第三章 孤独な少年たち7
しばらくうろついて、トイレの入り口前に椅子をみつけて腰掛けた。
「お兄ちゃんの弟、病気なの?」
はじめが急に真剣な顔をして優吾を見上げてきた。
「はじめくん、俺たちの話きいてたのか」
「だから、いつも僕や病院の子に優しくしてくれたの?」
優吾は弱々しく首を振った。
「そんないい人間じゃないんだよ、お兄ちゃんは」
「弟のためにお金がいるの?」
一爽は内心驚いていた。見た目、幼いと思っていたが、はじめにはちゃんと年相応の理解力があるのだ。
「うん、そう。すごくたくさんお金が必要でね」
「そうなんだ。元気になるといいね」
「うん。でも、そのためにはお金だけじゃなくてね、他の人が死ぬのを待たなくちゃいけないんだ。そしてその人の肺をもらって移植しなくちゃいけない。俺はそれもつらくてね。自分の家族の命が惜しいからって必死でお金を集めて、それなのに他の誰かの死を待たなくちゃいけないなんて、なんて意地悪な世界なんだろうって。……そんなこと考えるなんて、僕は本当に最低だな。母さんの頑張りも踏みにじってしまったし。ここでは友達をだましていた」
「弟のために、でしょ。お兄ちゃんは悪くないよ」
はじめが心配そうな顔になる。
「ありがとう。でもね、もういい人でいるの、疲れちゃったんだ」
優吾の目から新しい涙がひとすじつたった。
「俺はもう、いいお兄ちゃんでいるの、疲れちゃったんだ。だから、ここでお金を稼げたらそれをあげて、家族とは距離をとろうって思ってた。もう彰吾のお兄ちゃんでいるのも、あの両親の子供でいるのもやめて、どこかで自由に暮らしてみたいって思ってた。自分のためだけに生きてみたいって思ってた」
今優吾の頬を濡らすのは、誰かのためではなく、ずっと頑張ってきた自分のために流す涙だった。
困惑してみつめるはじめの前で、優吾は両手で顔をおおった。両膝に肘をつき、顔を伏せる。
「逃げ道が欲しかったんだ。あの家から逃げたかった。弟のためなんかじゃなく、全部、自分のためにやってたんだよ」
自分のために――契約金の三千万円は、優吾にとって弟の命を救うと同時に、兄としての重荷から解放されるための金だった。そのために戦闘でも監視でもなんでもする、と決めたのだった。
「あれ、お兄ちゃんも泣いちゃった?」
はじめが手を出して、優吾の髪を、もさもさと撫でた。
泣かないで、泣かないで。
まるで痛みを緩和する優しい呪文のように何度も唱えながら。
一爽は優吾の前で精一杯つま先立ちしているカエルの長靴を、せつない気持ちで見守っていた。
※ ※ ※
「あれ、はじめくん、どこ行った?」
一爽は、はっとあたりをみまわした。優吾もあわてて袖で涙をぬぐって顔を上げた。
はじめの姿が見えない。
「おかしいな。さっきまで近くにいたんだけど……」
ついさっきまで、泣いている優吾を慰めようとしたり、「お兄ちゃんが泣き止むように、なにかいいもの探してくるね」とトイレ前の通路を行ったり来たりしてきたのだ。
なのに、少し目を離したすきに視界から消えてしまった。
一爽は立ち上がってきょろきょろとあたりを探すが見当たらない。身長は低いが、カエルの傘はかなり目立つはずなのに。
「やだ、迷子?」
真尋はまだ少し目のふちを赤くしていた。それでも気丈に売り場を歩き始める。優吾もはじめの名を呼びながら、催事場を歩きまわった。
「葉月くん、あれ」
真尋が指さすほうを見ると、数メートル先でカエルの傘が、ぴょんぴょん、と揺れていた。止まったままのエスカレーターを降りていくところだった。
「はじめくん!」
「どこ行くの」
一爽と真尋は駆けだした。はじめはまるで逃げるように、足音を響かせて下りていく。ふたりがエスカレーターの乗り口に着くまでに、すでに下の階まで着いてしまった。
「はじめくん!」
「待って、どうしたの?」
はじめは、一階で立ち止まった。傘を傾けて頭上を見上げる。幼い顔がのぞいた。
「僕が、青鬼になってあげる」
一爽と真尋は言葉を失った。エスカレーターの上階で釘付けになったように棒立ちではじめを見つめる。優吾があとから追いついてきた。
「真尋お姉ちゃんは好きな人に会いに行かなくちゃ。優吾お兄ちゃんは弟の命を助けて自由になるんでしょ。だったら僕が青鬼になってあげる。そしたらみんなが幸せになれるんでしょ」
(ああ、彼にはそこまで理解できていたのだ)
一爽は焦った。
「だめっ!」
真尋が声をふりしぼった。
「だめ。そんなことしたら、はじめくんは死んじゃうんだよ。わかってるの?」
真尋が精一杯怖い声を出している。その権幕に、はじめは不安そうにうつむいた。
「うん。死んじゃうのは怖いけど。でも、もう僕、病院には戻れないよ。こうやって自由に自分の足で歩けるの楽しいし、お買い物ごっこするもの面白かったし。アイスもパンもおいしかった。もう前みたいに病院で、ベッドの中だけで暮らすことなんてできないよ。僕はもう……悪い子になっちゃったんだよ」
「はじめくんはなにも悪くない」
優吾も懸命に声をあげる。
はじめが階下から優吾に笑いかけた。
「優吾お兄ちゃん、僕ね、昨日の一日が、今まで生きてきた中で一番楽しかった」
そして、何か思い出すように中空をじっとながめた。
まるで見えない黒板の文字を読むようだった。
「……僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一節だ。優吾が読みきかせた言葉を、はじめはちゃんと覚えていたのだ。
はじめは踵を返した。出入り口へ向かって走りだす。真尋と一爽も、一斉に駆けだして、小さな後ろ姿を追いかけていった。
はじめをつかまえたのは、出入り口の自動ドアを出て右手にある駐輪場の前だった。長靴を履いてまだ走り慣れていないはじめは、思ったより簡単につかまった。
十台ほどの自転車が、白線の囲いの中に整然と並んでいた。白線の外にランタンを模した街灯が等間隔で並び、桜草を植えたごく低い植え込みが細長く続いて公道との境を作っていた。
一爽が腕をつかむと、はじめは抵抗した。追いついた真尋がその肩をつかんで、荒い息を吐きながら揺さぶった。
「だめよ。君は、正義の味方のほうになるの。私と戦うのよ」
「僕は……」
「君は、君はね、もうすでに人を殺してるの。だからそんなことしたら、すぐに君が殺されちゃうの」
「真尋さん!」
はじめは抵抗をやめた。脅えた瞳で真尋の目を見つめかえす。
「昨日も言ったよね。君はね、生まれた時に事故を起こしてるの。悪気がなくても君の能力はとんでもなく危険なの。自分が世間にどう思われてるのか、ちゃんと自覚して」
現実を見ろ、と真尋は言いたいのだろう。それでも、その言葉ははじめにとってあまりにも重い宣告だった。
「やっぱり……僕のお母さん、僕のせいで死んじゃったんだよね?」
真尋はきっぱりとした顔でうなずいた。
「だからこそ、その罪をすすがなくちゃいけない。君が生きていくために。みんなのために戦っているところを見せなくちゃいけない。君が人類の敵じゃないってことを信じてもらわなくちゃいけない」
ひざまずいた真尋に、がくがく揺さぶられるはじめ。その顔から、少しずつ表情が消えていった。
人が絶望するときは、こんなふうに何も感情が枯れてなくなってしまうのかもしれない、と一爽は胸をえぐられるような痛みとともに思った。
「……お兄ちゃんも、それを知ってたの?」
空洞のような目が、責めるでもなくただ真尋の背中越しに、あとからやってきた優吾の姿を映している。森の奥の湖水のような淡い色の虹彩は、気味悪いほど静まりかえっていた。
「……あれは君のせいじゃないんだ。不幸な事故だ。誰も、生まれてくる境遇を選ぶことはできないんだ。君はたまたま重いものを背負わされただけ。君の罪じゃない」
優吾は苦渋に満ちた声を絞り出した。
GIVEN。与えられし者。神からの贈り物。
昨夜、類は自分たちの能力をそう呼んでいた。
――生まれつき重いものを背負わされただけ。
自分たちプラチナベビーズは本当にGIVENなのだろうか。
「なあんだ」
はじめは無表情に言った。
「なあんだ。僕ははじめっから、悪い子だったんだね。じゃあ、悪者を演じる必要なんてないんだ」
「はじめくん!」
一爽は、熱の塊をぶつけられたような圧迫感にたじろいた。急激に周囲の温度が上がっている。一爽のスニーカーの底が解けて、駐輪場のコンクリートに、ねちゃっと変な音を立てた。
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