第八話 一日を振り返って

 女官長フィオレンザ、それに護衛を務めてくれる武装女官、ナンヌとカチャに付き添われ、シェリーンは部屋を出る。ナンヌが頭に二本のねじれた角を生やしているのに対し、カチャはまっすぐな一本の角を額から生やしている。


 まだ彼女たちの外見に慣れたわけではないが、自分も魔族なのだし、そのうち抵抗もなくなっていくだろう。それに、リュデロギスや女官たちのおかげで、人族よりも魔族のほうが優しいのではないか、とシェリーンは思えるようになっていた。


 廊下には腕を組み、壁に寄りかかるリュデロギスの姿があった。シェリーンを見ると、笑顔で歩いてくる。


「シェリーン、ご苦労だったな。女官たちにいじめられなかったか? これから予が宮殿を案内」

「それはわたくしがいたします。魔帝陛下はお仕事にお戻りください」


 フィオレンザにきっぱりと言われ、リュデロギスは不服そうだ。


「今日の分の政務は終えた」

「お戻りください」


 そこまで言い切られてしまえば形勢不利と悟ったのか、リュデロギスはシェリーンに「またあとでな」と告げると、名残惜しそうに去っていった。

 フィオレンザ、恐るべしである。

 彼女は先ほどまでの態度が嘘のように柔和な表情で、シェリーンに向き直る。


「では魔后陛下、参りましょうか。ギルガ宮の中は広いので、お疲れになったら遠慮なさらずにおっしゃってください」


 フィオレンザによると、ギルガ宮はリュデロギスがまだ魔王を名乗っていた頃から暮らしている由緒正しい建物で、改築が繰り返され、中は恐ろしく広い。三階建てで、政庁のある中心部のみ四階建てだということだった。


 シェリーンの心を強く引きつけたのは、宮殿の外に広がる庭園だった。カモやきれいな魚が泳ぐ大きな池があり、アルカンの庭園とは造りが大きく違うのに、よく知るライラック、クレマチス、ワスレナグサなどが咲き乱れている。


「まあ……きれいね。東大陸の花も、アルカンと変わらないのね」


 シェリーンのつぶやきを聞いたフィオレンザはくすりと笑う。


「あの花々はごく最近、魔帝陛下がご指示を出されて植えさせたものです。魔后陛下がお寂しくならないようにと」

「そうだったのですね……」


 リュデロギスが自分のために花や木々を植えてくれた。その事実がシェリーンの心を温めた。

 彼を恐ろしい大魔王だと思い込み、鬱々と暮らしていた日々はなんだったのだろう。

 見知った花を堪能していたシェリーンは、ふと見慣れぬ背の高い樹木に目を留めた。風が吹くと、その木に咲いた花の花弁が舞い散り、とても幻想的だ。


「あの木はなんという名ですか? ほら、あの新緑が芽吹いていて、白っぽいピンク色の花をつけている……」

「あれはサクラの木と申します。東大陸の中部から東部が原産地ですが、魔帝陛下がいたくお気に入りで、庭園に植樹なさったのでございます。今年の春先は寒かったので、まだ花が散らずに残っておりますね。一年に一度しか咲きませんから、魔后陛下はよい時期においでになりました」


「そう、サクラというのですね。見られてよかったわ。それにしても、はかなげなのにりんとして、きれいな花……。こんな花をお好きだなんて、魔帝陛下はお優しいお方ですね」

「さあ、それはいかがでしょうか」


 フィオレンザの含みのある言い方に、シェリーンは首を傾げた。

 庭園から宮殿内に戻り、まだ訪れていない場所をあらかた案内してもらうと、すっかり時間がたっていた。


 奥の間に戻ったシェリーンは、湯浴みをするようフィオレンザに告げられ、今度は寝室女官のニーカとマイヤに付き添われ、湯殿ゆどのに向かった。ニーカは若草色、マイヤは青色の髪をしている。


「ここがお風呂……?」


 脱衣場でタオル一枚の姿になり、湯殿に足を踏み入れたシェリーンは驚愕きょうがくした。

 恐ろしく広い。アルカン王宮の浴室はもっと狭かった。しかもバスタブがなく、代わりに大きな浴槽が壁と一体化している。こんな浴槽、古代や外国の習俗を描いた本の中でしか見たことがない。


 そして、出入り口と浴槽の間にある、人一人が横たわれそうな謎の石台。

 湯殿での世話を担当してくれるという「お湯殿」と呼ばれる侍女に案内され、シェリーンは浴槽の傍の椅子に腰かけた。


 これまた初めて見る蛇口からおけに流し入れた、心地よいお湯をかけてもらう。身体を軽く洗ってもらったあとで、湯船につかる。今日一日の身体の疲れが、全て洗い流されていくような気がする。この浴槽は四肢を存分に伸ばせるので、ゆっくりできる。

 身体が温まったあとで石台の前に案内される。


「魔后陛下、こちらの台の上にうつ伏せになってくださいませ」


 シェリーンはお湯殿の言う通りにする。下には布が敷いてあるので痛くはない。お湯殿がシェリーンの背中が露わになるようにタオルを外していく。


「これからアカスリをいたしますね」

「はい……」


 生まれて初めてアカスリというものをしてもらったのだが、タオルで背中をこするお湯殿の手加減があまりにも気持ちよくて、うつらうつらしてくる。

 アカスリが終わると、またしばらくお湯につかり、再び石台の上へ。今度は大量のきめ細かい泡で身体を念入りに洗われながら、マッサージをしてもらう。


(気持ちいい……)


 次は浴槽の傍の椅子に移動し、髪と顔を洗ってもらった。洗髪剤は花のような甘い匂いがする。首や肩の凝りをほぐされ、泡を洗い流されたあとは爪の手入れまでしてくれた。

 シェリーンは嫁入りの直前に久々にバスタブ入浴をしたが、ここまで丁寧には扱われなかった。


 幽閉中はたらいにお湯を入れてもらえればいいほうで、普段はお湯に浸したタオルで身体を拭いていた。しかも、世話係によっては水しか使わせてくれない時もあり、冬場は寒さに震えていたものだ。


(本当に、夢みたい……)


 もう一度お湯につかりたかったので、シェリーンは仕上げに浴槽に入り、湯殿での一時は終わった。

 保湿もしてもらい、お肌も髪もつやつやだ。まさに磨き上げられたと言っていいだろう。


「ありがとうございます。あの、お風呂に入れるのは一週間に一度くらいなのかしら……?」


 お湯殿にお礼ついでに尋ねると、彼女は目を瞬いたあとで笑った。


「毎日お入りになれますよ。魔帝陛下はおろか、宮廷勤めの者たちだって毎日お風呂に入っているのですから。どうぞご遠慮なくお入りください」


 今度はシェリーンがびっくりする番だった。ただでさえ水は貴重なのに、お湯を沸かして毎日大量に使えるとは、習慣的なものを差し引いてもこの国の豊さは計り知れない。

 そういえば、リュデロギスに肩を抱き寄せられた時、彼からはとてもいい匂いがした。


(やだ、わたしったら何を考えているのよ……!)


 シェリーンの顔が熱くなったのは、多分、湯上がりのせいだけではない。

 脱衣場で寝室女官のニーカとマイヤに髪と身体を拭われ、グラジナとボジェナに服を着せてもらう。


「時間通りに、グラジナとボジェナが服をご用意いたしましたのよ」

「まあ、嬉しいわ。二人ともありがとう」

「ありがたき幸せにございます」


 新しいドレスは先ほどグラジナが説明してくれた通り、ゆったりとした作りだった。コルセットは使わないので身体の線が出すぎるかと思いきや、ウェストの位置が高い作りになっていて、優雅に着こなせる上に、ひだになったスカートがふわりと広がる。淡い水色で、春にぴったりだ。

 新しい白い靴も華奢きゃしゃなのにシェリーンの足の形に合っており、履きやすい。シェリーンは口元をほころばせた。


「とても素敵な服と靴ね」

「おきれいでございます、魔后陛下。よくお似合いでございます」


 女官たちに口々に褒められ、シェリーンはくすぐったい。この国に来るまでは、母以外の人に褒められたことがなかったから。


(ここでは、わたしの耳も紫の瞳も、ごく平凡だからかしら)


 四人に付き添われ、自室に戻るために廊下を歩いていると、向こうからリュデロギスがやってくるのが見えた。シェリーンは立ち止まる。前まで歩いてきたリュデロギスはまぶしそうにほほえんだ。


「シェリーン、さらに美しくなったな。人族が信仰している女神エリュミアのようではないか。いや、エリュミアも嫉妬してしまうな」

「え、ええ……!?」

「自慢の風呂はどうであった?」

「はい、とても素晴らしかったです」

「そうか。それはよかった」


 リュデロギスは満足げに笑うと、シェリーンの手を取り、磨かれた指先に口づけた。


「……っ!」


 そうやって手にキスをされたのは二回目だというのに、無性に恥ずかしい。湯上がりだからだろうか。


(それにまた、褒めてくださった……)


 シェリーンがほおを染めて立ち尽くしていると、リュデロギスは丁寧にその大きな手を離し、低い声で優しくささやきかけた。


「また、夕食時に会おう」


 リュデロギスはシェリーンを翻弄するだけ翻弄して去っていった。


   ***


 リュデロギスとの夕食後、シェリーンは寝室に戻った。

 寝間着に着替えさせてもらい、整えられたベッドに入る。毛布をかけてもらうと、眠るための準備が終わる。寝室女官のニーカとマイヤは一礼したあとで、ベッドの天蓋カーテンを閉め切り、下がった。


 既に部屋の照明は、サイドテーブルに置かれた魔道具(魔族の間では魔導具のことをこう呼ぶらしい)のランプ以外は消されている。

 シェリーンは天蓋カーテンの内側でベッドの上に身を起こしたまま、物思いにふけった。


(目まぐるしかったけれど、素敵な一日だったわ……)


 自らアルカンまで迎えにきてくれたリュデロギス。目を見張るばかりのギルガ宮。美味しい食事。自分のために用意されたぜいを尽くした部屋の数々に、優しくて有能な女官たち。素敵な庭園に、素晴らしい湯殿。

 本音を言えば、自分なんかが満喫していいのか戸惑うけれど、リュデロギスがシェリーンを歓迎し、大切にしようとしてくれているのはよく分かる。


(リュデロギス陛下は、お美しいだけでなく、とてもお優しい……)


 そう思ってしまったあとで、シェリーンは顔を赤らめた。会う前は、彼のことを恐ろしい大魔王だと思っていたのに、現金な話だ。

 でも――


(勘違いして付け上がってはいけないわ。陛下がよくしてくださるのは、わたしが幸運の子だからだもの)


 そう思うと、なぜか胸がきゅっと締めつけられた。

 シェリーンは今まで味わったことのないその感情を突き止めるのが怖くなり、サイドテーブルの上に置かれたランプの灯りを消し、ベッドの上に仰向けになった。

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