第五章   狩野遥馬3

   ※   ※   ※


 遥馬は、本部執行室にひとり座ったまま目を閉じていた。

 この島に自分の父がいるはずはない。これは幻覚かなにかのはずだ。それでも、ふたたび目を開けると、彼はまだそこにいた。

 この男が、まともに妻子を養わなかった。それが自分たち姉弟の不幸の始まりだった。

 類が説く『平和的な解決』や『平和な未来』と、遥馬が今よりほんの少しだけまともな暮らしがしたい、まともな教育が受けたいと望むことが、なぜこの世界では両立しないのだろう。

『軍事産業の金にたかる俺達みたいなウジ虫がいるから、いつまでたってもこの世界から戦争がなくならないんだ』

 それは遥馬が、いらだちにまかせて類に叩きつけた言葉だ。

(そうだ。俺は戦場の死体にたかるウジ虫だ。だがウジ虫にだって生きる権利がある。羽化して飛び立つ権利がある)

 金のない苦労を一番知っているはずの姉の理央は、遥馬を裏切った。

『私は類の考えに一票入れる。お金は命には替えられない。私はまた惨めな生活に戻ってもいい。それでもいいから、遥馬に生きていて欲しい』

(俺が一人で生き残ったところで一銭にもならないじゃないか)

 遥馬はいらだつ。

 すでに、春待太一が負傷し、永友優吾が命を落とした。水渓澄人も死線をさまよった。ここで契約金が発生しなかったら、彼らにどう報いることができるだろう。

(もう引き返すことなどできない)

 遥馬は一瞬、父の背中を、力一杯蹴り飛ばしてやりたい衝動にかられた。

 お前が! お前のせいで!

 何度も何度も、蹴りあげ踏みにじってやりたい。

 それなのに、体は動かなかった。喉がふさがったように言葉さえも出なかった。息子に土下座をしなければならない人生をこの人は生きたのだ。それはそれで、どうしようもなく惨めな人生だと、遥馬は憐憫さえ感じていた。

 遥馬は、息子の断罪に震える薄汚れた背中を見ていた。以前にこんな姿勢で父親に蹴られたことを思いだした。遥馬が父親と話した最後の記憶だ。

 あれは小学五年の冬のことだ。わずかな小遣いとお年玉を入れた、貯金箱と財布を抱えて遥馬は床の上に丸くなっていた。

「ほら、二倍、いや四倍にして返してやるって言ってんだよ。お前が持ってたってどうせ、漫画かなんか買っておしまいだろ? だったら俺が有効に使ってやるって言ってんだよ」

 父は、相手が遥馬でも容赦なく金をせびった。

「ほら、一発当てたら遊園地も連れてってやるし、欲しがってたゲーム機だって買ってやる。お前だってそのほうが嬉しいだろ?」

 遥馬が動かずにしゃべらずにひたすら腹を内側にして丸まっていると、尻のほうから力一杯蹴り上げられた。遥馬が泣きだすと、父親は力ずくで裏返し、貯金箱と財布をむしりとって出ていった。

 遥馬は父親の背中を見て思った。

(ああそうか。この人もそうだったのか。一発あてて、人生を変えたかったのか)

 仕事を失い、妻の細々とした収入にすがって貧しい生活をするなんて、みじめで耐えられなかったのだろう。

 一発あてれば。

 子供を遊園地に連れて行ってやれる父親。

 子供に欲しがっていた玩具を買い与えてやる父親。

 人並みにそんなものになって、胸を張って家に帰ってくることができたのか。だから必死になって、現実味のない可能性にすがろうとしていたのか。

 今の人生は、自分の本当の人生じゃない。

 今の自分は、本当の自分じゃない。

 自分は、もっと他人に尊敬される存在のはずだと。

 自分の生き方は、もっといいことがあるはずだと。

 だからこそ今まで我慢して必死にやってきたんじゃないか、と。

 ほんの少し見栄を張って、過信して。

 捨てきれない希望をもてあまして。

 たどり着いたところはここだ。

 ――プラチナベビーズと交戦し、三千万円を手に入れる。契約者の生死は問わない。

(そうだよ。俺は、まぎれもなくあんたの息子だ)

 人生の一発逆転ができると信じて、全てをつぎ込んでしまった。もうこの命さえ、自分のものではなくなってしまったかもしれない。

 どこで間違えたのだろう。どうすればよかったのだろう。

 遥馬には今もわからなかった。

 ただ、誰かに謝ってほしかったのかもしれない、とかすかに思った。

 苦労させた。苦しめて悪かった。お前たちはなにも悪くない。

 誰かにそう言ってほしかった。この嘆きを受け止めてほしかった。そうすれば、自分の人生は、どこかで変わっていたのかもしれない、と。

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