第三章 孤独な少年たち8
「はじめくんは、悪い子じゃないよ。君はそのままでいいんだ」
一爽は腕で顔をかばいながら叫んだ。
真尋のスカートの裾も、風もないのにひらひらと舞いあがっていた。顔が赤い。彼女も熱いのだろう。
「そのままでいいわけないでしょ。はじめくんはみんなの役に立つ人間にならなくちゃ」
真尋が叫ぶ。
真尋ははじめの肩をつかんだまま、優吾のほうを振りかえった。
「そうでしょ。人は社会の中で、自分の有益性を示さなくちゃ生きていけない。永友くんだって、そのために自分を殺して頑張ってきたんでしょ。弟のために、家族のために、役に立ついいお兄さんでなきゃ、生ききることを許されなかったんでしょ。みんなそうなんだよ。周囲に自分を認めてもらうために歯を食いしばって頑張ってるんだよ。それが人として生きていくってことじゃないか。はじめくん、君も人間になるんだ」
それは、研究所にとらわれ、何年間も能力を開発されながら生きてきた真尋の実感でもあるのだろう。
「僕は……」
めらり、とカエルの傘の布が溶けて蒸発した。
「あっつ」
とうとう真尋が熱に耐えきれず、はじめの肩から手を離した。
「僕は、サソリ座の赤いお星様になる。いつまでも燃え続けるお星様になる」
骨だけの傘をさして、はじめは祈りを捧げるようにおごそかに言った。
音を立てて街灯のガラスが割れた。
背の低い植え込みに建てられた小さな木の柵のひとつが炎を上げた。ぱちぱちと音がして、ペンキの焦げる嫌な匂いを放つ。
見れば、すでに道路のアスファルトは所々、濡れたように溶けてひびわれていた。立ち上る陽炎の中心で、はじめの姿がゆらめいている。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたらいちばん幸(さいわい)なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくを許してくださると思う」
はじめが空を見上げて詠唱した。
「ばいばい、お兄ちゃん。僕もじゃんけんパフェやりたかったな」
小さな声を残して、はじめは真尋の手を逃れて道を渡った。
ミナトタウン前の二車線の道路をはじめが横切ると、赤信号の丸いカバーがバチっと音をたてて割れ落ちた。
一爽は、左腕を曲げて鼻と口を覆いながら、はじめの後ろ姿を追っていった。駐輪場から交差点へ飛び出す。真夏の照り返しの何倍もの熱が、足元から立ち上ってくる。
骨だけの傘を持った少年が、角を曲がって姿を消す。
とっさに追いかけようとした真尋の後ろで、自転車の列が大きな音をたてて崩れた。塩化ビニールのサドルが焼け落ち、ゴムタイヤが異臭を放つ。
見失ってはいけない。ここではじめを捕まえ、おとなしくさせなくてはならない。強い使命感だけをたよりに、一爽は熱波にあおられながら前進を続ける。
ぱん、と空気を裂く破裂音が響いた。
「危ない!」と、優吾が鋭い声をあげた。
一爽は思わず足をとめて、駐輪場のほうを振りかえった。
熱でゴムタイヤが破裂したのだと一爽は思った。
ぱん、ぱん。
発砲音が続く。
自転車のギアの歯車、シャフトの針金が飛んだ。
チェーンが蛇のようにアスファルトを這って飛び出してきた。
白い煙があがっている。タイヤだけではなかった。電動機付き自転車の充電用リチウム電池が爆発したのだ。
「真尋さん!」
優吾が、獲物にとびかかる猫のように飛び出して、真尋の体を抱きしめた。
駐輪場の側に背中を向けて爆発と熱線から真尋をかばう。
白いシャツに覆われた優吾の背中を、小さな部品が鋭く叩いていった。真尋が腕の中で身をよじってもがく。
「はなして、はじめくんが……」
「あなたは、死んじゃだめだ」
次の瞬間、もこり、と足下が傾く気味の悪い感覚が一爽を襲った。
一爽は、一瞬よろめき、膝を曲げて踏ん張った。
優吾と真尋の体も大きくかしいだ。ふたりのいるちょうど真下あたりが、丸く盛り上がっている。
駐輪場のコンクリートの地面に大きな亀裂が走った。
「逃げろ!」
一爽も叫んだ。
地面を揺るがす爆発とともに、真っ白な水蒸気が吹き上がった。
一爽は耳を抑えて、地面にうずくまった。
駐輪場の地面にあった四角い鉄の蓋が吹き飛んでいた。地下に埋められていた雨水の貯水槽からごうごうと蒸気が上がる。
爆破の衝撃で、数メートル空中に舞い上がった自転車の影が地面に映るのを、一爽は音のなくなった映画でも見ているような気持ちで見守った。
がしゃん。どしゃ。
一瞬のちに、空から自転車と熱湯が降ってきた。ねじ曲がったホイールとちぎれた破片が周辺に飛び散る。まるでシュールレアリズムの絵のような惨劇を、白い蒸気が覆っていた。
一爽は鼻と口の粘膜を熱い水蒸気に灼かれながら、なんとか服の布地越しに細く息を吸った。
血の匂いがした。
「が、はっ」
誰かの苦しげな息がきこえた。
「永友くん!!」
真尋の悲痛な声が響く。
優吾のTシャツを破って自転車のハンドルが突き出ていた。服が血を吸ってみるみる赤く染まっていく。
優吾自身も、自分になにが起きているのかわからないようだった。きょとんとした顔で、真尋から手をはなし、震える指で腹から突き出たハンドルのゴムを巻いた部分に触れた。
優吾は一瞬、すがるような顔で一爽を見た。
直後に、ぴゅっと細く血を吐いて地面に崩れた。背中から自転車のハンドルに貫かれて、優吾は細かく痙攣していた。
真尋が狂ったような悲鳴を上げた。
一爽は自転車の残骸を踏んで優吾に駆け寄った。
「……まひろ、さん」
倒れたままの優吾が、震える手を真尋にさしだした。真尋は命綱でもあるかのように必死でその手を握った。
「待ってて、救援を呼んであげる」
あわててもう片方の手でワンピースのポケットをさぐり、タブレットを出した。
「優吾! 大丈夫だからな、優吾」
一爽も呪文のようにくりかえした。
顎が震えて、うまくしゃべれない。
優吾は真尋の手を、自分の腹に開いた穴にぎゅっと押しつけた。
「何してるの! 傷が広がるでしょ」
思わず手を引っ込めようとする真尋の手首を、優吾は恐ろしいほどの執念で握りしめていた。
「早く……触って……‥ください。肺も……心臓も」
――自分が生きているうちに。生体のうちに。
赤い泡を吐きながら、優吾が訴える。
一爽は戦慄した。
優吾は傷ついた自分の体を、真尋の資料として差し出そうとしているのだ。
肺が生体間でしか移植できないのは、持ち主の死亡と同時に空気が抜けてしぼみ、細胞が壊死してしまうからだ。だから優吾は、生きて呼吸をしている肺に、じかに触れさせようとしている。
複雑な臓器を作るための、生きる資料になろうとしている。
「……作って……ください。……あなたは、この世界を、変える人だ」
優吾が苦しげにうめく。激痛に顔をゆがめながら、歯を食いしばって手を内部に進めようとする。
今度こそ真尋に作ってもらうのだ。自分の生体から、健康な肺を。優吾の目がそう訴えている。
一爽は息もできないほど嗚咽していた。いつから親友は、こんな重い決意を固めていたのだろう。あるいは、今、思いついたのか。この体を捧げることを。世界中で苦しんでいるたくさんの彰吾と、そして優吾を救うために。
「永友くん!」
優吾の荒い息が細くなり、目の焦点が合わなくなってきた。意識が遠のきかけている。
がくん、と首がのけぞった。優吾は出血性のショックで激しい痙攣を起こし、打ち上げられた魚のように暴れた。
それでも――大きく見張った優吾の瞳が訴える。
想像を絶する苦痛と、その先にある想いを。
真尋は優吾のかたわらに膝をついたまま、肩を揺らして泣いていた。泣きながら、指先を一度きゅっと握りしめた。
神経を集中させ、真剣な顔つきになる。
「……やって、くれるんですね。真尋、さん」
一爽がしゃくりあげながら確認すると、真尋は唇を噛みしめながら、苦しい表情でうなずいた。
「私は、この運命から、逃げない」
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