうなずくと部屋を出ていく。

 ようやく気づいたのだが、リュデロギスが男性との会話に使っていたのは全く聞いたことのない言葉だった。リュデロギスとお付きの青年は、シェリーンが聞き取れるようにあえてアルカン語を使ってくれていたのだ。


(この国の……いえ、魔族の言葉も覚えなければ)


「あの、陛下、お会いした時からアルカン語で話しかけてくださって、ありがとう存じます」


 リュデロギスはバイオレットスピネル色の目を優しく細めた。


「礼を言われるようなことはしていない。それよりもシェリーン、先ほどから言葉遣いが硬すぎるようだが」

「え!? そうでしょうか……ですけど、陛下は魔族に君臨なさっていらっしゃるのでしょう? そのようなお方に気安い口調は……」

「予とあなたは近いうちに夫婦になるのだ。今から少しずつ距離を縮めておくべきだと思うぞ。シェリーンは親しい者の前でも、『わたくし』と言うのか?」

「……申しません」

「そこだ。あまり過剰な敬語は使わなくてよい。『ありがとう存じます』もなしだ」

「はい……」


 なんだか、ものすごく恥ずかしい。自分の心の深いところにまで切り込まれているようで。シェリーンが心から愛し愛されていた相手といえば母アナベラだが、リュデロギスはそれ以上の間柄になりたいと言っているように聞こえる。


 シェリーンがほおを染めてうつむくと、リュデロギスは表情を緩め、嬉しそうにする。

 会ったばかりなのに、どうしてそんな顔をするのか分からない。

 シェリーンが途方に暮れていると、食事が運ばれてきた。心からホッとしてしまう。


 幽閉される前に、アルカンでも食べていたような食事が並べられていく。パンにコンソメスープ、切り分けられたあぶり肉にはよい香りのするソースがかけられている。それに、ドレッシングが添えられた、見るからに新鮮な野菜。


「あとでデザートも運ばれてくる。楽しみにな」

「ありがとうございます」


 食べ物の匂いに胃が空腹を訴えてくる。シェリーンは口の中で女神エリュミアへの祈りの言葉を唱えると、ガツガツしないように気をつけて食べ始めた。

 食事は熱々のできたてで、パンも焼きたてだ。こんなに美味しい食事を摂るのは何年ぶりだろう。

 自らもシェリーンと同じものを食べながら、リュデロギスが言う。


「人族の味覚に合わせてみた。たまにはこういう食事もよいものだな」

(わざわざ、わたしのために?)


 肉を口の中でもぐもぐと咀嚼そしゃくしながら、思わずリュデロギスを見つめる。彼がにこりと笑った。


「あなたは美味そうに食べるな」


 たったそれだけのことで、無性に恥ずかしくなる。

 シェリーンが気の利いた返事をできないまま食事を平らげると、絶妙のタイミングでアップルパイと紅茶が運ばれてきた。


 コーヒー豆ならアルカン南部でも採れる一方、紅茶の原料である茶葉は東大陸でしか栽培されていないので、アルカンでは一部の貿易会社しか扱っていないと聞く。シェリーンも母が生きていた頃に飲んだことがあるが、非常に貴重なものだ。


(わたしなんかが飲んで、本当にいいのかしら……)


 それはさておき、網目模様になったアップルパイの生地の隙間からは、見るからに美味しそうな黄金色のリンゴがのぞいている。

 お腹は満たされているけれど、これは是非食べておきたい。デザートは別腹だというし大丈夫。

 ほおを緩ませ、アップルパイを食べ始めたシェリーンを、リュデロギスは口元をほころばせて見守っていた。その美しい顔が、ふと真顔になる。


「シェリーン、大切な話がある。食べながらでよいから、聞いてくれ」


 シェリーンは目を瞬いた。

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