第二章 絶対の平和主義者2
※ ※ ※
一爽は類の書斎に行き、自宅に電話をした。
一爽の両親は、ずっと連絡を待っていたようだった。
今は無事にいる。食べるものも寝るところもある。だから心配しないで。今はそれしか言えない。先の保証はなにもないのだ。
父は苦悩する声で語った。
本当はこんな実験に、お前を参加させたくなかった。しかし、他の子供と同じように人権を得て生きていくためには仕方のないことだった。一時の試練なんだと、無理矢理自分と母さんを納得させた。それが、こんなことになるなんて。
類の書斎は、壁の二面が天井まで続く本棚になっていた。インタビューに答える知識人なんかの写真で、背景になっていそうな部屋だ。それぞれの棚にはサイドにレールがついていて、システムキッチンの昇降式戸棚のように、低い位置に下ろせるようになっていた。
この家の床には徹底して段差がなく、スイッチや取っ手の位置も低くなっている。間取りも家具も全て、類が生活しやすいようにしつらえてあるのだった。
リビングに行くと、理央と澪が、切り分けたバウムクーヘンとザラメせんべいを、たっぷりと皿に盛って待っていた。
理央は、部屋着という感じの裾の長いTシャツとやわらかなデニムに着替えていた。ラバースーツもウェストホルスターも身に着けていない。普通の十八歳の女の子の姿をしていた。
化粧気のない顔で髪をクリップで止めている。甘いものが好きらしく、理央がおいしそうにお菓子を食べる様子を見ていると、一爽も不安が和らいでいくような気がした。
澪も、さっきのとげとげしい態度をひっこめて、理央のとなりで姉妹のようにくつろいだ顔をしている。
夢のような生活――ここへ来る道中の、理央の言葉がふと思い出された。類の豊かな暮らしぶりは、理央の目にどう見えているのだろう。それを考えると、一爽の胸になにかがつかえるような感じがした。
「真尋のタブレットに連絡してるんだけど、まだ連絡がつかないんだ」
類がみんなに報告する。彼も独自に弥生真尋を探しているようだ。
「このまま、彼女がみつからず膠着状態が続くようなら、僕らのほうから監視者に交渉しようと思う」
理央が大事なことを思い出したように、あわてて言った。
「遥馬が、トゥエルブファクトリーズの管理官を脅して追い払ったようなの。自分たちだけで実験を遂行するって。武装隊の子たちは大人を信用してなかったから」
類の表情が険しくなった。
「そうか。じゃあ、僕らは監視者リーダーの遥馬を直接説得してみるか」
「うまくいくかな……」
理央は自信なさそうにつぶやいた。
※ ※ ※
休憩のあと、「一爽には情報解禁になったから、プラチナベビーズのこれまでの経緯を説明しよう」と類に誘われ、一爽は再び類の書斎に行った。
類は一爽にキャスターのついた椅子をすすめた。
類の背後にはデスクトップのパソコンがあり、大きな液晶画面の中で、宇宙に浮かぶ地球がゆっくり自転している。
「ちょっと話が長くなるけど、君もプラチナベビーズのひとりとして、自分のことを知っておくべきだと思う」
そう前置きして、類は説明を始めた。
「僕らが生まれる少し前。つまり今から二十年くらい前に、この国ではある新しいウイルスによる感染症が流行したこのウイルスは『ウイルス進化説』を証明するものとして注目された。なぜなら、妊娠中にこのウイルスに感染した妊婦の子供は、みな遺伝子に共通の特異性が認められたからだ。『ウイルス進化説』って、きいたことくらいはあると思うんだけど、ウイルスによって運ばれた遺伝子が、ある生物の遺伝子の中に入り込み、変化させることによって進化が起きるとする説だよ」
一爽は自分の知識を総動員して考えてみた。
「『ウイルス進化説』って、たまに漫画とかに出てくるやつだろ。でもそれってフィクションの世界のことなんじゃ……」
類はうなずいた。
「そう。『ダーウィンの進化論』を否定する学説として一部ではまことしやかに伝わっているが、実際には正式な論文があるわけでもないし、この説を裏付けるにたる事実の報告もない。進化生物学の専門家からきちんと認められた学説ではないんだ。
かといって、それが間違いとするのは早計だ。ボルバキアという細菌がある。これは昆虫などの節足動物が感染すると、その生殖に作用することが知られている。遺伝子に異常を起こさせ、俗に『雄殺し』と呼ばれる、雄を雌化する作用をもっているんだ。
二〇〇九年に鹿児島の種子島でキタキチョウの九割が雌だったという調査結果が出ている。そのほとんどが母子感染によると思われるボルバキアに感染している個体だった。もちろん、細菌とウイルスは別物だが、親の感染症が子の遺伝子に影響を及ぼすひとつの例と言っていいと思う。
話を人間に戻そう。オルガネラウィルスによって遺伝子に異常を持って生まれた子供たちは、プラチナベビーズと名付けられた。僕もそう。そして一爽、君もそうだ」
「遺伝子に特異性……」
とうとうと続く類の説明を、一爽はかみ砕くように反芻する。
「『ウイルス進化論』の言葉を借りれば、僕らは、母親がオルガネラウィルスに感染したことにより、人間より進化してしまったんだ」
類は相変わらず穏やかに微笑んでいたが、一爽は複雑な気持ちだった。
類の話しぶりは、まるで自分たちが特別だという言っているようにも受け取れたからだ。
「僕らはね、一種のGIVENだと思っているんだ」
「ギヴン?」
「神に特別な才能を与えられた人って意味だよ」
類は両手を開いて目を細めた。
中世の宗教画に描かれた天使のように気高い雰囲気だ。
一爽は「自分が他の人と違う」ということをあまり前向きに考えられなかった。普通の人間でよかった。みんなと同じただの人間なら、こんなことに巻き込まれなかった。今だって、一般人として避難できていたはずだし、優吾との関係も変わらなかった。
自分に危険な能力があるというなら、監視付きの生活も多少は納得がいく。しかし、自分はまだ能力もみつかっていないのに、DNAの相違だけで、どうしてこんな面倒くさいことになっているのか。考えるほどやるせない気持ちになった。
一方で、自分は類の強い仲間意識のおかげで、監視者の拘束を逃れ、こうして快適な生活空間を用意してもらえている。
DNAの相違というだけの特権――それが神からの贈り物なのかは知らないが、今現在、自分がそれにすがりついているのは事実で、類を批判する資格は自分には無いような気もした。
類はそんな一爽の気持ちを知ってか知らずか、「兄弟」の話を続ける。
「この島には君を含めて五人のプラチナベビーズがいる。まず自己紹介しようか。僕の能力は見えない壁を作る力。一爽、手を前へ出してみて」
うながされて、一爽は右手をあげた。言われるままに、手のひらを広げて顔の前に出した。
「そのまま前へ空気を押して」
ぺたり、と指の柔らかい部分がガラスのような物に触れた。ただし硬度を感じるだけで温度は感じない。手首に力を入れてもう少し強く押してみた。
押した力が、そのまま自分の体にかえってくる。ここには目には見えない完全に透明の壁がある。傍目には一爽がパントマイムをやっているように見えるだろう。
「物理的にものを遮る。でも光の波長だけは遮らない。僕は今のところ、これを面でしか作ることができない。試したけど球体とかはできなかったんだ。テストしたときは、自分から約五十メートル離れた所までは作ることができた。ただし壁を作りだす正確な場所を目視できることが条件だ」
「え……それ、訓練したら俺もできんの? 類と同じ事が俺にもできんの?」
一爽は興奮してたずねた。
類は苦笑する。
「うーん。理屈ではできるんじゃないかなぁ。でも、プラチナベビーズの能力は個体によって現れ方が全く異なるんだ。『人体複製』、『思念伝達』、『自動発火』。そして『透明障壁』の僕。能力はバラバラなんだ。研究者たちはこれに粒子で説明をつけたいらしいね。
人間の科学力で存在を観測できない、未知の粒子が存在すると仮定しよう。この粒子は普通の人には見えないし、感じない。科学的に存在を証明する手立てがまだない。ただし、僕らにはそれを感じてあやつるチャンネルがある、ということだ。
僕はたぶん、空気中からその粒子を大量に集めて固めることに秀でているんだ。『人体複製』はその応用かな。『自動発火』は何かと反応を起こさせているか、粒子の超加速かなんかで熱を起こせるのかもしれないね。『思念伝達』は理論的に説明するのは難しいんだけど、ボイルやロックが提唱した『粒子仮説』では人の心に起こる感情や観念も、超微細粒子が感覚器を刺激するために起こる、とされている。これが本当だとすると、澪が人の心に干渉できることも説明できそうだ。でも、これはまだ仮説に過ぎないし、多少こじつけっぽいけどね」
類は人差し指を曲げて、小さな丸をつくった。
「一爽、オオマルハナバチって蜂を知ってるか? クマンバチって呼ばれたりする、丸っこくて毛深い黒い蜂だよ」
一爽は、ああ、とうなずいた。ブーンとうなりを立てて飛ぶ、重量感のある蜂を思い浮かべた。
「十数年前まで、この蜂が空中を飛ぶのは理論上不可能とされていたんだ。人間の航空力学では、この蜂の羽の大きさ、回転数から計算される揚力と体重とがつりあわない。それでも知っての通り、オオマルハナバチは毎日飛んでいたんだ」
類は少しだけいたずらっぽい表情になった。
「大自然はいつも人間の科学力では計算できない課題を残す。今はレイノルズ数や動的失速を考慮に加えた計算があみだされ、この謎は解明されている。やっと実際の現象に理屈が追いついたんだ。僕らが万能だと思いがちな人間の科学力なんて、実際はこんなもんさ。僕らはまだ解明されてない、新しいオオマルハナバチってこと」
類は明るく言ってのけた。
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