第十九話 結婚前夜

 西大陸でいうところの五月も半ばになり、シェリーンのディンゼ魔帝国での生活も落ち着いてきた。同時に、リュデロギスとの結婚式の日が間近に迫っていた。

 トライメによると、魔族の結婚は魔神ヴェルエムスに宣誓することで成立するそうだ。魔帝の結婚式となると国を挙げて行われ、お祭り騒ぎになるだろう、ということだった。この点、西大陸も東大陸も変わらない。


 西大陸の国々のように成婚のパレードを行う習慣はないが、今回は魔后にして幸運の子であるシェリーンのお披露目も兼ねて、魔道列車で全国を回るらしい。地上での移動手段といえば、馬と馬車くらいしか知らなかったシェリーンは、魔道列車に乗るのが今から楽しみだった。


(とはいえ、魔帝が長期間、魔都を空けてもいいものなのかしら?)


 シェリーンがそう尋ねてみると、リュデロギスは笑った。


「なに、急用が入った場合、移動魔法ですぐさま戻ればよいだけの話だ。むろん、せっかくのあなたとの新婚旅行を邪魔されたくはないがな」

(新婚旅行……!)


 シェリーンにとっては、破壊力抜群の言葉である。

 リュデロギス自ら指揮する盛大な結婚式に新婚旅行。こんなに大切にしてもらえるなんて、夢のようだ。


 シェリーンは授業の合間に庭園の東屋で休憩しながら、明日に迫った結婚式について考えていた。女官長のフィオレンザから、「ただでさえ慌ただしい毎日なのですから、しっかりご休憩はお取りなさいませ」と言い含められているのだ。

 東屋の外では武装女官のナンヌとカチャが静かにたたずんでいる。今では、角が生えた彼女たちの姿にもすっかり慣れた。


「ごきげんよう、魔后まこう陛下。ご一緒させていただいてもよろしいですか?」


 突然かけられた声にシェリーンが顔を上げると、現れたのはレディオンだった。ナンヌとカチャが恭しく一礼する。


「レディオンさま、どうぞお座りになってくださいませ」


 シェリーンも立ち上がって会釈した。基本的に魔族は男女問わず、頭を下げて挨拶する。西大陸の女性が行うお辞儀カーテシーに比べれば簡単なようでいて、奥が深い。

 レディオンはシェリーンの向かいに座った。一切構えたところがないのに優美な動作だ。


「リュデロギスが毎日浮かれていますよ。ようやくあなたと結婚できると言ってね。あなたと顔を合わせてから、まだ一か月くらいなのに」

「一か月……期間にすると短いですけれど、色々なことがありすぎて、二、三年たってしまったような気分です」

「魔后陛下は生活環境が大きく変わりましたからね。ま、それはリュデロギスにとっても同じですが。婚約者と過ごすなんて、あいつにとっては初めての経験ですから」


 レディオンの言葉に、シェリーンはドキッとしてしまった。リュデロギスの実際の年齢は知らないが、彼も初婚なのだ。

 自分なんかが、リュデロギスの最初の妻になってもよいのだろうか。

 そんなことを考えていると、レディオンがしみじみと言った。


「わたしは魔后陛下がおいでくださって、本当によかったと思っているのですよ。リュデロギスの雰囲気がガラッと変わりましたから」


 明日、夫になる人が征服者だということは知っていても、優しいリュデロギスしか知らないシェリーンは戸惑った。少しためらったあとで尋ねてみる。


「……以前の陛下はどのようなお方だったのですか?」

「一言で言い表せば、覇王ですね。果断さと優れた武力を併せ持つ、覇王の中の覇王です。だからこそ、東大陸を統一できた」

「覇王……」

「もっとも、リュデロギスは最初から強かったわけではありません。むしろ、わたしと出会ったばかりの彼は、無力な少年でした。国を追われ、両親を殺された、何も持たない、ね」


 レディオンの口ぶりから、シェリーンはリュデロギスの凄絶な過去を察した。だが同時に、レディオンは自分にこの話をするために、わざわざここまで足を運んだのだろう、とも思った。

 だから、シェリーンは言った。声に決意を込めて。


「聞かせて、ください。陛下の過去を」


 レディオンはほほえみ、うなずいた。


「元々、リュデロギスは当時のディンゼ魔王国の王族で、魔王弟の一人息子として生を受けました。前にもお話ししたように、魔王弟の妃だった彼の母親はわたしの叔母に当たります。ディンゼの王室は様々な種族から何かに優れた者を伴侶に迎え、その国力を増していきました。叔母は絶世の美女とうたわれており、そのうわさがまだ王都と呼ばれていた、当時のギルガまで届いたのです。リュデロギスと――ついでに言わせてもらうなら、わたしの容姿を見れば、どれだけの美女であったかはご想像にかたくないでしょう」


 シェリーンはくすりと笑った。


「はい」

「叔母と魔王弟の間にはリュデロギスが生まれ、一家は幸せに暮らしていました。ですが、ある時、魔王が乱心した。親族が王位を狙っているのではないかと疑心暗鬼に陥り、自分の子と妃以外の王族を皆殺しにしたのです」


 同じ王族に生まれた者として、シェリーンは戦慄した。


「それで、陛下だけが……?」

「はい。叔母と義理の叔父は一人息子を密かに逃がし、わたしの祖父であった当時のヴァンパイア族族長に、リュデロギスを匿ってくれるよう頼みました。……そして、その直後に処刑された。立派な最期だったそうです」


 シェリーンは何も言えなかった。幼い頃に親を失う悲しみと絶望は、痛いほどに理解できたからだ。

 レディオンは表情を緩めた。


「わたしと出会った頃のリュデロギスは、それはもう可愛げのない子どもでした。口を利くのは必要がある時だけ、といった具合です。彼はただ、必死に強くなろうとしていました。里の武芸者や兵法家、魔道士に師事して、己を鍛え上げていたのです。こいつには見どころがある、とわたしだけでなく里のみなが思い始めました。今思えば、それがリュデロギスが持つカリスマ性の片鱗へんりんだったのでしょう」


「……魔王は陛下を捜さなかったのですか?」

「いえ、危うくリュデロギスが魔王の手の者に見つかりそうになったこともありました。しかし、窮地を逃れ、立派な若者に成長したリュデロギスは、魔王の乱心に憤った者、あるいは落胆した者――それら離反者たちをまとめ上げることに成功しました。そして、王都に攻め入り、ついに魔王を討ったのです。リュデロギスは新たなディンゼの魔王として即位しました。それから、長い時間をかけ、東大陸を統一したのです。……当時の彼のような弱者が、不条理に苦しまずにすむ世の中を作るために」


 リュデロギスは単なる征服欲のために魔帝になったわけではないのだ。そこに、よく知る彼の優しさが垣間見えたように思われ、シェリーンの胸は切なく痛んだ。

 無力な少年だったリュデロギスが、努力の末、そこまでの偉業を成し遂げられたのは、レディオンらヴァンパイア族の助力があったからなのだろう。シェリーンは彼にお礼が言いたかったが、自分がそうするのもおかしな気がして、口には出せずにいた。

 シェリーンが黙り込んでいると、レディオンは不満げな表情をするでもなく、こちらをじっと見つめた。


「ディンゼも巨大な国となりました。リュデロギスにこれから求められるのは、力ではなく、平和な世を治める寛い心でしょう。彼が寛大な心を持てるように、賢明な魔后が必要なのです」


 シェリーンが魔后になることを決めたのは、祖国に戻りたくないという理由からだ。だが、魔后の仕事とは、夫である魔帝に世話を焼かれることではない。魔后という地位が、あまりにも責任重大な立場であることに改めて気づかされ、シェリーンはぴんと背筋を伸ばした。


「……わたしは、よい魔后になれるでしょうか?」

「リュデロギスは褒めちぎっていますが、今のところはなんとも。ただ、あなたはまだ若すぎるくらいです。幸運の子だということは別にして、時間をかけてでも、リュデロギスを支えられる女性になってください」


 その言葉は、シェリーンの胸に反響しながら、いつまでも残った。


   ***


 その日の夜、シェリーンはベッドに入ったあとも眠れない夜を過ごしていた。

 昼間にレディオンから聞いた話のせいもあるが、リュデロギスと結婚式を挙げるという事実を思い浮かべるだけで、どうしてもそわそわしてしまう。

 今だって、できるならうつ伏せになって足をバタつかせたいくらいだ。


(勘違いしちゃいけないわ。陛下が優しくしてくださるのは、わたしが幸運の子だからなのよ。それに、わたしは魔后になるのだもの。お役目を果たさなきゃ)


 そう思った直後、リュデロギスに抱き寄せられた時のことが脳裏によみがえる。


 ――予はあなたが可愛い。傍にいてくれ、シェリーン。


 そして、少年時代に亡くした両親の大切な形見であるルビーを、リュデロギスは贈ってくれた。

 そんなことを、大陸の覇王であるリュデロギスが、力だけが必要な、特に思い入れのない女にわざわざするものだろうか。何せ、彼はその気になれば、いくらでも愛妾あいしょうを侍らせられる身分だ。それなのに、彼が傍に置き、構う女性はシェリーンだけなのだ。

 胸の奥がポッと温かくなると同時に甘くうずいた。


(陛下は、本当にわたしのことが――?)


 もし、そうだとしたら、自分は彼のことをどう思っているのだろう?


(好きか嫌いかで言えば、好き……?)


 ほおがカーッと熱くなる。

 シェリーンは毛布を頭からかぶった。

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